浦風(うらかぜ)は、日本海軍の駆逐艦。浦風型駆逐艦の1番艦。艦名は「浦辺に吹く風」の意味。陽炎型駆逐艦「浦風」に引継がれた。仮称艦名「第35号駆逐艦」。1912年(大正1年)12月27日にヤーロー社と製造契約を結び、1913年(大正2年)10月1日起工した。1914年(大正3年)9月12日に「浦風」と命名され、同年12月6日一等駆逐艦に登録された。1915年(大正4年)2月16日午後1時50分進水、同年9月14日竣工。第一次世界大戦の最中の竣工であり、大砲は日本より輸送して取り付け、弾薬はアームストロング社と交渉して購入、魚雷発射管は取り付けられていなかった。9月15日ヤーロー社の係船池を離れ、同日グリーノック港に停泊、重油タンク満載(248トン)の他に缶入りで50トンを上甲板に積み、計298トンを搭載して、翌16日午後に出港しジブラルタルに向かった。ドイツ潜水艦の危険を避けるために終始20ノットで航行し、潜水艦の脅威が去った後も、重油は寄港地ごとに準備されており消費量が予想より少なかったことと、将来の重油燃料艦のための実験として、一部を除いて終始20ノットで航海した。19日夕方ジブラルタルに入港し重油を搭載、以降各地で重油を搭載する。ジブラルタルを21日出港、マルタ島・バレッタ港に23日入港、24日出港、ポートサイド26日入港、直ちにスエズ運河に入り翌27日に運河を抜けてスエズ港に入港した。28日出港しアデン10月1日入港、4日出港、7日には重油漉器が詰まり約1時間漂泊したが、他に問題はなかった。ボンベイ(現ムンバイ)に7日入港、11日出港、13日コロンボ入港、当日出港し17日シンガポール入港翌18日出港、航行中に燃料消費試験を行い、22日には低気圧の強風により12ノットから15ノットに減速、動揺が30度に達し、後部マストが折れた。同日香港着、マストを応急修理し翌23日出港、27日横須賀港に到着した。横須賀では魚雷発射管搭載などの残工事を行ったが、11月4日の特別観艦式のため工事を前後2回に分けた。12月1日第16駆逐隊(海風・山風で編成)に追加され、この時の第16駆逐隊は連合艦隊第1艦隊第1水雷戦隊に所属していた。連合艦隊は同月13日に編成を解かれ、第16駆逐隊は第2艦隊第2水雷戦隊に新たに所属した。1916年(大正5年)9月26日に巡航タービン装備の訓令が横須賀鎮守府宛に出され、実際には1918年(大正7年)に搭載された。1919年(大正8年)2月に巡航タービン新造公試運転成績表が提出されている。また1916年12月5日から翌1917年(大正6年)6月5日まで横須賀海軍工廠で機関室通風装置其他新設の工事を行った。その間1917年4月1日に第16駆逐隊を離脱した。1926年(大正15年)12月1日から第1遣外艦隊に所属、揚子江方面の警備に従事した。1933年(昭和8年)5月20日、第3艦隊が常設艦隊として編成され、本艦は第3艦隊第11戦隊の所属となった。1936年(昭和11年)7月1日除籍、同日横須賀海兵団に引渡され、練習船として使用された。1940年(昭和15年)4月1日「廃駆逐艦第18号」と仮称、1945年(昭和20年)7月18日の空襲で被弾着底し、1948年(昭和23年)5月27日から8月15日に浦賀船渠で解体された。また『日本海軍全艦艇史』では同年9月9日に振東鉄工により浮揚、解体とある。浦風 [I] - 江風 [I]
出典:wikipedia
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