神坂村(みさかむら)は長野県南西部にあった西筑摩郡(現在の木曽郡)の村。島崎藤村の出生地である馬籠宿は1958年10月13日まで同村であった。1958年10月15日に岐阜県中津川市に越県吸収合併されて消滅しているが前日には隣接する山口村に馬籠集落が編入されている。これについては「島崎藤村」騒動についての項目を参照。1957年3月18日、神坂村議会は「岐阜県中津川市との県境を跨いだ合併」を賛成多数で可決。その後中津川市議会・岐阜県議会も賛成したが長野県議会だけは反対多数で否決した。長野県議会が反対した理由は「神坂村は信濃国・長野県を代表する文豪島崎藤村の生誕地である。もし神坂村が長野県を離れて岐阜県に持っていかれたらそれだけでも大損失である。」ということからだが県を代表する人物の生誕地という理由で反対したことがきっかけとなったため後にこう呼ばれるようになったのである。岐阜県議会も賛成までは全村合併が規定路線であったため村は平穏だったが長野県議会の反対以降急転、村は岐阜県合併派・長野県内合併派に分裂し意見対立から隣同士が目を合わせないといういがみ合いが発生。ついには長野県警の機動隊が常駐するという最悪の事態まで発展した。騒動は内閣総理大臣の裁定にゆだねられることとなったが結果は「越県合併を認める」。しかし自治庁の裁定で「馬籠など北部3集落は長野県残留、その他は岐阜県へ」 と決められ結局両県納得という形で幕引きとなったのである。こうして上記の形で越県合併されて消滅したのであった。騒動のさなか一番つらい思いをしたのが当時の子供たちで、唯一の教育機関、村立神坂小中学校は対立以降長野県内合併派の子供が村八分状態にされ、村内の寺などを借りて授業を続けていたが合併が決まり中津川市立となるや完全に弾き飛ばされてしまった。そこで長野県は山口村立神坂小中学校を作って受け皿を作るなど対応に追われた。しかし山口村に編入された旧馬籠村地区にも岐阜県合併派がいて、学校が出来て以降、今度は同派の子供が同校の出席を拒否して地区内の民家を借りて授業を続けるという事態が起きるなどしこりが残っていた。47年後の2005年2月13日になって、山口村が岐阜県中津川市に越県合併された。その際田中康夫長野県知事は当初「村の行方は住民が決めること」と静観していたが、後に反対に回った。長野県議会は当初反対し、それが知事にも影響したが、最終的に賛成に回った。これは騒動が長野県議会の反対から村を二分する騒動に発展し(当時の)子供達につらい思いをさせていたことが禍根になっていたことが考えられる。
出典:wikipedia
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