小金牧(こがねまき)は、江戸幕府が現在の千葉県北西部の下総台地に軍馬育成のため設置した放牧場である。享保以降は、5つの「牧」による構成となり、小金五牧の通称もあった。江戸時代以前からの牧を継続する形で慶長年間に設置され1869(明治2)年まで存続した。年号は原則として、多くの資料と統一するため、この形式で示す。今の千葉県には幕府の牧として、県中央〜北東部に、小金牧と共に設置、下総牧と総称もされた佐倉牧があり、県南部には遅れて嶺岡牧が設置された。小金牧に関しては青木更吉が第一人者で、著作に詳しい記述がある他、地元の研究家の調査がある。近年の研究として、『下総台地における牧景観の特徴とその変容過程Studies on the Characteristics of Pasture Landscapeson Shiousa Plateau and Their Transformation Processes』(宮本万里子2012年)(以下宮本論文)がある。年号等、重要な箇所での誤植等がああるが、小金牧の変遷をインターネットで明示した他に類を見ない論文である。古くから千葉県北部は軍馬育成の地として知られ、『延喜式』にも牧の記述がある。諸国牧参照。鹿島神宮・香取神宮との歴史的地理的関係ともあわせ、起源は「蝦夷」征伐時の前線への軍馬の供給にさかのぼると推定される。宮負定雄は1845(弘化2)年『下總名勝圖繪』翌年の『吾嬬免具理 下総國の部』で脇高神社(香取市側高神社)の神が東北地方で捕えた千頭の馬を神社周辺の現香取市牧野で放したとの伝承を記している。『和名抄』に葛飾郡厩戸の地名があり、相馬御厨・夏見御厨があった地域、平将門との関係も深い地域である。697〜707年在位の文武天皇の時代が、当地域での馬の飼育の始まりという伝承が、1923(大正12)年『千葉縣東葛飾郡誌』(以下、東葛飾郡誌、他の郡誌も同様)、1894(明治27)年『下総御料牧場沿革誌』、上野山清貢『文壇人の観たる房総』収録の『三里塚風景』等にあるが、続日本紀文武紀の「諸国に令し牧地を定め牛馬を放ち」との記述が基と考えられる。『平家物語』・宇治川の先陣争いの池月も同地域産で国道6号と国道16号が交差する柏市「呼塚」は同馬を呼んだ塚に因む、同馬が松戸市高塚(現高塚新田)に葬られたとの伝説があるが、同様の話は他県にもある。当地域は千葉相馬氏発祥の地で、相馬野馬追で知られる福島県相馬地方にも小金牧と共通する後述する野馬土手等の遺構がある。平将門・千葉氏・高城氏・相馬氏の相互関係、当地域との関連、当地域の松戸・馬橋・幕張(馬加)の語源は当該項目参照。1614(慶長19)年を牧の制定とする伝承が多い。半野生の馬、野馬のいる牧の引継のため、特定は難しいが、幕府による制定を牧士頭の任命時とすれば、1858(安政5)年『成田名所図会』1903年『成田山名所図会』前掲『下総御料牧場沿革誌』等、牧士頭の任命を慶長19年とする伝承が多い。が、後に牧士が由緒書を出す際に合わせた可能性もある。『日本伝説叢書』では、天正年間徳川氏開府から始まったが、制度が明らかになったのは慶長19年とし、享保年間に野付村が定まり、寛政年間改正があったとしている。牧を管理した現地役人は牧士(もくし)と呼ばれ、苗字帯刀等武士の格式を持ち、鞍を置いての乗馬、野犬等から馬を守るための鉄砲の所持携行も認められた。牧士は文武天皇の代に設けられた職制・身分で、呉音訓である事も古い起源を裏付ける。当地域での任命は北条氏政の弘治年間で牧の成立も同時期である事を示す。初期は主に千葉氏・高城氏の旧臣、後には地元の名主等が牧士に任命された。1619(元和5)年には小金牧の牧士が存在したが、牧の仕事に限っての苗字帯刀御免の特権も当初はなかった事が大谷貞夫らによって示されている。世襲の牧士頭、享保年間以降の野馬奉行も小金の綿貫家が任命された。名は初代が重右衛門でその後は夏右衛門とした場合が多い。綿貫氏は千葉氏一族で、相馬氏ともつながり、小金城主高城氏の姻戚である。200年以上後の1845年(弘化)没の12代政直の墓碑銘に、旧暦4月1日、江戸表で徳川家康直々に野馬奉行兼牧士支配へ任命され、袷を着るべき時季に袷がなく、綿を抜いた綿入れを着て来たため、家康の命で、氏を綿貫と改め四月朔と号したとある。この話は、後世の創作の可能性が指摘されている。同様に、「野馬奉行」も1755(宝暦5)年提出の綿貫氏『由緒書』等の影響による後世の呼び方である。1918(大正7)年『房総町村と人物』「綿貫政吉」の項に、野馬奉行任命は慶長11年4月1日陽春で、綿入れの綿を抜くために登城が1日遅れ、訳を聞いた家康の命で綿貫と改姓したとあるが、該当箇所の第2節の前の第1節が第2節、野馬奉行任命から大政奉還まで13年とする等の数字関係の誤植が多く、慶長11年の誤植の可能性が否定できない。今も、四月一日と書いて「わたぬき」と読む姓があり、昔は4月1日に綿入れの綿を抜いて袷として着用したという俗説があるが、収納目的ならともかく、立夏のこの時期まで全国での厳冬期用の綿入れの着用は難しい。重右衛門の登城が1日遅れる必要もない。野馬奉行は房総の三牧を支配した。『東葛飾郡誌』では野馬奉行綿貫氏邸に、14代将軍の乗鞍・水戸家所賜太刀・赤穂義士岡島某所帯短刀があり『房総町村と人物』では将軍の鞍は3組としている。野馬奉行の屋敷については後述する。『東葛飾郡誌』収録の貴族院議員三橋彌による明治39年1月1日千葉毎日新聞掲載の解説では牧の成立を慶長9年としている。陽成天皇の時代としているので、慶長19年の単純な誤植ではない。三橋家は牧士を務めた家柄の一つで、鎌ヶ谷市中央公民館は別名三橋記念館である。『千葉県議員名鑑』に1932年9月、三橋彌は65歳とある。慶長19年以前の馬の献上、払下げの資料もあり、牧が継続して運営されていた事が判る。いずれも、小金牧の成立を慶長年間としている。酒々井町では、小金牧と佐倉牧が分かれ、また、佐倉牧で新たな牧士が徳川幕府によって任命されたのが、慶長19年とする資料を示している。享保期まで、牧士頭は小金牧と佐倉牧を管轄した。牧に接した一帯は徳川将軍家、水戸家の鷹狩の場であった。時期によって変遷はあるが、ほぼ、中野牧から西が将軍家、中野牧の北から東、上野牧の西と南が水戸家の鷹場であった。1633(寛永10)年2月13日または1646(正保2)年、牧に隣接して水戸家の鷹場が置かれ、水戸侯の捕馬見物の記録もある。『水戸光圀卿生誕三百年記念講演』には、寛永10年2月、光圀6歳の時、父頼房に猟地を下総小金原に賜はるとある。少なくとも、光圀が1642(寛永19)年8月7日〜13日、頼房が1645(正保元)年11月2日〜15日まで「小金の狩場」で狩を行った。綱吉の時代に中断、1717(享保2)年7月5日再び水戸家の鷹場が置かれた。小金宿と水戸家の関係は中野牧の節参照。初期には、7牧が存在したが、享保の改革に伴い、代官小宮山杢之進により、統廃合が行われ、野田の庄内牧は廃止、鎌ヶ谷の一(壱)本椚牧は中野牧に統合され、現・柏から船橋・白井にかけ、北から、高田台牧、上野牧・中野牧・下野牧、やや東の印西牧の五牧となった。『日本伝説叢書』は、上野・中野・下野を小金と称え、別に印西牧があった、とし、高田台牧がないため、高田台牧は享保期以降、上野牧から分かれた事が示唆される。上野中野下野の名称と、『郷土の史蹟:新風土記』に、上中下(カミナカシモ)の三牧とある事も矛盾しない。中野牧に示す享保期の資料に一本椚牧があり、一本椚牧そのものか、少なくとも地名の残存を示す。『徳川実紀』に、吉宗が「蘭舶に託しペルシャの馬をめしよせられ」、農商務省農務局『輸入種牛馬系統取調書』(以下、取調書)に吉宗が享保年間、洋種馬28頭を購入、房総の緒牧と産馬の地に配布した記述がある。上野牧の節に、この時の馬に関すると見られる伝承を記す。1719(享保4)年6月11日「陸奥の國白川の地より牝馬二十疋をめさる。これやがて下總國小金の牧をひらかるるためとぞ」と徳川実紀にある。1722(享保7)年8月9日「代官小宮山埜之進昌世に命ぜられしは佐倉小金等の牧地新田林などのこと聞えあげしことく心にまかせ慮置すべし 野牧の道途修理なども牧士の長綿貫夏右衛門に指揮してはからふべしとなり」と『徳川実紀』にある。まだ、野馬奉行とは記されていない。『東葛飾郡誌』収録の三橋彌の記事によれば、牧を南北に分け南の中野・下野を江戸表より出張の代官の執務する事とし、上野・高田・印西を牧士頭預りとした。同時に牧士頭の名目を廃し野馬奉行としたとある。牧士も南北の2部に分け、各部に目附牧士2名を置くに至った。牧士8人の内、目附牧士2人、勢子頭2人、勢子頭は目附牧士に次ぎ、給金は目附牧士8両他は5両とある。以前は馬が支給された。牧士の下に、牧士見習、捕手、馬医、名主等が当てられた村役人、勢子人足がいた。「野馬奉行」について『徳川実紀』と矛盾しない。『三橋家文書』に基づき大谷貞夫らは野馬奉行任命を享保期後半から延宝とし、実際の野馬奉行任命の時期は1731(享保16)年頃としている。野馬奉行も参照。牧の範囲は享保以前は広範囲に及ぶやや曖昧なもので、場所の変遷もあり、享保以降は牧内での新田開発・耕作も行われた。1724(享保9)年8月、馬が野になじまない時の陣屋での飼育とその後の野馬としての放牧の記述がある。1725(享保10)年3月、吉宗が第1回の鹿狩を行った。以降の鹿狩の詳細については小金原御鹿狩および中野牧の節参照。1725(享保11)年3月、吉宗が第2回の鹿狩を行った。1726(享保11)年11月「綿貫夏右衛門預かれる牧馬の地」での防堤(野馬土手)の構築と維持、馬が死んだ場合等の村から牧士への届出について令した記録があり、牧についても改革が進められた事を示す。水田のない畑作新田も含め新田開発も行われ、牧に新田が近接する結果となり、新たに野馬土手が築かれた。牧内でも開発が行われ、新田と入り組んだ所も多い。この時築かれた物を新土手、新堀、新木戸等と呼ぶ。谷津へ舌状に突き出した台地の先を、土手を築いて仕切り、先を新田とした所が多く見られる。1726(享保11)年の鹿狩の後、将軍の馬が牧に放たれた事、後に馬の体から胆石が出た事、胆石を明治天皇が見た事を白井市が紹介している。1729(享保14)年の頃、伊豆大島から来た4人の男を松下伊賀守が小金の牧に連れて行き馬を捕獲させたとの話が『古事類苑』『南部馬史』にある。1794(寛政5)年、整備が進み、牧は代官岩本正倫(石見守)が命名した。中野・下野牧は現松戸市陣屋前の金ヶ作陣屋の管轄、御小納戸頭取支配となり、雉子橋の野馬方役所から代官が出向いた。小金牧の他の牧と、佐倉牧の佐倉藩預以外の牧を野馬奉行が管轄し、小金御厨とも称した小金宿の奉行宅で事務を扱った。享保から命名まで間があり、後述の『下総国旧事考』(以下、旧事考)等で名称の混乱が見られる。1794(寛政5)年2月19日、御納戸頭取岩本石見守殿掛りにて御改、上野、中野、下野、高田、臺、中澤、印西、白子、鎌ヶ井、流水、日暮、金ヶ澤、千飼、藤ヶ谷、小山、柴崎、馬柳、柏井、岩井、長澤、栗山、中根、と前掲『南部馬史』にある。順に、上野〜下野は牧の名称と一致する。高田、台でなく、高田台は牧の名称、鎌ヶ谷市中沢は中野牧捕込に接した区画であった。印西は牧の名称、白子は中野牧捕込の所在地である。鎌ヶ谷は下野牧捕込の所在地である。流水は不明である。松戸市日暮に御囲、北に隣接した金ヶ作に陣屋があった。流山市千ヶ井に隣接し上野牧の捕込の大込があった。中野牧〆切御囲の東に藤ヶ谷があるが、中野牧とは大津川で隔てられている。小山は不明である。柏市柴崎の西に高田台牧の捕込があった。中野牧の東の区画に接し、高柳はあるが、馬柳は不明である。千葉市柏井の西に下野牧のた区画があった。岩井は不明である。上野牧の北の区画に接し流山市深井長沢がある。栗山は不明である。印西牧の西に、白井市中と根があるが、中根はない。1795(寛政7)年、家斉が鹿狩を行った。馬は牧別に焼印が定められ管理された。焼印は綿貫家文書と、『旧事考』でそれぞれ、琴柱と千斤、千鳥と飛鳥、輪違と重環はほぼ同じ図案である。『旧事考』に、上野・中野・中野御囲・下野・印西で五牧とするとある。牧は庶民にも知られ絵画や紀行文に記録が残る。歌川広重の『冨士三十六景・下総小金原』はどの牧か特定は難しい。歌川国芳の川柳絵『小金原チヨロチヨロとむる馬ツころ』は中野牧の可能性が比較的高い。松尾芭蕉による記録、渡辺崋山の絵画については中野牧、小林一茶の句については高田台牧に記す。天正期までは「金」と記す事の多かった小金が金原亭馬生の名のもととなった。馬の捕獲は庶民の娯楽となり、見物人目当ての茶店、そば屋・飴屋・団子屋・甘酒屋等が出るほど賑った。詳細は各牧の項参照。佐藤一斉の『題小金原捉馬図巻』が『近世四大家文鈔』にある。文中に壬戌とあり、1802年の捕馬の記述と考えられる。古くは、小野忠明(典膳)と善鬼の、小金原の決闘があったとの話もあるが、場所が違うとする話もあり、詳細は不明である。1836(天保6)年『小金江御馬野放』の文書が残る。1848(弘化5)年『下総国旧事考』が出版された。1849(嘉永2)年家慶が鹿狩を行った。1868(慶応4)年大政奉還。明治と改元されたが、牧の運営は続けられた。『東京官員録』「野馬方」の「野馬頭」に綿貫夏右ヱ門の名があり、夏右ヱ門が襲名され、引続き牧の管理に当たっていた事が示される。1869(明治2)年、牧は廃止、『東京府戸籍改正ニ付無産ノ徒武州小金原ヘ移シ開墾ニ使役附下総国三牧其他不毛地開墾東京府掌管』として、東京府管轄で開墾が開始された。表向き、開墾後の土地は入植者に、また、現地で開墾を取り仕切った三井組主体の開墾会社とその出資者に出資額に応じた土地を与えるとされていた。開墾・入植にあたり、会社は『東京授産場』を設け、授産場を、築地合引橋、同備前橋(岡山藩上地)、深川伊予橋、渋谷羽根沢村、深川加賀新田、物置場を、深川扇橋、同八左衛門新田に置いたと『小金原開墾之不始末』にある。後述する豊四季の稲荷神社内『開拓百周年記念碑』には、入植者が旧備前邸等で予め訓練を受けたとある。『東京府へ掛合築地元備前邸地所御引渡方の件』で、築地本願寺北の旧備前藩屋敷である事と1972(明治5)年には、不要になっていた事が確認できる。『東京都公文書館蔵書目録(明治期)』では、築地出張所開墾局とある。入植の後、会社は入植者からの搾取、土地の奪取に力を注ぎ、『小金原開墾之不始末』には、住民の弾圧には警官も直接関わっていた事、三井の社員が入植者に勝手にノルマを課し、達成できないと懲罰房に入れる等、無法の限りを尽くした事の記述がある。一方、田中久右衛門『維新以来三井家奉公履歴』に三井は開墾事業の総頭取を拝命した事、明治政府に対し資金提供等を行った事が三井の功績として記されている。1872(明治5)年、開墾会社の解散時には、三井等の画策により多くの非出資入植者には耕作権だけが与えられ、ごく少数の大地主、少数の地主、多数の小作農が生じた。非開墾地、特に野馬土手とその隣接地は自動的に公有地となり、軍用地になった所、日露戦争戦費調達のために払下げられた所、後に小学校等公共施設の用地の一部となった所も多い。発掘調査報告書で地先等と記され地番のない所は公有地である事を示す。三井が取得所有した土地も多い。東京の窮民だけでは開墾が進まず、入植した近隣の農民・自費による耕作地への通い農民も加えられた。近隣の農民は東京の窮民と違い、旧牧内の薪炭林等への権利は行使できたはずであるが、旧牧内の耕作地や薪拾いについても、争議に発展した例がある。1869(明治2)年『房総牧々野馬払下代金上納方達』は、野馬の残留と払下げを示す。1871(明治4)年1月、牧士は開墾局の所属となり、翌年5月に廃止された。1875(明治8)年『千葉県下牧々野馬除ケ土手堀同県ヘ引渡届』が、野馬の収容の完了を示唆する。開墾地には、ほぼ集落ごとに神社が建立された。通常、神社は南向きのため、野馬土手の南の集落では、野馬土手のすぐ南に神社が建てられた事が多く、敷地の北縁が野馬土手となった神社もいくつかある。野馬土手が失われた後も多くの神社が残る。周辺の農民の他、他からの士族・江戸の職人等失職者が入植した事が一因となり、「こすい」「あるっけ」等、旧牧内外のわずかな方言の違いが1970年頃までは存在した。正岡子規が記した東京との方言の違いは上野牧の項に記す。1877(明治10)年と翌年、東京大学のモンタギュー・フェントンが蝶の採集に来た文書があり、東京と違った環境を示唆する一方、政府に雇われた外国人の小金牧への旅行には許可を要した事を示す。1887(明治20)年『京都府平民三井高福ニ金盃ヲ下賜シ千葉県平民西村郡司外一名ヘ藍授褒章授与ノ件』との文書もある。外一名とは元佐賀藩士深川亮蔵で、佐賀藩の関係者が利権を得ていた事を示す。開墾会社に対して起こった、争議、法廷闘争はさらに続き、1894(明治27)と翌年、岩瀬謙超『小金佐倉十牧開墾授産地回復請願書』、前掲『小金原開墾之不始末』が出版され、田中正造も1896(明治29)年に国会で取り上げる等の事態となった。人力での開墾に適した土地の多くはすでに新田となっていたため、開墾は困難で、開墾会社の搾取もあり、ほとんどの耕作地は戦後まで入植者(の子孫)の所有にはならなかった。地理的人的条件等、間接的な理由によるが、明治以降も牧場・競馬場等、馬に関わるいくつかの施設が置かれた。中野牧のように酪農が行われた所もあり、今も牧場がいくつか残る。一帯は、常に馬が草を食べ、薪炭林等として利用されてきたため、1970年には「極相林を見る事は希(沼田真) 」であったが、現存する土手には、ケヤキ・クヌギ・コナラ等を優占種とする二次林としての雑木林・斜面林がある所も多く、かつて里山の一部であった。森林が残る所では、騒音緩和や「緑の回廊」としての効果もあるが、保存の措置が取られている所は少ない。本来、小金宿近くの原を小金原と称したが、小金牧の設置により牧全体を小金原と呼ぶ事もあり、かつて、大和田原と呼ばれた現習志野付近も含め、明治期に共に開墾されたため、佐倉牧まで小金原と呼ぶ事もあった。由来と逆に、小金宿に作られた駅は小金原の北のため北小金駅となった。現在の松戸市小金原は旧高木・栗ヶ沢・根木内の村々に当り小金牧の一部の中野牧の近傍の土地の一部である。江戸時代まで、ほぼ日本全国で馬が飼育され、馬場等、他地域にもあるが、特に該当地域には、馬・駒・木戸・土手・堀等、牧に因む地名が多く残る。「込」は『牛込区史』によると、『南向茶話』に、「駒込、馬込ともに、何れも牧之名にて、込は和字にて集る意なり」とある。『印旛郡誌』には、堀込に馬捨場がある例が複数示されている。堀込は、牧の外、木戸近くに多く、牧から離れた所には少ない事、必ずしも堀のような地形を伴っていない事と矛盾しない。捕込については後述する。「木戸」は城郭等に因む可能性もある。『松戸市史』等に、松戸市金ヶ作の作は土手も含めた柵の意とある。後掲の安田論文に柵を作とした御触書がある事からも確認できる。また、千葉県教育委員会による該当地域の文化財埋蔵地の約50の「作」は、ほぼ牧がなかった流山市・市川市に無く、我孫子市の7箇所以外、牧の縁に相当する地にある。文化財埋蔵地以外では、享保以前、下野牧の西縁に隣接していた市川市柏井に瓜作がある。印旛沼に注ぐ師戸川では源流部を除き、牧跡に近い西側に「作」が多く、東側になく、さらに西に印西市吉田に木戸口・馬々台・馬見台の牧関連と考えられる字がある。県南部では宮谷(ミヤザク)・大豆谷(マメザク)等、明らかに谷の意のザクの例はあるが、北部では和名ヶ谷・名戸ヶ谷等、谷はヤと呼び、「作」は台地の縁を指す可能性がある程度で、谷の意の可能性は低い。台地上に「作」が多く、谷を伴わない「作」もある。一つの谷の周囲に複数の「作」がある事も谷の意味としては不自然である。我孫子市では柴崎字山王作に隣接して字小木戸、布佐字北大作近くに字粟牧・字一里塚・旧字木戸、印西牧から離れた旧沼南町、柏市片山字北ノ作、字久保作の東には手賀字木戸脇台があり、宿場・郡衙・古い牧に因むと見られる。水田に適した谷津の「作」は我孫子市・印西市の発作に見る程度で少なく、享保期に牧が廃された野田市に「作」が少ないため、畑作に因む可能性も低い。「作」は宿場・城郭等の場合も含めて柵の意か、牧周辺の新田の一部をさす事が多いと考えられる。金ヶ作付近には特に柵から転じた作のつく地名が多い。松戸市突柵(クグリマセ)のマセは通常、馬柵と書く。佐倉牧の矢作牧はヤハギ牧である。佐倉牧と合わせ、明治の開墾入植計画の順に従った地名がつけられた。順に初富(中野牧・鎌ケ谷)、二和(下野牧・船橋)、三咲(下野牧・船橋)、豊四季(上野牧・柏)、五香(中野牧・松戸)、六実(中野牧・松戸)、七栄(佐倉牧・富里)、八街(佐倉牧・八街)、九美上(佐倉牧・香取)、十倉(佐倉牧・富里)、十余一(印西牧・白井)、十余二(高田台牧・柏)、十余三(佐倉牧・成田および多古)である。( )内後はその地名がある現市町村名。東京新田の俗称もあった。小金牧全域が明治期の開墾地ではなく、習志野等、牧跡に当るが地名の異なる所、後に住所表記が変更になった所もある。小金牧を構成した牧は、時期によっても異なるが、それぞれ10〜100平方キロメートルの面積をもち、牧の内外には野馬土手と呼ぶ土手が築かれた。地域により、馬土手、ぬま土手等とも呼ぶ。野馬土手には、構築目的と形状から、野馬除土手、勢子土手、囲土手等の種類があった。野馬除土手は馬が逃げ田畑を荒らし集落への侵入を防ぐための、牧の周囲と集落の周辺の土手で、通常、二重のため、間は堀状で、野馬堀とも呼ばれた。土手が低く特に堀が目立つ場合は野馬堀という事が多い。土手は主に堀の土と周囲から集めた土を用い、通常、牧内側の土手「小土手」は馬の怪我を防ぐために低くなだらかで馬の勢いを殺ぎ、牧外側の土手「大土手」は馬の逃走を防ぐために高く急斜面である。傾斜と高さの違いにより、馬が堀に入っても牧内側に戻る。場所により三、四重の土手もあった。牧は主に台地上にあったため、谷津との境では、台地の縁近くに堀を掘り、堀が目立つ所もあったが、堀を作れば、土が出るので、普通、あわせて土手も築かれた。谷津との境の土手は台地の縁、斜面の上に築かれた事が多いが、斜面の途中や下に築かれた土手もある。土手そのものが低く、木や竹の柵が併設された所もある。『東葛飾郡誌』によると、周囲の土手は75967間1尺、約140キロメートルであった。かつての四十里野の名称による160キロメートルとの説も大きな間違いではない。四十里野の名については、那須まで40里続く、房総中央に40里続く等様々な伝承がある。初期には集落を牧から分けるように作られた古土手が、享保以降の新田開発と牧の縮小の結果、新田と本村との境界の明示、縮小された牧から逃げた馬の集落への侵入防止に役立ったため、牧の外側に残された場合も多く、今も残る土手もある。勢子土手は牧の中にあるため、中土手とも言い、牧内の馬の集約捕獲時の誘導路と牧を仕切る区画を形作った。その性格上、分岐や食い違い構造をもつ、やや複雑な形状の土手も多い。馬を集める際の労力軽減、効率化のため、牧は勢子土手によって区画に仕切られ、捕獲時には、一区画の馬を集めて次の区画へ移し、あわせた馬をさらに次の区画へ移す事を繰り返し、最終的に牧の馬をすべて集めた。牧を仕切るため仕切土手と呼ばれた土手もある。野馬除土手、勢子土手ともに水飲み場への馬の誘導を兼ねた土手もある。囲土手(かこいどてcorral)は牧の一部を囲む土手で、野馬除土手とともに、牧の一部を区切っていた。囲土手には、勢子土手の一種と言えるが、次に記す捕込に接し、馬を集め捕馬を効率的に行うための土手があり、内部を大込等と呼んだ。幕府騎乗用等の良馬を集め飼育する御囲(おかこい)を構成する囲土手もあり、中野牧・下野牧には各2箇所、御囲があった。野馬土手は、20世紀末の時点で、かつての一割程度が残ると言われるが、他の構築物との誤認や途中の変遷もあり、正確な位置が不明の場合もある。捕込(とっこめ・とりこめ)は、取込・鳥込の表記もある牧内で集めた馬を最後に捕まえる土手で囲まれた区画である。『古事類苑』収録の『甲斐叢記二』には、「とりこめ」とふりがなのある馬城が牧の別名とされた旨の記述がある。捕込は馬の捕獲、捕獲後の水の補給、移動が楽な、各牧の端で街道と谷津頭の近く、中野牧以外では、江戸側にあった。捕込は約200 メートル四方、中は通常3区画からなるほぼ四角形の土手、3区画とは捕えた馬を入れる狭義の捕込、使用する馬を入れる留込または分込、再放牧する馬を入れる払込である。捕込も囲土手の一種と言えるが、ここでは区別する。一部の軍馬に適した馬以外は農耕馬等として払下げられ、牧内の草銭場での薪拾い代等と共に幕府の収入となった。土手には幕府の命で築かれた御普請土手と住民が自主的に築いた自普請土手があり、後者には公文書にないものもある。御普請土手を築く際には、農民に手当ての米が支給されたが、その後の維持管理の責任も負わされた。勢子土手はすべて御普請土手である。初期には各牧の境界は明確でなく、馬の侵入防止に集落近くに築かれた短い土手も多い。神社や屋敷の土塁が野馬除土手を兼ねていた場合には、野馬土手と認めるかどうかで意見が分かれる。下総は『続日本紀文武紀』に大風が吹き農民の家が壊れたとあり、上野牧跡の南柏駅初代駅舎には風除けがかつてあり、今でも庄内牧跡の間の野田市街に突風注意の看板があるほど、風の強い地域である。明治以降、畑の風除けに役だった野馬土手がある一方、風除けや塀もかねて築かれた土塁もあると見られ、野馬土手と特定できない場合もある。谷津は牧に適さず、水田に適したため、牧と谷津の「隙間」に農村集落が形成され、馬の追込・鷹狩・鹿狩の勢子・人足の供出、土手の補修を行い、野付村と呼ばれた。鹿狩への動員時には村名と人数等を記した幟を掲げた。集落付近には牧の馬と多くはその子孫に当る馬の供養のための馬頭観音の石碑が今でも各所に見られる。明治期の馬頭観音も牧跡の外に多い。牧内には道も通っていたため、馬の脱出を防ぐため、出入口部分の土手の切れ目・道の乗越え部分には木戸が設けられた。街道の場合は木戸番がおり、原則として日中のみ通行でき、関所としての機能も果たした木戸もあったが、当時、各地に設けられた木戸と違い、本来、人ではなく馬に対する木戸である。牧と牧を結ぶ道に設けられた木戸には、中木戸と呼ばれた場合がある。残存する遺構の見学等については私有地の場合もあり、自己責任で行動する必要がある。以下、各牧について、庄内牧を除き、原則として享保以降の牧の範囲を示す。一本椚牧は中野牧に含め、上野牧は初期には高田台牧と一つだったため、高田台牧より上野牧を先に記す以外、北から順に記し、印西牧を最後に記す。佐原の清宮秀堅著、正文堂発行の『旧事考』には若干の公文書との相違が見られ、牧の異字(土偏に同、簡体字では土偏と同の下に云、東葛飾郡誌のみ土偏に回)を用いているが、古文書には字の違いはよくあり、俗称等についての記述は詳細である。牧士については、文化財指定の墓と子孫非居住の住居を記す。土手の位置・地名は明治13〜14年陸軍迅速測図、国土地理院の地形図と空中写真、国土交通省、千葉県教育委員会(以下、県教委)ほか、各自治体等の資料と現地調査、土手の形状は迅速測図欄外の図と現地調査、『東葛郡誌』による。字(あざ)については、新旧を区別しない。庄内牧(しょうないまき)は現野田市にあった牧である。名称は庄内領だった事に因み、野田市役所では荘内牧と表記している。享保期に廃止されたため、小金「五」牧には数えない。野田付近で北総台地が低く、他の牧より農業用水を得やすかったと考えられる。1640(寛永17)年の江戸川開削前には地続きだった埼玉県側にも、馬場等の字が残る。野田市立図書館では延喜式の長洲牧があったとする説を紹介し、また、初期に中央部が新田となり、南北に分かれ、北部が上野、南部が下野であったとしている。『七福村誌』には、旧記によると谷津・吉春・岩名は往古小金野の野方に隷していたとある。『元禄国絵図・下総国』(以下『元禄国絵図』)にそれぞれ村として記されており、牧ではなく、野付村であった事を示す。1665(寛文5)年、野田市立図書館蔵『寛文5年野田町絵図』(以下、野田町絵図)に後述する野馬土手がある。南部の牧の北縁に当たる土手があるが、土手の北側の中央部も南部の牧と同じ「原」と記され、まだ、牧として認識されていたか、少なくとも開墾があまり進んでいなかった事を示す。中央部には西の谷津へ舌状に突出した2箇所の台地が共に土手で仕切られ、先に畠と記されており、中央部も牧の時の状態を示している。1673〜81(延宝元〜9)年までには、七ヶ新田、すなわち、中野・宮崎・堤根・花野・柳沢・座生・鶴島を村分けしたと野田町にあるが、これだけでは、牧以外の開墾や単なる分村の可能性も否定できない。1693(元禄6)年頃から開墾されたとの伝承記録が『旭村誌』にある。旭村は南北の牧の間に当たり、記述は、この頃まで中央部も牧か未開墾の牧跡であった事を示す。1696〜1702(元禄9〜15)年作成の『元禄国絵図』に、南北の牧の間に、北から柳澤・奉目・鶴嶋・花井・中根・堤根の各新田と宮崎新田村があり、牧が南北に分かれていた事を示す。1716(享保1)年、蕃昌新田の開墾が始まり、4年後に終ったと『七福村誌』にある。1721(享保6)年か翌々年に廃止されたため、牧としての正式な遺構はその前のものであるが、廃止後も野馬が残り、田畑を荒らしたため、野馬土手が補修・構築された。存続した他の牧への馬の収容を行った岩本石見守への謝恩碑が野田市内にある。他の牧の古土手に当たる、牧の廃止後、300年を経て、今日残る土手もある。北部の牧、上野の痕跡はほとんどなく、わずかに、尾崎字南谷原で野馬堀の発掘記録がある。近くに関連し得る字として、野田市中里に込角、尾崎に槙の内と小作があるが、中里宿の北西に当り、小金牧以前の可能性もある。上野の縁近くに当たる野田市谷津と吉春にそれぞれ字木戸口がある。谷津字木戸口はセブンイレブン付近、吉春字木戸口はバス停木戸口付近で、近接し、同じ木戸か別の木戸か不明である。西方、東金野井の対岸、埼玉県の西金野井に字作之内と江戸川開削〜明治以降の河川改修で東側が削られた形の字馬場があるが、さらに南にある字馬場は小金牧以前の可能性がある。南北の牧の中間に当たる、野田市清水の馬作・岩名作・真木ノ地は、初期かその前の字と考えられる。馬作には後述の花野井家住宅が移築された。野田市役所前の掲示によると、船形字苅込も関連がある。千葉県教育委員会『房総の近世牧跡』(以下、牧跡)の掲載地図と付記は、野田市営ゴルフ場「けやきコース」第14ホールを含めゴルフ場を横断して、土手が250メートル良好に残るとする。『牧跡』の庄内牧の地図では、中間が失われた日光街道沿いの土手が、すべて良好に残存とし、中里の江戸時代以前からの寺も牧内に含める等しており、内容の信憑性は低い。ホールを分断して土手が残る可能性は低いが、『牧跡』は既存の調査報告の内容を写してまとめた構成のため、地図とずれた場所に土手が残る可能性は残る。該当場所は、『松戸市史』等、信頼できる資料によれば、南東へのびた北部の牧の南端に当り、残存すれば、北部の牧の唯一残存する土手である。『元禄国絵図』には、蕃昌新田・五木新田がなく、牧廃止後の開墾を示す。『野田町絵図』では、南北の牧の間、江戸時代初期に新田となった部分が描かれ、旧山崎村(日光街道山崎宿)・大殿井村・野田町の間に、「原」として示された牧がある。原には、ほとんど人家がない。野馬土手と道の交点の多くには家が描かれ、木戸の存在が示唆される。距離はあまり正確ではないが、谷津の形状は現在の地図とよく一致する。『野田町絵図』を基に、野馬土手について記す。土手は、東・西・南の3つに大別される。西の土手は、南北の牧の中間部分の西、清水公園駅等、東武野田線東の谷津に、東から西へ舌状に突出した2つの台地の先端部分の宮崎新田等を牧と仕切っていた。『野田町絵図』の時期には、南北の牧の間に牧か牧跡があった事を示す。土手は中根の鹿嶋神社かその西を通っていたと考えられるが、牧が早期に廃止された上、市街地化が進み、痕跡はない。南端は後述の大和田の水場の北に達していた。2箇所の道との交点付近にはいずれも家が描かれている。東の土手は、市役所の北の「原」から、日光東往還(以下、地元での呼称日光街道)の東側を通り、二度屈折し、横内・大殿井の南の谷津まであった。横内・大殿井間の土手の一部が、野田市駅東方、国道16号線野田市駅入口交差点の東、ほぼ横内と大殿井の境に残る土手によく一致し、『野田町絵図』の正しさを裏付ける。初期の牧の東縁とすると、前述の西の土手とともに、矛盾なく説明ができる。このうち、日光街道沿いの土手の一部が野田市役所付近に残る。野田市役所前から南へ、野田警察署・墓地・飲食店による2箇所の分断をはさみ、ガソリンスタンド北までの1キロメートルの間に、計700メートル以上の土手と一部街道側の堀跡が残る。市役所より南ではアジサイが植えられ、開花期には花の土手のように見える。ガソリンスタンド南、イオン駐車場西縁近くに痕跡がある。他の駐車場内にある土塁も一部は野馬土手の可能性がある。街道側の堀跡から、道から田畑・集落への馬の侵入を防ぎ、南北の牧をつないでいた役割が示唆される。野田市役所前の掲示によると、街道の両側に土手があった。国立東京博物館蔵、1805(文化3)年『関宿通多功道見取絵図』(以下、見取絵図)では、牧の廃止後の日光街道沿い西側に木か竹の柵があり、街道両側の土手の存在を裏付ける。また、牧廃止後の土手の残存から、野馬土手以外、街道の柵でもあった可能性が高いが、並木がなく、単純な並木敷とは考えにくい。『野田町絵図』の南の土手は、日光街道を横断して、梅郷駅西方にあった大和田の「ため」とある水場へ延びており、野馬土手の特徴を示す。土手を示す線には「御」がつき(御印?)、御普請土手や幕府の牧としての認識が判る。『野田町絵図』の作成時には、街道西側の土手はまだ無かったと推定される。土手が南北の牧をつなぎ、木戸の場所の推定が正しいなら、街道両側の土手は、北部の牧の木戸かすぐ南の谷津から、山崎字中木戸まであった事になる。街道西の土手はトイザらスができた時を最後に失われた。市役所付近では、街道西側に土手跡様の土塁が見られるが、偶然の産物の可能性もある。『野田町絵図』では市役所付近の街道両側に、松のような樹木を表す♂のような記号がある。5箇所ある日光街道以外の道と土手の交点に家は描かれていない。南の土手は2つあり、大和田の水場の土手の北から、南東へ、山崎村北で日光街道と交差する南部の牧の北縁の土手と、その南を大和田の水場の土手から、牧の北縁の土手と並走した後、南へ折れ、山崎村の谷津に達する土手である。後者、西縁の土手の街道との交点近くにはいずれも家が描かれている。大和田の水場の西に接して、流山街道に当る山崎村-野田町の道があり、水場の西では堰と見られる土手上を通り、水場跡は今も窪地として残る。北縁の土手の過半が、梅郷駅東の国道16号の東、東西方向の道の北側、野田市堤根のゴルフ場内に残る。痕跡的な部分も含めると、中間の失われた部分をはさみ、約800メートル、一部には二重の部分も残る。『野田町絵図』では、残る土手と逆に南へ屈曲している。西方向は、ゴルフ場西に少し残り、山崎中木戸の北縁の道沿いに1964年までは東武線東の日光街道まであった。付近の日光街道は、地形の影響で鉄道敷設前からゆるいS字状だった。北縁と西縁の土手は水場の南東、野田市立南部中学校付近で近接し、水場付近の地形からは西縁の土手に合致する土手が、南部中西の運動場西縁に50メートル、運動場南縁=花井新田字中野馬込に150メートル残り、南部中南縁を通り東に延びていた。『野田町絵図』によると、日光街道の所で二つの土手が近接して街道と交差、西の中野馬込への狭い通路を形成していた事になる。上野馬込では野馬堀・野馬土手発掘の記録がある。交差場所近くの日光街道に野馬込バス停、東武線東に字野場込があり、付近の捕込の存在を示唆する。近接して上・中の野馬込の字があるのは、新旧の込か込内部の区画を指すのか不明だが、同時に別々の捕込があった可能性は低く、捕込の周囲の大込を指していた可能性もある。南部中-利根運河付近の土手の痕跡はない。上三ヶ尾に中野牧の項で記す字古和清水がある。牧の中の道の西側に松の木のような♂のような記号がある。利根運河は、それぞれ江戸川・利根川に続く谷津をつなぐ形で造られたため、運河が南部の牧のほぼ南縁である。日光街道『見取絵図』には、後に旧山崎町に吸収された亀山新田の南縁、日光街道の屈曲点に、街道両側に街道と交わる形の土手があり、牧の廃止後の土手の残存が判る。利根運河北、流山・野田市境、斜面の上に当たる。街道の形状、迅速測図から、街道東の土手の位置は、東京理科大学内の東西に走る小道の南に当るが、『見取絵図』以降も道筋の変化の可能性があり、推測の域を出ない。いずれの土手も、利根運河・東武線ができるまでに、失われたと考えられる。東の三ヶ尾に木戸前・二重堀・大作の字がある。庄内牧では合計約1700メートルの土手が残る。上野牧(かみのまき)は、今の柏市・流山市に広がっていた牧で、高田台牧と接し、初期には中野牧とも続いていた。『旧事考』に、俗に蛇沢野といい、駒捕の地は篠籠田で、別に府士騎乗の馬場、いわゆる御囲があり、その駒捕の地は高田台で、寛政期に設けられたとある。蛇沢は後述する捕込近くの篠籠田に続く沢で、1912(明治45)年頃の『豊四季村誌』に、上の牧又は蛇澤の牧と言い、上野牧産の野馬を蛇澤野駒と称し小金牧で中等の値段だったとある。『旧事考』によると、寛政期以降の捕込は2箇所である。高田台の駒捕の地はその名称と『国史跡下総小金中野牧跡保存管理計画書(案)』(以下、鎌ヶ谷市計画書)収録の寛政期の地図から高田台牧内と考えられ、高田台牧の節に記す。『旧事考』に五牧の中では最古、南北5里とあるが、末期にはその半分程度であった。『見取絵図』に一之牧とあり、小金牧中最古か初期の重視、またはその両方が示唆される。柏市では豊上町を除く本来の豊四季にほぼ相当する。流山市では新田等の耕作適地や薪炭林が、請願等の結果、流山市野々下・長崎等の一部となり、北部は戦後の宅地化で江戸川台となった。1878年、名都借村による18町歩余りの官有地払受け、他の個人への払下げが相当すると考えられる。現在、南柏・柏と江戸川台-柏間の各駅が牧跡にある。柏市・流山市は野馬土手等の保存に積極的とは言えないが、特に柏市教育委員会ではインターネットでも場所が判る詳細な野馬土手の発掘調査報告書を出しており1988年以降の土手の消失過程がよく判る。流山市の報告書はインターネットでの場所の特定が難しい。脇街道の水戸街道と水戸街道から牧内で分岐する日光街道が通り、当時としては江戸からの交通の便も良く、記録が多く残る。参勤交代・日光参拝に両街道を利用した大名、歴代の水戸藩主が上野牧を通過した。柏市立柏第二小学校(柏二小)創立記念誌『豊四季』によれば、徳川家治の乗馬を放った記録、篠籠田での水戸候鹿狩、老中の馬捕獲見学の記録がある。船橋市立船橋西図書館蔵『小金原勝景図』に、水戸街道にあった新木戸・街道の松並木・捕込の図がある。次の、江戸方面からの上野牧の入口は、『小金紀行』を除いて、後述する現南柏駅近くにあった新木戸を指す。柏木戸は現柏神社近く、水戸街道の牧からの江戸側から見た時の出口である。1638(寛永15)年頃、柏木戸を出た所、現水戸屋ビル付近で、水戸藩主の休憩所にもなった茶屋、水戸屋が創業した。当時の水戸藩主は初代徳川頼房である。1676(延宝4)年に死んだ品種改良用に輸入されたペルシャ馬に因むというオランダ観音が流山市東初石5丁目にある。オランダ観音には馬頭観音の石碑が2基あり、もう一基が、1868(明治元)年に作られたとされる。11月第一日曜日に「オランダ観音祭り」が行われている。栗毛の牡馬が暴れ、人を傷つけたため、野馬方で市野谷の鈴木庄左衛門が命を享け銃撃、住みなれた地まで逃げ水を飲んで死んだという伝承があるが、オランダ観音の碑文には病死とある。ペルシャ馬の放牧は、幕府による初期の上野牧の重視を示す。1696〜1702(元禄9〜15)年作成の『元禄国絵図・下総国』(以下、元禄国絵図)に青田・駒木の新田、日光街道沿いの十太夫新田が記され、牧に入り込んだ新田がすでにあった事を示す。1715(正徳5)年『駅路鞭影記』に、牧内での水戸街道の目印ともなるよう徳川光圀が命じて(令して?)牧士頭が松並木を植えたという伝承と新木戸に当たる木戸と番人の記述がある。牧内の水戸街道沿いに字並木がある。旅人が迷うのを憫んだ光圀が、金を小金牧司綿貫夏右衛門に付し松千株を植えさせたとする伝承も記され、少なくとも大正期には、松並木が今谷新田から柏までの道の両側に残っていた。『駅路鞭影記』には、江戸側から小金原に入る前の向小金に人里があり、紙につけた飴を売る所がある事、「押廻しいくねにて」「はしほり木戸あり」夜は閉め切り、武士の特権かも知れないが、夜人が通る時は番人が開ける事の記述がある。道が何度も曲がり、木戸と言うより今の踏切のような端が降りる遮断機に近い。1730(享保15)年、上野牧の一部を大畔村が村請し、大畔新田となったと『下総国葛飾郡大畔新田文書(秋元家)』にあり、かつての村と新田の境に土手が残る(2011年3月)。1737(元文2)年に建てられたとされるオランダ様という馬頭観音が同市美原3丁目にある。吉宗がオランダを通じて輸入したペルシャ馬28頭のうちの1頭と見られる。他の馬もあり、28頭の馬に該当するか不明であるが、『異国産馬図巻』に11頭のペルシャ産の馬が図示されている。1758(宝暦8)年、土浦藩主によるとされる『土浦水戸道中絵図』に、後述する新木戸-柏木戸の水戸街道が描かれている。1791(寛政3)年3月29日、小林一茶が『寛政三年紀行』に、小金原にかかり、公の馬を養う所である事と長さ四十里のため、四十里野というとの伝聞、「乳を呑む駒あり、水に望むあり、伏す有、仰ぐあり、皆々食に富て、おのがさまざまにたのしぶ」と記した。馬橋から布川への途中のため、上野牧か高田台牧の情景と考えられる。青木更吉は芭蕉が秋に「あはれ」としたのを意識して、春に「たのし」としたものと推定している。1795(寛政7)年、家斉の鹿狩の際、上野・高田台牧の馬、計48頭は佐倉牧の矢作儀へ移された。1798(寛政10)年7月28日の事として、『成田の道の記』に我孫子から小金への途中、「やうやう小金の原にかかる。松並木左右、中通り往還、並木の両外は目の及ばぬ廣き草原なり」「巷の水たまりて」「草原に野駒あまた遊び居る様、また風情なり」とある。1816(文化13)年、釈敬順『十方庵遊歴雑記江戸雀後編4編』に、高い土手、土手の食違いを夜〆切る侘しき藁屋に住む番人の記述がある。1817(文化14)年9月7日、村尾嘉陵『江戸近郊道しるべ』別写本による『嘉陵紀行』に、江戸から野飼の馬を見に上野牧を訪れた記述がある。水戸街道沿い向小金村、現存する香取神社前にあった一里塚近くの草鞋を売る家で、地元の大工「和泉や弥五郎」の話として、牧は水戸街道より北が上の牧で、へいび沢原・高田台・大田前から成り、へいび沢原に馬とり場がある事、街道より南が下の牧で、日ぐらし山・五助原・平塚・白子の計七牧から成る事等の記述がある。幕府の文書との違いもあるが、牧士や野付村の分担等による地元での認識と考えられ、小金五牧としていない事も判る。へいび沢は、土人の訛から聞き取り難く、後日、人に確認し、蛇沢だったとある。柏市大青田は国立歴史民族博物館蔵『旧高旧領取調帳』にオウダとあり、今でもオオタ・オオウタとも言う。他の地名は中・下野牧参照。牧入口の木戸、向かって左の番屋、竹がうえられた野馬土手、牧内の松並木、水戸街道から約一里北の馬が集まる山の記述がある。山は下の牧内とあるが、方向からすると上の牧が正しい。嘉陵は見ていないが、捕込を「追込の升」と記している。現在、香取神社から見て左に、前述「下陰を」の句と一里塚跡の碑がある。日光街道『見取絵図』に、神社から見て右と道の向いに一里塚がある。『嘉陵紀行』には馬橋村まで現江戸川沿いがすべて水戸殿御鷹場で、馬橋の所々、『房総叢書』収録『小金紀行』(その1)には、流山市名都借に水戸殿御鷹場である事を示す傍示の杭の記述がある。『見取絵図』には、現松戸市の松戸宿〜久保平賀町に9箇所11基の「水戸殿鷹場杭」がある。1820(文政3)年、高田与清『鹿島日記』に、そこここで群れて草を食べる馬、かまが谷・大和田・千葉などにつづき大変広い事、臙脂鹿毛(ベニカゲ)というどうしても捕獲できず、牧長が神かと不思議がる馬の記述等がある。1829(文政12)年〜1859(安政6)年が徳川斉昭が水戸藩主であった。1919(大正8)年『東葛飾郡案内』に、(前述)「水戸屋は水戸烈公に因みあり、櫻株の家印は烈公より賜りしものなり」とあり、水戸徳川家から拝領の弁当箱と象牙の箸も所有、2003年まで旅館を営んでいた。水戸屋ビルの向いの道沿いに水戸屋が水戸公の命で建てたという櫻株稲荷が残る。1841(天保12)年、前掲『小金紀行』に江戸から流山を経て諏訪神社を訪れた記述がある。野々下を過ぎ、物売る家を過ぎると小金野とあり、諏訪神社前を通る「諏訪道」を通って上野牧に入った事を示す。神社の南が馬場のようである事、神社の東方、駒木の集落前の木戸の記述がある。1845(弘化2)年、『江戸近郊図』には、水戸街道・柏の北側に「小金ヶ原」の文字がある。水戸街道は小金から流山市長崎を迂回する形である。1851(嘉永4)年12月15日、吉田松陰『東北遊日記』に、小金駅の後「過駅則広原漫々 即小金原 而幕府操場也 見野馬九匹」の記述がある。1855(安政2)年、赤松宗旦『利根川図志』に、『附手賀沼邊紀行』として宗旦の友人が安政大地震の直後に上野牧を訪れた時の紀行文があり、『鹿島日記』の臙脂鹿毛、林冠が蓋のような松並木、水戸家の鷹場、時刻が遅いせいか馬を見かけなかった事の記述がある。1868(明治元)年、4月12日、徳川慶喜が松戸に一泊後、上野牧を通過、随員は西周や護衛の精鋭隊、高橋泥舟を隊頭とする遊撃隊等であった。1869〜1872年の豊四季への東京移住窮民は80戸263人、近傍移住窮民122戸437人、1883年163人が授産処分を受けた。1871(明治4)年、「下総国開墾場 小金牧内 上野牧 水戸街道」の松並木について『府県往復 下総小金牧内風折木払下代の件三井八郎右衛門願東京府達』があり、水戸街道沿いの松並木と上野牧跡も三井が取り仕切っていた事を示す。1885(明治16)年12月6・12日、天皇が茨城県への往復の途上通過、水戸藩主と同様、松戸・小金・柏で休憩、柏での休憩は牧跡外の寺嶋五兵衛宅で、旧寺嶋駐車場裏に石碑がある。1889(明治20)年4月3日、正岡子規が同郷の友人と2人で水戸街道を通り牧跡を通過した記述が、子規『水戸紀行』にある。小金駅の後、縄手道にかかり、我孫子まで約2里の所の「むさくろしい」家での食事と東京と違い杓文字を杓子と言う話、二三十間行った所のふかし芋を売る芋屋の記述がある。『水戸紀行』にはほかに「松縄手」の言葉もあり、ここでは、並木道の意味である。並木道と道程から、現在の南柏駅近く、柏市に入った辺りに相当するが、牧に関する記述はない。友人は、多駄八、多駄次、吉田の少将多駄次とされ、氏名は明らかでない。ほか、子規と同じ本郷台の寄宿舎にいて、この時、十八とある。子規は後に、『子規全集』に収録された『俳家全集ニ』において、小林一茶文政10年の句の例の一つに、「小金原」と題し「母馬が番して飲ます清水哉」をあげている。1919(大正8)年、前述『東葛飾郡案内』の千代田村に関し、一部、重複するが、千代田村は旧小金牧の中央で、村長芳野謙一郎は幕末の志士芳野金陵の後裔との記述がある。さらに、病院は柏駅前に松岡眼科医院、松ヶ崎に巻石堂、如春堂、済生堂があり、巻石堂以下の院主は順に、芳野謙一郎、やはり金陵の後裔芳野幸之助、その弟、文蔵で、旅館は釜屋、恵比屋、前述水戸屋があると記されている。その後、水戸街道沿いに、巻石堂が移転してきており、2015年現在、恵比屋、水戸屋の跡に、それぞれ同名のビルがある。いずれも、牧を出た所にあたる。1920(大正9)年、田山花袋は『東京の近郊』常磐線の節に、北小金を過ぎて牧に入り、通過の度、一茶の「時雨るや」の句が口から出る等と記し、土手の残存による牧の境界の明確さと、牧の知名度が示唆される。花袋は総武線の節で、牧が我孫子まで及ぶと記しており、花袋の認識では、柏駅は牧の東縁でなく、牧の中央だった事になる。安田初雄(福島大学)『本邦における近代置付放牧に関する地理的研究』(以下、安田論文)に当牧と高田台牧を中心とした詳細な記述がある。該当する迅速測図では土手の位置がずれ、特定には注意を要する。捕込跡地は当初「捕込学校」とも呼ばれた柏二小で、1985年まで捕込の形を模したという池があった。裏手に捕込に続いていた大込の土手が約30メートル残り、柏二小のホームページにも記述がある。1972年頃まではさらに東に延び「く」形で、特に捕込に近い所は今より急峻だった。捕込の北半分は明治45年頃までほぼ完全に残っていた。日光街道まで延びていた捕込内の土手は1965年を最後に失われた。捕込には街道側に2箇所、南に1箇所の開口部があったが、街道側北の開口部の位置に同小学校の正門がある。開口部を1箇所とした資料の場合も正門と位置は一致する。『見取絵図』には一之牧取込土手と記され、二つの区画、2箇所の街道側の開口部、捕込土手上の数本の松と見られる木、街道向い側で街道に少し突出した土手がある。『幸谷観音野馬捕りの献額』は、綿貫家の寄贈で、上野牧の捕馬とされ、松の大木の下の幔幕に九曜紋がある事もこれを裏付ける。馬の捕獲のほか、多数の見物人、複数の出店・屋台等が描かれている。図を拡大して見ると、消えかけた土手が描かれ、見物人は土手上に座っている事、土手に3箇所の開口部がある事、幔幕のある御照覧場(検分所)も土手上にある事が判る。高田台牧の節に記す柏市立西原小学校の図では、土手が復元して描かれ、指導者の技量の高さを示す。捕込跡の南、稲荷神社境内に開拓百周年の碑と岩倉具定が地元に土地を売却した事に対する岩倉公爵報恩碑がある。西、現凸版印刷の敷地には、昭和初期まで土塁に囲まれた土地があり、岩倉具定の屋敷跡の可能性がある。大込の土手は、稲荷神社の西の谷津から、反時計回りに、柏市の西への突出部を横切り、一部残存する土手の所から稲荷神社の約300メートル南で日光街道を横切り捕込東にあった。土手が日光街道を横切った字捕込(とりこめ)に以前「鳥込」バス停があり、上野牧では「とりごめ」と言う事が多い。『見取絵図』に街道と直交する土手に「大込土手」とあり、捕込の周囲の大込の土手であった事を示す。捕込は字捕込ではなく、字八丈にある。大込の西は、流山市松ヶ丘千ヶ井で『南部馬史』の千飼に当たり、千飼は大込の区画と御囲の両方を意味する。詳細は青木の著作参照。土手が道を横切る所には捕馬の際の臨時のものを含め、木戸があったと考えられる。捕込北、日光街道沿い字一本松に、江戸時代からあった一本松の下に明治期に建てられたという一本松稲荷がある。捕込の松とともに、水戸街道同様、道標の役割と、中野牧での鹿狩を描いた『享保乙巳小金中野牧御鹿狩之図』に示された「見通松」と同様、捕馬の際の目印だった可能性が高い。、『旧事考』にある高田台の捕込については高田台牧で述べる。牧の西縁から南縁は、野馬除土手で仕切られ、稲荷神社の南、千飼に当たる流山市松ヶ丘千ヶ井と豊四季弁天谷の間、大込の土手から南西数十メートル~国道6号・常磐線を越え水戸街道、現柏・流山市境である。国道の北約500から100メートルの区間では、市境沿いに野馬堀をはさむ二重構造の野馬除土手が残り、緑地公園として保存されている。途中、約50メートル失われた部分があるとしても、残存する土手は合計約550メートルある。小金牧中、最も保存状況の良い区域である。松ヶ丘に字笹堤、赤堀がある。国道北約100メートルから南の大土手は1961年までに、小土手と常磐線から南、水戸街道までの大小の土手は1975年までに失われ、土手跡が土手構築時に他から持ち込んだ土の分、周囲より僅かに土地が高く、"両側に道のある"家屋の列として残る。市境の数メートル程度の微細な凹凸は購入者の住所等、土地購入時の経緯により、大小二列の土手の位置を反映している。水戸街道北、マンション敷地とほぼ一致する流山市の突出部では、大土手が市境の形に柏市へ突出していた。マンション建設前の空中写真等で突出部の土壌の違いが判る。大土手は市境から水戸街道沿いへ折れていたため、突出部がなければL字になるところ、己字状であった。己字の大土手に対し、突出部から水戸街道へ短絡する小土手があり、大土
出典:wikipedia
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