アウディ・R8とは、アウディがル・マン24時間レース参戦を目的に開発したプロトタイプレーシングカーである。アウディはル・マンに参戦するべく、1998年にR8の開発を始めた。1999年には、オープンプロトの(LMPクラス)と、クローズドプロトの(LMGTPクラス)がアメリカン・ルマン・シリーズとル・マンに投入された。この2つはエンジン等が共通であるが、モノコックは全く異なる。BMW・V12 LMRにおけるウィリアムズ/シュニッツァーのように、R8Rおよび後のR8はヨースト・レーシングが開発協力・チーム運営を行なった。R8Cは後にフォルクスワーゲングループ内のベントレー・EXPスピード8として進化することになる。2000年からはオープンプロトのR8Rを熟成させ、R8(LMP-900クラス)として各レースに参戦した。2001年4月25日、ミケーレ・アルボレートがラウジッツリンクにてテスト走行を行っていたところ、タイヤのパンクが原因でクラッシュ。そのまま死去する事故が起きている。ただしマシン自体のメカニカルトラブルではなかったため、この年のル・マンには予定通り参戦した。2006年、V12ディーゼルエンジンを搭載したR10が、R8の後継として開発された。エンジンは、3.6Lの水冷V型8気筒エンジンにツインターボ過給を施したオーソドックスなレイアウトであり、エンジン重量は180kgほどである。リストリクターによる吸気制限を受けるために出力は608 - 625馬力と言われており、他車に比較して圧倒的なパフォーマンスを誇るものではない。アウディ・R8は基本的にオーソドックスなメカニズムを持ち、完成度が非常に高いためトップクラスの速さではあるが、傑出して抜きん出ているわけではない。R8のオリジナリティは、リアに搭載されるパワートレイン、及びサスペンションがモジュール構造となっていることであった。初期型R8には、ギアボックスに不安があると言われていた。24時間の長丁場において、高確率で発生するトラブルへの対処策として編み出されたのが、壊れた部品(R8の場合、エンジン、トランスミッション、リアサスペンションが該当)を「修理」するのではなく、丸ごと「交換」するという概念だった。これはリアセクションのパーツを全て一体としたモジュール構造で設計することにより、万が一深刻な、そして複数のトラブルに同時に見舞われたとしても、準備しておいた予備のモジュールと交換してしまえば、リタイアの危険性がある致命的な部品の半分近くが新品になることを意味している。既成概念を打ち破るこの発想は、ラリーの世界で培われた経験をもとにしたものだった。特にル・マンの場合、段差のついた荒い舗装の一般公道を閉鎖した特設サーキットで開催されることもあり、コースの路面は決して滑らかではなく、サスペンションを中心にしてマシン全体にかなりの負荷がかかり、蓄積したストレスが原因でトラブルを起こす可能性が非常に高い。そのため耐久レースの場合、ラップタイムよりピットでの修復時間が明暗を分けることとなる。R8はこの修復時間(R8に限っては交換時間)が常識外れに短く、モジュール交換作業だけなら4 - 5分で終えてしまう。他のマシンでギアボックストラブルが起こると、程度にもよるが、最低でも20分間ほどはピットに釘付けになってしまうため、これは戦略的に決定的なアドバンテージとも言えた。ただし、途中からレギュレーション上「ギアボックスそのものを交換することは違反」とみなされ、この手段は使えなくなる。R8は、入念に行われた事前のテスト参戦をしていたこともあり、大きなトラブルを起こすことはほとんどなく、クラッシュが原因でピットに戻ったとしても、前述の構造を利して迅速にレースに復帰することのできる「リタイアしにくい」特性を存分に生かした。初参戦の2000年のル・マンで1-2-3フィニッシュ、翌2001年に1-2フィニッシュ(3位にはR8用エンジンを搭載したベントレー・EXPスピード8)、2002年に1-2-3フィニッシュ、アウディが手を引きプライベーターの手に委ねられた2003年はトラブルの影響もあり、フォルクスワーゲングループの実質的なワークスとなった新設計のベントレー・EXPスピード8の後塵を拝して3-4フィニッシュに留まったものの、2004年には再び1-2-3フィニッシュを達成している。なお、2004年は郷和道が監督を務めるチーム郷が総合優勝を果たしており、日本チームとしては1991年にマツダ・787B以来13年ぶり、2度目の総合優勝となった。
出典:wikipedia
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