宗像大社(むなかたたいしゃ)は、福岡県宗像市にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社。日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社である。また、道の神としての総合神、貴(むち)の称号を伊勢神宮、出雲大社に並び持ち、道主貴(みちぬしのむち)と称す。神宝として古代祭祀の国宝を多数有し、裏伊勢とも称される。「宗像大社」は沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の三社の総称であるが、現在では辺津宮のみを指す場合も多い。地図上で辺津宮から11km離れた中津宮、さらに49km離れた沖津宮を線で結ぶと、その直線は145km離れた朝鮮半島釜山の方向に向かう。古代から半島と大陸の政治、経済、文化の海上路であった。古くから海上・交通安全の神としての神威にちなみ、信仰されているが、現在では海上に限らず、陸上・交通安全の神として信仰を集めている。そのため、福岡県内では宗像大社のステッカーを貼った自動車が多数見受けられるほか、新車を購入した際に御祓いを受ける人も非常に多い。また、車に装着する交通安全のお守りは宗像大社が発祥である。海上交通の要所に位置する沖ノ島に祀られている沖津宮は、「おいわずさま」と呼ばれ島全体が御神体である。そのため現在でも女人禁制であり、男性であっても上陸前には禊を行なわなければならない。昭和29年以来十数年に渡り沖の島の発掘調査が行われ、4・5世紀から9世紀までの石舞台や古代装飾品などの大量の祭祀遺物が発見された。このことから、沖の島は俗に「海の正倉院」と呼ばれており、古代から信仰の対象とされていたことが偲ばれる。現在は、台風などの緊急避難港に指定されている。近年、沖ノ島を世界遺産にする運動が起こり、2009年1月5日に沖津宮・中津宮・辺津宮及び沖津宮遥拝所と沖ノ島全体を含めて、『神宿る島・宗像・沖ノ島と関連遺産群』の構成遺産として世界遺産暫定リストに追加掲載された。2015年には推薦候補となる事が決定した。なお審査は2017年に行われる予定である。3社にそれぞれ以下の神を祀り、宗像三女神(宗像三神)と総称する。伝えられる伝承では日本神話に起源を持つという。天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)の際、天照大神の息から生まれたのが宗像三女神ということになっていて、彼女達は天照の勅命を奉じ皇孫を助けるため筑紫の宗像に降りこの地を治めるようになったのが起源とされている。宗像は『古事記』では胸形という字が当てられ、また胸肩、宗形とも表記されるが、元は水潟であったとする説もある。古くから海の神として信仰を集めてきたが、神功皇后が三韓征伐の際ここに航海の安全を祈り霊験があったといわれ、事あるごとに国に幣使を遣わす習いになったとされる。またこの逸話からは航海安全の守護神として崇められるようになった経緯がうかがえる。大化の改新後の律令制導入によって、国郡の制が敷かれると宗像一郡が神領として与えられ、豪族宗像氏が神主として神社に奉仕し、神郡の行政も司ることになった。在地豪族の胸肩君('むなかたのきみ'宗方氏)の由緒を記した石碑によれば、宗像氏の当主が二代にわたって中国宗の商人の娘を正室に迎えている。また胸肩君徳善は娘の尼子娘を天武天皇の後宮に入れ、白雉5年(654年)に二人の間に生まれた高市皇子は壬申の乱で父を助けて大勝利し、後に太政大臣に任ぜられる。鎌倉時代以降は武家の信奉もある。拝殿は戦国の知将・小早川隆景が天正16年(1590年)に再建、杮(こけら)葺きの大屋根が美しい本殿は天正6年(1578年)に宗方大宮司貞が再建したもの。筑前福岡藩主、黒田氏などによる社殿の造修営、社領の寄進が伝えられている。出光興産の創業者出光佐三は旧宗像郡の出身で、幼少より宗像大社を崇敬していた。1937年に参拝した際に荒廃した宗像大社を知り、1942年に宗像神社復興期成会の結成を呼び掛け、初代会長に就任。戦中・戦後の活動停止を経て、1969年に宗像大社復興期成会に改組した。現在の辺津宮拝殿なども佐三の寄進によるところが大きいが、本人が畏れ多いと辞退したため境内にその名を示す痕跡がない。佐三をモデルにした小説『海賊とよばれた男』では、敗戦に際して社内に分祀勧請した宗像神社の三女神に日本と日本民族の加護を祈願する姿が描かれている。出光美術館は「宗像・沖ノ島」展などの特別展を積極的に開催している。鹿児島本線赤間駅からバスを利用する方法もガイドブックで紹介されているが、赤間駅からは一日数本しか出ておらず、またその全てが東郷駅を経由するので、バスを使う場合は東郷駅を利用した方が良い。因みに両駅とも快速は停車する。特急は要確認。(2014年6月現在)
出典:wikipedia
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