飛山城(とびやまじょう)は、下野国(現在の栃木県宇都宮市竹下町)にあった中世の日本の城である。宇都宮氏の家臣・芳賀氏の居城であった。飛山城は鎌倉時代後期にあたる永仁年間(1293年-1298年)頃、宇都宮景綱の家臣・芳賀高俊によって築かれたといわれている。芳賀氏は飛山城に居する間は清原氏を名乗ったと言われており、この清原姓が後の現宇都宮市東部の地名『清原』となったと考えられているが、不詳である。芳賀氏は上野国・越後国の守護代に任じられるなど隆盛したが、戦国時代になると芳賀氏や飛山城も関東平野の覇権争いに例外なく巻き込まれた。弘治3年(1557年)には宇都宮氏や芳賀氏を支援した常陸国の佐竹義昭による宇都宮城奪回作戦(その時期の宇都宮城は壬生城主・壬生綱雄が占領していた)の最前線基地となっている。天正18年(1590年)、関東に台頭していた後北条氏を滅亡させた豊臣秀吉は宇都宮城に入城し関東の支配体制を決定する宇都宮仕置を行う。そこで秀吉は宇都宮氏18万5千石の所領安堵を裁決した一方で、「佐竹・宇都宮ならびに家来のものども、多賀谷・水谷」に対して「いらざる城は破却せよ」との命令を発している。そのため、飛山城も「城破り」の対象として破却され廃城となった。飛山城跡は1977年(昭和52年)に国の史跡に指定された。また、宇都宮市によって2000年(平成12年)から史跡公園としての整備が行われ、2005年(平成17年)3月に飛山城史跡公園が開園した。公園内には、土塁や堀、木橋、兵士の詰所と思われる掘立柱建物などが復元されている。また、公園に隣接して「とびやま歴史体験館」が開設され、城や城主芳賀氏に関する史料などが展示されているほか、戦国時代の衣装の着用体験、勾玉・土器などの作成体験、昔の遊び(小将棋など)の体験ができる。飛山城は、鬼怒川の東岸を利用して造られた東西240m、南北420mの長方形の縄張りに築造された平山城である。現在残されている遺構は約14ヘクタールと広大な領域に広がり、北側と西側を鬼怒川およびその支流に沿った断崖(比高差25メートル)、東側と南側を二重の土塁と堀で囲う、堅固な造りとなっている。また内側空堀も幅15m、深さ4mもある大掛かりな遺構を保持している。城は北西部に主郭があり空堀によって5つの曲輪に分けられている。その南側には1つの郭(曲輪)が設けられ、さらにこれらの曲輪の東側と南側を取り囲むように細長い曲輪が設けられ、その外堀沿いには5つの櫓台が置かれていた。各郭とも土塁と堀で囲まれており、最北の小さな郭に城主の居館があったと考えられる。発掘調査によって、城跡からは、兵士の詰め所と思われる竪穴住居や貯蔵庫と思われる半地下式の竪穴建物が確認され、また、常滑焼や瀬戸焼などの陶磁器類や小札や轡などの鉄製品が出土している。なお、城跡からは「烽家」と記された墨書土器が出土しており、平安時代初め頃にはこの地が烽火台として利用された可能性の高いことが確認された。
出典:wikipedia
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