バンブトンコートは日本の競走馬、種牡馬である。主戦騎手は伊藤清章(現、上野)。※馬齢は、旧表記(数え年)とする。調教師・伊藤修司の管理馬として、娘婿の伊藤清章が騎手を任された。1977年に6月18日の札幌競馬場のデビュー戦を大差勝ち、5走目の函館競馬場の函館3歳ステークス(現、函館2歳ステークス)を6馬身差、デイリー杯3歳ステークス(現、デイリー杯2歳ステークス)、暮れの阪神競馬場の阪神3歳ステークス(現、阪神ジュベナイルフィリーズ)と3連勝し、7戦6勝。阪神3歳ステークスを実況した杉本清がレース後「これが午年に送る関西の新しい星です」と謳った。勝ち時計も良く、1977年の最優秀3歳以上牡馬に選出された。1978年を迎えるが、骨折。皐月賞をスキップし、東京優駿(日本ダービー)を照準に絞った。この年初戦となった5月14日に東京競馬場のオープン戦に勝利。5月28日の東京優駿では1番人気に支持された。しかし強行ローテーションが響き、2番人気サクラショウリの4着に終った。枠番連勝馬券はバンブトンコートの同枠に入ったアグネスホープが2着に入るという代用品決着となってしまった。その後夏の函館記念、続く神戸新聞杯を連勝。菊花賞トライアルの京都新聞杯ではサクラショウリとの単枠指定同士の対決だったが、バンブトンコートと同厩舎のメジロイーグルの逃げ切りで、6着敗退。本番の菊花賞もサクラショウリとの単枠指定対決で7着と完全に株を下げる結果となった。1979年はマイラーズカップから始動し、インターグロリアに1/2馬身差で勝ち、次走の天皇賞・春は7着。ここまで手綱を取った伊藤清章が一時降板。オープン戦では栗田伸一で勝ち、6月3日の宝塚記念では神戸新聞杯でも手綱を取った若手ホープの河内洋に任せる形となった。レースではサクラショウリを徹底マークするが、サクラショウリにまたしても完敗した。次走の高松宮杯(現、高松宮記念。この年は阪神競馬場で開催)でも河内洋が引き続き手綱を取るが、3歳馬ネーハイジェットに敗退。夏の函館開催では手綱が伊藤清章へと戻り、函館記念連覇を賭けるが、エンペラーエースの3着に敗退。秋は中京競馬場で行われた朝日チャレンジカップを勝つが、目黒記念、天皇賞・秋、有馬記念、ともに距離の壁や調子下降で見せ場なく惨敗。1980年は3月23日の鳴尾記念で60キロの斤量を背負い6着。8月3日、最後のレースとなった函館競馬場の巴賞では9頭中8番人気ながらサーペンプリンスを退け1着となった。引退後はファンだったサラリーマンの人物が引き取り、故郷の修栄牧場で繋養。宮城県の斉藤牧場で安い種付け料で種牡馬生活を送っていた。種牡馬を引退後は山梨県の信玄牧場で余生を過ごしていたが、1995年に死亡した。バンブトンコートの資質を買っていた大橋巨泉が再三に渡り騎手交代を求めていたと言われている。その候補に福永洋一や、河内洋などの名が上がっていた。
出典:wikipedia
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