ジョン・カルビン・クーリッジ・ジュニア(John Calvin Coolidge, Jr., 1872年7月4日 - 1933年1月5日)は、アメリカ合衆国の第29代副大統領、第30代大統領。在任は1923年8月3日から1929年3月4日。無口で「寡黙なカル」と呼ばれた。なお日本語では「カルビン」と表記されることが多いが、英語の発音は「カルヴァン」に近いものである(Calvin Klineを「カルヴァンクライン」とするのと同様)。クーリッジは1872年7月4日、バーモント州ウィンザー郡プリマスで、ジョン・カルビン・クーリッジ・シニアとビクトリア・ムーア夫妻の間に生まれた。クーリッジはアメリカ独立記念日に生まれた唯一の大統領である。バーモント州のセントジョンズベリーアカデミーで学んだ後、マサチューセッツ州のアムハースト大学に入学、同大学を1895年に卒業したが、これ以降はもっぱらファーストネームの「ジョン」を外してミドルネームの「カルヴァン」を用いるようになった。その後、マサチューセッツ州ノーザンプトンで弁護士となり、1899年に市議会議員になった。1900年から1902年まで市事務弁護士、1904年に法廷事務官、1907年から1908年まで州下院議員を1期務めた。1905年にはグレース・アンナ・グッドヒューと結婚した。夫妻の個性は正反対で、クーリッジは無口だったのに対し、グレースは話し好きだった。ふたりの間には1906年に生まれたジョン・クーリッジと1908年に生まれたカルビン・ジュニアの2人の息子がいた。クーリッジは1910年と1911年にノーザンプトンの市長に選出された。その後1912年から1915年まで州上院議員を務め、1914年と1915年には議長に選出されている。1916年から1918年まで州副知事をつとめたのち、1919年から1920年まで州知事を務めた。1919年にボストン警察がストライキを行った時、クーリッジは州兵の出動を命じ、全国的な注目を引いた。彼は後に労働組合の幹部、サミュエル・ゴンパーズに「誰にも、どこに於いても、いついかなるときも公の安全に対するストライキの権利はない」と言い放つなど、労働運動に敵対的であった。クーリッジは1920年に共和党の大統領候補指名を争ったが、オハイオ州上院議員ウォレン・ハーディングに敗れた。ハーディングを支持した者のなかには副大統領候補にウィスコンシン州の上院議員アーヴィン・レンルートを求める声が多かったが、結局共和党はマサチューセッツ州知事のクーリッジを指名した。大統領選でハーディング=クーリッジのチケットは、民主党の大統領候補オハイオ州知事ジェイムズ・コックスと副大統領候補海軍次官フランクリン・ルーズベルトのチケットに勝利した。副大統領としては目立たない存在だったが、1923年8月2日ハーディングが遊説先のサンフランシスコで急死すると、翌日の早朝に大統領に昇格した。彼の家には電気も電話も通じていなかったので、クーリッジは大統領死去の知らせを伝言人から口頭で受けた。日付がかわった8月3日の午前2:47、自宅の応接室で公証人である父親の立ち会いの下、灯油ランプの灯りで就任宣誓を行った。クーリッジは首都ワシントンに戻ると最高裁判所長官のウィリアム・タフトの立ち会いのもと再度就任宣誓を行った。クーリッジは現職大統領として1924年の大統領選に出馬し当選した。クーリッジはその任期中に新媒体のラジオを利用し、1924年2月12日、ラジオ演説を行った初の大統領になった。また2月22日にはホワイトハウスからラジオ演説を行った初の大統領になった。クーリッジは景気循環に自然の経過をたどらせて自由市場に干渉することを試みなかった最後の大統領だった。彼の大統領職中にアメリカ合衆国は著しい経済成長を遂げ、その期間は「狂騒の20年代」と呼ばれた。クーリッジは税を低減させるだけでなく国債の縮小にも有能だった。彼は「必要以上の税を集めるのは合法的強盗である」との名言を残している。後のレーガン大統領は、クーリッジを敬愛し、大統領執務室に肖像画を掲げていた。いわゆる排日移民法と呼ばれる移民政策もクーリッジが大統領の時代に成立した。クーリッジ自身は「この法案は特に日本人に対する排斥をはらんでいるものであり、それについて遺憾に思う」という声明を出して否定的な立場をとったが、最終的には議会に屈して法案に署名をして成立させた。一方でクーリッジは移民規制について「人種の混血は自然の摂理に反する事である」と談話を発表している。1928年の大統領選ではクーリッジは「大統領選に出馬しない」との簡潔な決定を発表した。大統領退任後に彼は超党派の鉄道委員会の議長および盲人協会の名誉会長職、ニューヨーク・ライフ保険会社の理事、アメリカ歴史学会の会長、アムハースト・カレッジの理事を務めた。クーリッジはメイン州ルーイストンのベイツ・カレッジから名誉法学博士号を受け取った。1929年には自叙伝を上梓し、1930年から1931年まで新聞にコラム『Calvin Coolidge Says』を連載した。1933年1月5日午後12:45にマサチューセッツ州ノーザンプトンの自宅「ザ・ビーチ」で血栓症のため急死、60歳だった。1932年の大統領選挙でフーヴァーが再選に失敗したことに対してクーリッジは失望を語り、その後クーリッジの健康状態は急速に悪化した。死の直前に彼は旧友に「私はもはやこの時代にそぐわない」と打ち明けた。クーリッジはバーモント州プリマスノッチのノッチ墓地に埋葬された。同所の一家の邸宅は博物館として整備されている。バーモント州は1972年7月4日、クーリッジの100歳の誕生日を記念して史跡センターを開設した。彼はまたバーモント州モントピリアのバーモント州議会ホールでその業績をたたえられている。クーリッジは熟練した有能な演説家として知られていたが、私生活では大変無口で「サイレント・カル」(寡黙なカル)という愛称で呼ばれた。夫人とその友人が食事の間に大統領に少なくとも3単語を言わせることができるかという賭けを行ったが、賭けのことをクーリッジに伝えた際、クーリッジは「君の負け(You lose.)」と2単語で返答した。しかしながら夕食に招かれた別の友人は「夕食のパートナーとして彼の沈黙に不平を言わなかった人の気が知れない」と語っている。1924年の大統領選挙の前に、下の息子のカルビン・ジュニアは天疱瘡に罹り、その後間もなく死亡した。息子の死後クーリッジはさらに内向的になり、人々は彼が息子の死から完全に立ち直ることができなかったことを知っていた。クーリッジは「彼(ジュニア)が死んだとき、大統領としての栄光は彼と共に去った」と語った。
出典:wikipedia
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