志茂(しも)は、東京都北区の町名。現行行政地名は志茂一丁目から志茂五丁目。住居表示実施済み区域である。東京都北区の北東部北東端にあたり、隅田川西岸の低地に位置する。町域北部に岩淵水門があり、その付近で荒川から隅田川が分流し、また新河岸川が隅田川に合流する。町域の北は東京都・埼玉県境をなし、東は隅田川が北区・足立区の区境をなす。南は神谷、西は赤羽および赤羽南と接する。地区の中央を国道122号(北本通り)が南から西へ走り、その地下を東京メトロ南北線が走る。新河岸川と荒川の間の中州状になった範囲にも町域が及ぶ。中州とは橋で連絡され、荒川下流河川事務所、公務員住宅などがあるが、荒川対岸の埼玉県や足立区側へ直接渡る橋は町域内にはない。住宅地の地価は2015年(平成27年)1月1日の公示地価によれば志茂1-16-14の地点で36万3000円/mとなっている。江戸時代は豊島郡岩淵領下村。『武蔵田園簿』による村高は415石余であるが、江戸期を通じた新田開発の結果、天保郷帳による村高は846石余に及んだ。小名に上・下・大荒久などがあった。正保期に天領となり、その後小石川伝通院・浅草幡随院・谷中南泉寺等にも分け与えられた。代官手代の八官七兵衛により荒川沿岸の新田開発が行われ、1675年(延宝3年)八官新田と号した。また、荒川対岸の岩淵宿内に梛野原新田が飛地として存在した。下村は1871年(明治4年)11月に浦和県(現埼玉県)から東京府に編入され、1878年(明治11年)に北豊島郡に所属した。1889年(明治22年)、町村制の施行に伴い 岩淵町に併せられ、岩淵町大字下となる。1932年(昭和7年)東京市に編入される際表記を改め、王子区志茂町一~三丁目となった。1957年(昭和32年)に大半が志茂一~五丁目に再編成され、1967年(昭和42年)5月1日の住居表示実施の際に1957年に再編成されなかった志茂町三丁目が志茂五丁目に編入された。1932年(昭和7年)に王子区志茂町成立の際、大字下の小字志茂から採用された。この字志茂も元は「下」と書かれ、明治に好字二字化されたものであるが、同じく下村の字「上」(後に「加美」)と対を成している。下村の名称はこの小字上・下とは異なり、由来は荒川の渡し場があった岩淵宿の下流にあったことによる説が唱えられている。そのほか町域外の赤羽にある東日本旅客鉄道赤羽駅等が利用される。
出典:wikipedia
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