那波加神社(なはかじんじゃ/なばかじんじゃ)は、滋賀県大津市にある神社。式内社で、旧社格は県社。神紋は「苗を背負鹿」「三ツ巴」「抱茗荷」。主祭神配神明治時代まで、主祭神は宇賀御玉命とされていた。『特選神名牒』では、「苗鹿」という社名から稲の神・宇賀御玉命が附会されたものであろうとしている。社伝によれば、祭神の天太玉命はこの地に降臨し太古から鎮座したという。老翁となった天太玉命の農事を助けるために、鹿が現れて稲の苗を背負って運んだので「苗鹿(なはか/のうか)」という社名・地名になったと伝える。当社との関わりがうかがわれるものとして、周辺には苗鹿古墳群や法光寺古墳群なども残っている。天智天皇7年(668年)に社殿造営、大同2年(807年)に荒魂社が造営されたと伝える。仁寿元年(851年)、小槻宿禰今雄が雄琴荘を拝領して以降、当社と雄琴神社とが小槻氏の氏神とされ崇敬された。また、氏寺として建立した法光寺が当社別当寺となった。なお、法光寺境内には鎮守社として天神社があり木造男女神像(市指定文化財)が安置されているが、これらは当社の神体として作られたとする説がある。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では近江国滋賀郡に「那波加神社」と記載され、式内社に列している。円仁が比叡山延暦寺の横川中堂を建立した際には、内陣柱を奉加した。このことも関係し、天台宗において法華経守護神である三十番神に第29番「苗鹿大明神」(本地仏:阿弥陀如来)として列している。建武2年(1355年)には後醍醐天皇より勅使が差遣され、天下太平祈願がなされた。元亀2年(1571年)織田信長の比叡山焼き討ちの際に社殿等を焼失し、慶長12年(1607年)再建された。明治9年(1876年)10月近代社格制度において村社に列し、明治28年(1895年)1月に郷社に、明治35年(1902年)5月には県社に昇格した。「上の宮」と称される那波加荒魂神社に対し、本社は「下の宮」と称される。本殿は一間社流造で、間口五尺・奥行五尺。拝殿は入母屋造で、間口二間一尺・奥行二間一尺。斎部宿禰広成が祭神の荒魂社を創建、別宮としたという。社殿は概ね本社と同じであるが、拝殿・神饌所・神輿庫はない。社殿背後には盤石が残り、磐座信仰の名残を伝える。那波加神社境内那波加荒魂神社境内所在地交通アクセス周辺
出典:wikipedia
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