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小林清親

小林 清親(こばやし きよちか、弘化4年8月1日〈1847年9月10日〉 - 大正4年〈1915年〉11月28日)は、明治時代の版画家、浮世絵師。月岡芳年、豊原国周と共に明治浮世絵界の三傑の一人に数えられ、しばしば「最後の浮世絵師」、「明治の広重」と評された。方円舎、真生、真生楼と号す。江戸本所の御蔵屋敷で生まれた。父小林茂兵衛が年貢米の陸揚げを管理する小揚頭(こあげがしら)という、御蔵屋敷では端役の小揚人夫の頭取だったからである。清親は七人兄弟の末子で幼名は勝之助といった。兄弟のうち三人は既に亡く、兄3人姉2人がいた。文久2年(1862年)10月14日、15才の時に父が死に、兄達は既に別居していたため、同居して最も信頼を得ていた勝之助が元服し家督を継ぎ、清親と名乗った。その後勘定所に配属され、慶応元年(1865年)の徳川家茂上洛の際には勘定所下役としてこれに随行している。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いや上野戦争に幕府軍として参加した武士の一人であった。江戸幕府崩壊後、清親は他の幕臣たちと共に静岡に下り、一時三保に住んだ。後に浜名湖鷲津に移った。明治6年(1873年)頃東京に戻り、180cmを超える体格を買われ剣豪榊原鍵吉の率いる剣術興行団員として、大坂、静岡などを転々とする。しかし生活は苦しく、明治7年(1874年)絵描きを志すようになった。清親はこの頃、西洋画をチャールズ・ワーグマンに学ぶが、すぐにワーグマンの不興を買って足蹴にされたらしい。怒った清親は上京し、日本画を河鍋暁斎や柴田是真、淡島椿岳に学んだ。さらにこの時期に、下岡蓮杖に写真の手ほどきも受けていたという。現存する写生帳(個人蔵)では、明治10年代の時点で高い水彩画の技術を身に付けていることがわかる。それから二年後の明治9年(1876年)、清親は大黒屋(四代目松木平吉)より洋風木版画の「東京江戸橋之真景」「東京五代橋之一両国真景」でデビュー、同年8月31日から「光線画」と称して昭和初年以来『東京名所図』と総称される風景画シリーズ(計95種)を出版し始める。清親はその西洋画風を取り入れたそれまでの浮世絵にはなかった新しい空間表現、水や光の描写と郷愁を誘う感傷が同居した独自の画風が人気を博し、浮世絵版画に文明開化をもたらした。明治14年(1881年)の両国の大火後、光線画から遠ざかり、翌年から『團團珍聞』などに「清親ポンチ」なるポンチ絵を描くようになった。また『日本外史之内』などの歴史画や、広重に回帰する『武蔵百景之内』(明治17-18年、全34図)、『東京名勝図会』(明治29-30年、全28図)、新聞や雑誌の挿絵など画域を広げていく。日清、日露戦争では戦争画を数多く描くが、その後錦絵の衰退により肉筆浮世絵を多く描くようになった。浅草小島町、山ノ宿、下谷車坂町に住み、上野、浅草を描いた絵も多い。明治27年(1894年)から明治29年(1896年)までの間、「清親画塾」を開いている。明治41年(1908年)自らの還暦を祝した千画会では、1000点以上の絵を描き健筆ぶりを示している。のちに持病のリウマチが高じて69歳で没した。法名は真生院泰岳清親居士。墓は台東区元浅草の竜福院にあり、清親画伯之碑もある。清親の弟子に同じく光線画を描いた井上安治、ポンチ絵や戦争画を描いた田口米作、詩人として知られる金子光晴、30年間に渡って師事した土屋光逸、珍品収集家として知られる三田知空のほか、篠原清興、吉田美芳らがいる。江戸から東京への絵画の変遷を体現した画家として注目され、浮世絵の歴史は清親の死によって終わったともいえる。清親は生前から現在まで、常に研究対象として常に一定以上の関心を払われており、近年ようやく本格的な研究が進みつつある明治期の浮世絵師のなかでは異例のことであった。

出典:wikipedia

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