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鳥谷敬

鳥谷 敬(とりたに たかし、1981年6月26日 - )は、阪神タイガースに所属する東京都東村山市出身のプロ野球選手(内野手)。2010年と2011年に阪神選手会長、2012年に野手キャプテン、2013年から2015年はチームキャプテンを歴任。2016年からは再び野手キャプテンを務めている。3兄弟の長男として出生した後に、白梅女子短期大学付属幼稚園、東村山市立八坂小学校から羽村市へ移住。羽村市立小作台小学校に転校。小学生時は東村山ジュニアメッツ、小作台少年野球クラブに所属し、野球の他に柔道もやっていた。元々は左利きで右利きに矯正されたため小学校の途中まで右打ちだったが、左手に箸を持ち弁当を食べていたのを見た監督から「左で打ったほうがいい」と言われたのがきっかけで左打ちに転向した。羽村第一中学校時代は西東京支部の瑞穂シニアに所属。聖望学園高校では3年夏に遊撃手兼投手として第81回全国高等学校野球選手権大会に出場。初戦の日田林工高校戦ではリリーフとして登板し、最速143 km/hを計測したが敗退した。高校卒業後は早稲田大学(人間科学部スポーツ科学科)に進学し、遊撃手に専念。後藤武敏と並んで東京六大学野球連盟史上最速タイとなる2年春での三冠王を達成し、4年春には当時のリーグ記録となる19四死球を記録。4年秋には2度目の首位打者を獲得し、ベストナインにも通算5度選出された。主に3番を打ち、同期の青木宣親・比嘉寿光・由田慎太郎らと共に中心選手としてリーグ戦4連覇に貢献。大学通算96試合出場、345打数115安打、打率.333, 11本塁打、71打点。卒業論文テーマは『打撃動作における下肢の筋電図解析』のドラフト会議において自由獲得枠で阪神に入団。この時読売ジャイアンツ(巨人)・西武ライオンズ・横浜ベイスターズも鳥谷の獲得を目指していたが、天然芝でのプレーを望んでいた鳥谷は「お金で自分の将来を決めたくない。そんな人間だと思われるのが一番嫌だ」と語り、阪神を選んだ。大物新人選手としてキャンプ・オープン戦から注目され、藤本敦士とポジションを争った。7番遊撃手で開幕先発出場し、プロ初安打を記録したが、その後は結果を出せず、開幕5試合でスタメンを外れ、6試合目からは藤本に正遊撃手を譲った。シーズン前半は主に代打や三塁手に出場機会が限られ、77打数13安打・打率.169とプロの壁に苦しんだ。藤本がアテネオリンピック野球日本代表としてチームを離れた8月と藤本が不振に陥った9月中旬からシーズン終了までは再び遊撃手として先発出場する機会を得て、シーズン後半は158打数46安打・打率.291と持ち直し、最終的に打率.251, 3本塁打、17打点に終わった。藤本が二塁手にコンバートされ、開幕から遊撃手として全試合出場。2番を打っていた藤本と関本健太郎の打撃不振によりセ・パ交流戦以降は2番打者に定着。打率.278, 9本塁打、52打点の成績を残し、サヨナラ本塁打を2本放つなどチームの優勝に貢献。自身初のオールスターゲームにも出場し、千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズにも出場した。オフには高校の1年先輩で野球部マネージャーだった女性と結婚。シーズン前半は主に7番遊撃手、シーズン後半は6番遊撃手として全試合フルイニング出場。6月1日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で愛敬尚史から逆転2ラン本塁打、2日の対福岡ソフトバンクホークス戦では斉藤和巳からソロ本塁打とタイムリー二塁打、3日の対ソフトバンク戦では藤岡好明からサヨナラ安打を放ち、3日連続でヒーローインタビューに立った。ファン投票選出で2年連続でオールスターゲームに出場。9月前半まで打率3割台を維持したが、シーズン最終盤に成績を落とし、最終成績は打率.289, 15本塁打、58打点だった。9月に長男が誕生。赤星憲広に代わり主に1番打者として全試合出場したが好不調の差が激しく、打率.273, 10本塁打、43打点と打撃成績が前年よりも落ち込んだ。7月24日の対中日ドラゴンズ戦で遊撃手として340試合連続フルイニング出場のプロ野球記録を樹立し、9月28日の398試合まで記録を伸ばしたが、25日の試合で受けた死球の影響で翌29日に途中交代した。同年オフにレーシック手術を受け視力が回復した。開幕から「6番・遊撃手」として一軍公式戦に出場。シーズン前半は3割を超える打率で、勝負強さも見せた。夏場に新井貴浩が離脱した際には3番や5番に入ったが調子を落とした。不調だった今岡誠が9月に復帰した後は再び6番に戻り、打率.281, 13本塁打、自己最多の80打点を記録。10月19日のクライマックスシリーズ対中日戦では1試合2本塁打を放った。守備では簡易RF5.13を記録したが、ゴールデングラブ賞受賞はならなかった。同年は自身2度目の全試合フルイニング出場も達成してベストナインを初受賞。9月13日に次男が誕生。開幕から「3番・遊撃手」として一軍公式戦に出場。4月終了時点で90打数30安打14打点と好調だったが、5月に不調に陥り、打順も7番に降格し、チャンスで代打を送られるなど苦しんだ。シーズン後半は完全復調して打順も3番に戻り、打率.288, 自身初の20本塁打、75打点を記録。安打、得点、打率、長打率、OPSはチーム1位。守備でも遊撃手としてリーグトップの守備率.990を記録した。これは平田勝男がに記録した.988を上回る球団記録でもあった。11月26日、引退した赤星の後継としてチーム選手会長に就任した。前年に続いて、開幕から「3番・遊撃手」として一軍公式戦に出場。5月にマット・マートンと交錯し腰椎を骨折した後、成績を落とし、4試合スタメン離脱。6月から7月まで1番打者を務め、3番に戻った8月から一気に調子を上げ、赤星の持っていた球団月間安打記録を更新する43安打を放つなど、月間打率.422, OPS 1.151の活躍で月間MVPを初受賞した。また、7月20日の対広島東洋カープ戦で球団史上初となる延長戦での逆転サヨナラ本塁打を放った。10月2日の対広島戦で、遊撃手としてプロ野球史上初となるシーズン100打点を記録。10月5日の対東京ヤクルトスワローズ戦でプロ通算1,000本安打を達成。シーズンを通して打率.301, 19本塁打、104打点と自己最高の成績を残し、リーグトップの得点圏打率.360, 満塁打率.500を記録するなど勝負強さも見せて2年ぶり2度目のベストナインを受賞。7月2日に長女が誕生。開幕から「3番・遊撃手」に定着。5月15日の対中日戦で打球処理の際に右手人さし指の爪を裂傷し途中交代。翌週から始まったセ・パ交流戦では遊撃守備を上本博紀に譲り、5月28日に守備復帰するまで指名打者や代打で出場した。5月22日の対西武戦で通算1,000試合出場を達成。この年に導入された統一球の影響もあり本塁打・打点は前年の半分以下に落ちたものの、2年連続の打率3割越え(打率.300・リーグ4位)を記録し、OPSはリーグ3位、RC27はリーグ2位をマーク。RCWINでは自己最高の数値を記録するなど、傑出度では過去最高の成績だった。また三塁打7・四球78・出塁率.395はいずれもリーグトップで、自身初のタイトルとなる最高出塁率を獲得した。上述の怪我で守備ができない時期もあったが、3年連続失策一桁台、自身の持つ球団記録を更新する守備率.991を記録して、ゴールデングラブ賞を初受賞、2年連続3度目となるベストナインも受賞した。9月3日に国内フリーエージェント (FA) 権を取得したが行使せず残留した。チームがキャプテン制を導入したのに伴い、投手キャプテンの藤川球児と並んで野手キャプテンに選ばれた。シーズンでは阪神で唯一全試合出場を果たし、成績は打率.262, 8本塁打、59打点と昨年より大きく打率を落としたが、自身最高の94四球を記録し高出塁率は維持した。8月には海外FA権を取得。「メジャーへの思いはあります」とメジャーリーグ挑戦志向があることを公言し、「メジャーか残留かは正直、五分五分」とまで話したが、前年と同じくFA権を行使せずに残留を表明。「いろんな可能性を残して、自分を奮い立たせてやりたい」と年俸2億8,000万円の単年契約で契約更改した。オフの12月4日に発表された第3回WBC日本代表候補選手34人に入った。シーズン前に開かれたWBCの日本代表に選出。日本代表の強化試合およびWBCの本選では、本職である遊撃手以外の内野手の層が薄いチーム編成の下で、公式戦での経験がほとんどない二塁手や三塁手としても多く起用された。2次ラウンドの対チャイニーズタイペイ戦(東京ドーム)で1点ビハインドの9回表1死から四球で出塁すると、2死後に打者・井端弘和の場面で二盗に成功。直後に井端の適時打で同点のホームを踏み、延長10回・4対3で日本代表が勝利したのに貢献した。翌日の対オランダ戦には、それまでの本選で無安打だったにもかかわらず、出塁率の高さや前述の盗塁を買われてリードオフマンとして先発出場。初回に先頭打者本塁打を右翼に放った。この一打をきっかけに、チームはWBC1試合最多記録タイの17安打・6本塁打の猛打を見せ、16-4で大会規定による7回コールド勝ち。3大会連続の決勝ラウンド進出を決めた。決勝ラウンド準決勝の対プエルトリコ戦(サンフランシスコ・AT&Tパーク)では、1番二塁手として8回裏の打席で三塁打を放つと、次打者・井端の適時打で日本代表唯一の得点を挙げたが、チームは1対3で敗退した。レギュラーシーズンでは、藤川のメジャーリーグ移籍に伴いチームキャプテンに選ばれ、3番遊撃手として公式戦への出場を継続。7月7日の対広島戦(マツダスタジアム)で、2004年9月9日の対ヤクルト戦(甲子園)からの連続試合出場記録がNPB歴代単独3位の1,251試合に達した。また、オールスターゲームには、セントラル・リーグのファン投票・遊撃手部門で選出。同ゲーム前最後のリーグ戦であった7月17日の対巨人戦(甲子園)から9月16日の対ヤクルト戦(神宮)までは、球団史上最長・リーグ歴代3位タイの47試合連続出塁を記録した。8月30日の対広島戦(甲子園)で、自身初にして、阪神の遊撃手では1980年の真弓明信以来33年振りに4番で起用された。10月以降は3番に戻ったものの、公式戦ではリーグ最多および球団新記録の104四球を記録し、2年連続フルイニング出場を達成した。2011年以来2度目となるゴールデングラブ賞を両リーグ最多投票で受賞、通算4度目となるベストナインも受賞し、DELTA算出のUZRで遊撃手1位の26.4, 1,000イニングあたりのUZR/1000では2位の20.4を記録、同社算出の選手総合評価指標WARでは両リーグ1位の8.0を記録した。シーズンオフには「優勝できなかったということがあるし、チームの方に必要とされた」と話し、年俸3億円の単年契約で契約更改した。背中の張りを訴えてオープン戦を数試合欠場したが、開幕戦であった3月28日の対巨人戦(東京ドーム)では、公式戦では2007年以来7年振りに「1番・遊撃手」としてスタメンに起用。4月には、30日の対広島戦(甲子園)2回裏に適時打で出塁すると、マウロ・ゴメスの本塁打によるホームインで月間30得点の球団新記録を達成した。5月29日の対西武戦(甲子園)では、現役選手では最も若い32歳11か月で、一軍公式戦通算1,500本安打を記録。レギュラーシーズン全体では、自己最高の打率.313、出塁率.406という成績を残した。また、NPBの遊撃手としては初めて、公式戦3年連続フルイニング出場を達成。藤村富美男と並ぶ球団タイ記録および、NPB史上4位に相当する10年連続全試合出場も成し遂げた。なお、シーズン終了後には、海外FA権を行使することを宣言。代理人にスコット・ボラスを立てたうえで、MLB球団への移籍を目指した。宣言後の交渉では、複数の球団が獲得に興味を示した。しかし、条件面で折り合いがつかなかったため、阪神への残留を表明した。春季キャンプ直前の1月22日に、推定年俸4億円(1億円増)という条件で5年契約を締結した。レギュラーシーズンでは、9月3日の対広島戦(甲子園)で、球団歴代3位の通算1740安打を達成。4年連続の公式戦全試合フルイニング出場を達成するとともに、シーズン終了後には、3年連続6度目のベストナインを受賞した。通算6度目のベストナイン選出は、藤田平に並ぶ球団2位の記録である。その一方で、シーズン終了後には、2012年までのチームメイトだった金本知憲が一軍監督に就任。金本からゴメス・福留孝介と並んでレギュラー野手の座を早々に確約される一方で、「数字(成績)、実績、年齢、年数をすべて考えても、(金本自身が把握する限りでの鳥谷の能力に比べれば)物足りない。お前が変わらないと、チームも変わらない」という表現を通じて、打撃フォームの改造や長打力をあげるための体重増、意識改革を求められた。投手・野手別のキャプテン制度が4年振りに復活したことから、チームキャプテンから野手キャプテンに変更(投手キャプテンには福原忍が就任)。金本監督による構想の下で、「6番・遊撃手」として公式戦をスタート。4月24日の対広島戦(マツダスタジアム)で、NPB一軍公式戦600試合連続フルイニング出場を達成した。この記録は、NPBの野手では史上4人目、遊撃手のみで公式戦に出場した選手としては初めてであった。しかし前半戦では、プロ入り後自己ワーストの28打席連続無安打に陥ったり、4番と9番以外の全打順でスタメン出場を経験したりするなど総じて不振。4年振りにオールスターゲームへの出場を逃した。後半最初の試合であった7月18日の対巨人戦(甲子園)では、NPB一軍公式戦通算1102三振を喫するとともに、阪神の選手による一軍公式戦での通算最多三振記録を更新。結局、シーズンの通算打率は、プロ入り後最低の.236にとどまった。本塁打数(7本)や盗塁数(13)は例年とほぼ同じ水準だったものの、通算打点は36で、入団1年目に次ぐ少なさだった。さらに、7月24日の対広島戦(マツダスタジアム)では、2011年10月24日の同カード以来5シーズン振りにスタメンを外れた。一軍公式戦への連続フルイニング出場は667試合で途切れたが、この試合から8試合にわたって、途中出場ながら連続試合出場の記録を継続。8月3日の対DeNA戦(横浜)に「3番・遊撃手」としていったんスタメンへ復帰したが、以降の試合でも、代打からの途中出場が相次いだ。自身の連続フルイニング出場ストップを機に、北條史也が遊撃手として頭角を現したことから、9月3日の対横浜戦(甲子園)では「6番・三塁手」としてスタメンに起用された。三塁手としての一軍公式戦出場は2004年9月11日の同カード(横浜)、スタメンでの起用は同年6月20日の対巨人戦(東京ドーム)以来12年振り。この試合を境に、自身を三塁手、北條を遊撃手としてスタメンで併用するパターンが定着した。なお、スタメンを外れた9月30日の対巨人戦(甲子園)では、出場機会のないまま7回裏2死から強い降雨で試合が中断。試合自体は5回裏終了の時点で成立していたため、雨天コールドゲームへ至った場合には、自身の連続試合出場記録が1570試合で途切れる可能性があった。しかし、11分間の中断を経て試合が再開されると、8回表から三塁手として出場。チームのレギュラーシーズン最終戦であった翌10月1日の同カードでは、「6番・三塁手」としてのフル出場によって、上記の記録を1752試合にまで伸ばしている。打球を広角に打ち分ける技術を持ち、2009年は20本塁打のうち左方向へ3本、中方向が1本だったが、2010年は19本塁打のうち左方向へ7本、中方向が3本と左中間で半分以上を占めた。2006年から2010年までの通算の対右打率.300に対し対左打率.262と左投手を苦手とし、特に左投手の落ちる球を苦手としていた。しかし2011年からは通算の対左打率.280を記録している。2013年に両リーグ最低のボール球スイング率、リーグ最多の78四球で最高出塁率のタイトルを獲得した2011年以降3年連続でリーグ最多四球を記録している。2013年には、球団記録の104四球を達成した。新人合同自主トレにて行った100メートル走では12秒台だったが、50メートル走では5秒75を記録した。しかし走塁面では一塁到達は4.17秒と左打者としては平均的で、また2004年から2009年までの6年間では合計盗塁数は30であり、盗塁成功率は51.7%にとどまったが、2010年から2013年現在までの4年合計59盗塁(4年とも2ケタ盗塁以上)、盗塁成功率は77.7%を記録した。守備では遊撃手として起用され、2013年のWBCでは二塁手や三塁手としても起用された。高校時代には投手として140 km/h台を記録し、プロ入り後初めてブルペンで投げた2012年の春季キャンプでは134 km/hを記録した。三遊間の打球に強い。レンジファクターは、2008年では高い数値を記録したが、2011年ではリーグ最低だった。2009年から守備コーチを務めた久慈照嘉の指導の下、安定性を増して守備率も向上させ、2006年には490補殺でセ・リーグのシーズン最多補殺記録、2008年にはリーグ16年ぶりの5点台となる簡易RF5.13を記録し、2010年には両リーグ2位のUZR11.7を記録。2012年にも守備イニング1,000以上の遊撃手で両リーグ4位のUZR10.4を記録。また2013年にはDELTA社算出のUZRで遊撃手両リーグ1位の28.9を記録している。2014年はDELTA社算出のUZRは遊撃手として-8.1、データスタジアム社算出のUZRは400イニング以上出場した遊撃手としてはリーグワースト2位のUZR-5.3を記録。2015年シーズン中には守備で足を引っ張るプレーが散見され、UZRでは最終的に-20.4を記録した(遊撃手としての数値)。2013年には野球選手の総合評価指標WARにおいて阿部慎之助に次ぐ2位を記録する。またベストナインを6回、ゴールデングラブ賞を4回獲得した。選手寮の施設スタッフによると、鳥谷は寮にいた頃からカップラーメンや白砂糖を使用した缶コーヒー等の類は口にしたことがないという。2009年にチーム全体で取り組んだ、ペットボトル飲料のキャップ(エコキャップ)を800個集めることでポリオワクチン1本と交換できる福祉活動の一環として、鳥谷自らエコキャップ数千個を持参し、芦屋市内の幼稚園に寄付した。2010年、2011年、2013年のシーズンオフに大阪市立大学付属病院の小児科を慰問しており、その後の訪問にも意欲を見せている。2015年4月には、フィリピンなどの貧しい子どもたちに靴を送る活動を行う一般社団法人「レッドバード」の創設に関わった。2014年12月に野球教室を開くためグラブ100個を持参してマニラを訪れたところ、現地の子どもたちの多くが裸足だったのを見て「必要なのはグラブではなく靴だ」と感じたことがきっかけであった。自らも「レッドバード」に理事として参加している。阪神球団も、以上の活動を高く評価。2015年には、球団から第5回若林忠志賞を授与された。

出典:wikipedia

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