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石岡繁雄

石岡繁雄(いしおか・しげお 1918年1月25日 - 2006年8月15日)。日本の登山家、岩稜会会長、日本山岳会東海支部名誉会員。アメリカ合衆国カリフォルニア州サクラメント生まれ。3才で父の故郷である愛知県愛西市に戻り、愛知県立旧制津島中学校(現・愛知県立津島高等学校)、旧制第八高等学校をへて、名古屋帝国大学工学部電気学科卒。名古屋大学職員、国立豊田高専教授を経て同鈴鹿高専教授を退職後、石岡高所安全研究所所長。2006年8月15日、大動脈瘤破裂の為、死去、。 旧制第八高等学校、名古屋帝大の山岳部で活動、穂高山域の岩場の初登攀に挑戦。1947年7月、「登攀不可能」と登山界で怖れられていた上高地の奥の横尾谷に高さ約600メートル、垂直に近くそそり立つ穂高・屏風岩の中央カンテ(岩壁突出部)の初登攀に成功した。この初登攀は教壇に立ち、自ら山岳部長をつとめる旧制の三重県立神戸(かんべ)中学(現・神戸高校)の山岳部員ら2名と共に行われた。現代のような登攀器具がない時代だったため、投げ縄を用いて挑戦した。初登攀を果たした後、「中学生ら未成年者を生命の危険にさらした」「岩登りの規範にない投げ縄を使った」の批判が一部から出た。しかし、正当な初登攀と認知された。また、「登攀は登山靴でなければならないと言われていたが、登山靴が手に入らない(時代だった)ため、地下足袋を履いた岩登りであった」と自ら明らかにした。屏風岩への挑戦の動機は、「この岩壁を外国人登山家に征服されたら、日本の登山界の不名誉となる」であり、その成功は「正面コース遂に落つ」と報じられ(1947年8月3日朝日新聞)、第二次大戦後の沈滞していた日本登山界に驚きをもたらし、一服の清涼剤的快挙となった。屏風岩登攀に先立つ1946年3月、三重県鈴鹿市に旧制・神戸中学山岳部の卒業生らを中心とした民間の山岳会「岩稜会」をつくり会長となり、鈴鹿山系の御在所岳・藤内壁(三重県)などで岩壁登攀の訓練を行う。会員の希望などから会の活動を穂高山域の未踏岩壁、未踏ルートに求める先鋭的登山に定めて、戦前と戦後の価値観の断絶、落差の大きさに方向性を見失いがちだった敗戦後の青少年たちを山の魅力へと導いた。1955年1月、前穂高岳東壁の冬期初登攀を目指した岩稜会パーティのナイロンザイル(径8ミリ)が岩角で簡単に切断し、実弟を失う事故に遭遇する。以後二十余年にわたって、ザイルメーカー、日本山岳会、登山界、マスコミ、ジャーナリストに対し、自らの学識、体験に基づく実験で得たデータによって、登山者の安全のためにナイロンザイルの岩角での弱さをメーカー、日本山岳会が認めるよう訴える「ナイロンザイル事件」を闘った。1975年、旧・通産省は石岡を登山用ロープ(ザイル)安全調査委員とし、登山用ロープの安全基準を世界で初めて設けた。これによって石岡らの主張の正当性は社会に認められた。1978年、石岡を会長とする岩稜会は、「社会体育優良団体」として文部大臣表彰を受けた。鈴鹿高専退職後、石岡高所安全研究所をつくり、一般にも普及したナイロンロープ(ザイル)の切断メカニズムの研究や鑑定、登山器具、福祉器具の開発などに傾注した。ナイロンザイルの岩角欠陥の究明から始まった研究は、ビル火災の際に高層階窓から安全に脱出できる携帯用自動降下装置や冬期登山の氷結急斜面でザイルパートナーの滑落、転落を止めるピッケル、岩壁登攀中の滑落が転落死につながることを防ぐため登山者が装着する緩衝装置(ショックアブソーバー)などの開発に結実、特許の取得にまで及んだ。それら資料は石岡の死後、母校である名古屋大学へ寄贈・寄託された。

出典:wikipedia

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