真部 一男(まなべ かずお、1952年2月16日 - 2007年11月24日)は、将棋棋士。加藤治郎門下。棋士番号は111。東京都荒川区出身。順位戦A級2期。若手時代は1950年代生まれの棋士の代表格として期待され、当時の名人だった中原誠に対する対戦成績の良さから「将来の名人候補」との評判も勝ち得た。奨励会時代から俊英として知られ、山口瞳の「血涙十番勝負」にも「真部一男三段。毎年惜しくも昇段を逃しているが、奨励会実力ナンバーワンは衆目の見る所。それどころか、順調に進めばA級間違い無しの俊秀である」という一節がある。四段昇段後は、順位戦C級2組で1期目と2期目が7勝3敗。3期目となった1975年度に10戦全勝でC級1組昇級。翌年も9勝1敗の好成績でB級2組に昇級する。1979年度の順位戦でB級1組に昇級。その後8年経って1987年度に9勝3敗の成績を収め、晴れてA級八段となる。B級1組昇級のときに28歳であった棋界のプリンスは、すでに36歳となっていた。A級には通算2期在籍。若手時代は、当時脂の乗りきっていた米長邦雄を得意とし、1982年度の第16回早指し将棋選手権・決勝三番勝負では米長をストレートで下して優勝するなど、80年代中頃までは米長相手に大きく勝ち越していた。この理由について本人は「奨励会時代から米長から目をかけて貰い、『ぶつかり稽古』と称した練習将棋を多い時は月に百局以上も指すなど、若い頃から米長将棋を吸収できたため」という旨を著書で述べている。しかし、棋戦優勝は、この1回に終わる。森安秀光ら関西勢の棋士を苦手とするなど、大一番でなかなか勝てず、ついにタイトル戦出場や2度目の優勝は叶わなかった。その後1990年頃より原因不明の体調不良に悩まされ、成績も1990年にA級から陥落すると翌年にはB級1組からも1年で降級するなど、急激に落ち込むようになる。2007年11月1日から2009年度末までの1年4カ月間、病気療養のため全棋戦を休場することが日本将棋連盟から公式発表されたが、それから1ヶ月も経たない2007年11月24日、転移性肝腫瘍のため死去。。公式戦通算成績は598勝614敗。600勝(将棋栄誉賞)を目前にしての早世だった。同日付で日本将棋連盟より九段が追贈された。2007年10月30日の順位戦C級2組の対局(対豊島将之戦)で、体調が悪化して指し続けることができず、33手で投了したのが最後の対局となった(右図)。弟子の小林宏によると、真部はこの投了の局面で妙手「△4二角」を発見していたが、その手を指せば相手が長考に入り次の自分の手番まで体が持たないだろうとして、この局面で投了したという。後日、豊島はこの対局について「△4二角は指されたら絶対に長考していた」とコメントしている。その後、真部の通夜が行われた11月27日のC級2組順位戦、村山慈明-大内延介戦で奇しくも同一局面が出現し、後手の大内が34手目にこの手を指した。大内は真部の絶局を知らずにこの手を指したと述べており、案の定この手を見た村山はそのまま110分の長考に入っている。本局は村山が逆転勝利を収めたが、対局後に真部の絶局の話を聞かされた大内は「勝ってやらなきゃならんかったな」と語った。真部の幻の妙手と、大内がそれを再現したことは、棋界で大きな話題となった。翌年3月に行われた将棋大賞の選考では、真部-豊島戦を名局賞に推す声も上がったが、一手の価値を認められて升田幸三賞(新戦法や妙手に与えられる)の特別賞が与えられた。これまで実際に指されなかった手に升田幸三賞が与えられたことはなかったが、構想にあったことは明らかであり、「指したのも同じ」とされた。元々居飛車党であったが、1980年代後半から振り飛車党に転向した。直線的な斬り合いよりは、手順を尽くした攻防に特徴があり、長手数の将棋になると勝っているケースが多い。
出典:wikipedia
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