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浄土寺 (尾道市)

浄土寺(じょうどじ)は、広島県尾道市にある真言宗泉涌寺派大本山の寺院。山号は転法輪山(てんぽうりんざん)。院号は大乗院。本尊は十一面観音で、中国三十三観音霊場第九番札所である。推古天皇24年(616年)、聖徳太子が開いたとも伝えられる。この寺が文書等にあらわれるのは鎌倉時代中ごろからのことで、鎌倉時代の初めには堂塔を守る人さえないという惨状だったが、鎌倉時代後期に真言律宗系の僧で叡尊の弟子・定証によって中興された。その後1325年(正中2年)に焼失したが、尾道の有徳人道蓮・道性夫妻によって復興された。現存する国宝の本堂・多宝塔、重要文化財の阿弥陀堂はこの時再興された建物である。南北朝時代に入ると、各勢力が浄土寺を味方につけようと外護に努めた。元弘の乱の際後醍醐天皇は、住職に綸旨を下して祈祷を命じるとともに、因島の地頭職を寄進した。足利尊氏は建武3年(1336年)2月九州に落ち延びる際、浄土寺本堂で戦勢挽回を祈願し、幾つかの地頭職を寄進。更に九州での戦いに勝利再起した同5月5日に再び浄土寺本堂に参籠して、1万巻の観音経を読経し、足利直義や道謙法師と共に観音経にちなんだ33首の和歌を詠じて戦勝を祈願している。尊氏はその後、備後国の利生塔を浄土寺境内(元尾道市立筒湯小学校校庭)に建立し、寺では今も足利氏の家紋「二つ引門」を寺紋として使い続けている。今川了俊も九州へ下る際、数か月浄土寺に滞在し、軍備を整えたという。室町時代も下ると、足利氏と関係の深かった浄土寺の寺運も衰えていった。近世に入ると落ち着きを取り戻し、泉涌寺派に属しながら尾道在住の豪商から外護を受けるようになり、庶民の信仰を中心とする寺院へ変貌していく。当地の豪商らによって、元禄3年(1690年)方丈(重要文化財)、正徳年間には護摩堂・経堂、享保4年(1719年)食堂(現在の庫裏及び客殿、重要文化財)が建立された。山門を入ると正面に本堂、その右手に阿弥陀堂と多宝塔が建つ。これらの中世仏教建築群に対し、境内西側には方丈、庫裏及び客殿など、僧の生活空間である近世建築群があり、庭園や茶室(露滴庵)もある。近世以前の寺院景観を良好に残す境内地は、本堂とともに国宝に指定されている。出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

出典:wikipedia

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