ゲヴォルグ・"ジョルジオ"・ペトロシアン(Gevorg "Giorgio" Petrosyan、Գեվորգ Պետրոսյան、1985年12月10日 - )は、アルメニア移民イタリア国籍の男性キックボクサー。アルメニア・ソビエト社会主義共和国エレバン出身。サトリ・グラディエートリウム・ネメシス所属。K-1 WORLD MAX 2009・2010世界王者。その防御技術の高さに定評があり、谷川貞治から「穴無し」と評された。アルメニア・ソビエト社会主義共和国(現:アルメニア共和国)のエレバンに生まれ、14歳のときにイタリアに移住し、そこでムエタイを習い始めた。2006年4月1日に、「Italian Extreme IV」という、K-1ルールによる70kg以下の4人制ワンデイトーナメントに出場。1回戦でリチャード・バーンヒル(イングランド)を1RKOで下すと、続く決勝戦も、ロエル・リンク(オランダ)を1RKOで下して優勝した。同年6月10日に行われた「S1 Muay Thai Middle Europe tournament」の興行で組まれたコンバットリーグ(以下、KL)ムエタイ世界67kg級王者決定戦に出場。ベニート・コーペーン(オランダ)と対戦。1RKOで下し、自身初の世界王座を獲得した。なお、階級の正式名称は、「66.678kg級」である。8月5日に行われた「The Night of Superfight」で、同王座の防衛戦をジョニー・タンクレー(フランス)相手に行い、4RTKOで下し、初防衛に成功した9月12日にポルデノーネでフランキー・ハーダーズ(イングランド)を相手に2度目の防衛戦を行った。ペトロシアンはハーダーズを2RKOで仕留め、2度目の防衛に成功した。11月19日にオランダで行われた「Rings Kickboxing Gala」で3度目の防衛戦を行い、イムロ・メイン(スリナム)を5R終了判定で下し、3度目の防衛に成功した。試合後には、デザインが新しくなった同王座のチャンピオンベルトをピーター・アーツから授与された。2006年12月2日、Janus Fight Night 2006で優勝。2007年1月23日に、タイのルンピニー・スタジアムでノンタナン・ポー.プラムック(タイ)と対戦し、ダウンを奪うが5R判定負けを喫した。なお、この試合の勝者には30万バーツの賞金が授与された。2007年4月14日、イタリア・ミラノで行われたK-1 Italy Grand Prix 2007 in Milanにてアースラン・マゴメドフに判定勝ち。2007年5月17日、K-1 Scandinavia GP 2007にてブアカーオ・ポー.プラムックとドロー。2007年11月24日、Janus Fight Night 2007で優勝。2008年11月29日、IT'S SHOWTIMEでウォーレン・スティーブルマンズに判定勝ち。2009年1月31日に、イタリアのトリノで行われた「CANPIONATO MONDIAL THAI BOXE & K-1 RULES」のWKNキックボクシングオリエンタル・インターコンチネンタルウェルター級王者決定戦に出場。デビット・ジャバキア(グルジア)と対戦。左ミドルキックで1RKO勝ちし、王座を獲得した。元々、この試合は、ユーリー・バラシャ(ベラルーシ)の持つWKNムエタイ世界スーパーライト級(66.7kg)に挑戦する予定だったが、事前に変更された。2009年3月14日、地元イタリアで開催されたOktagonでアンディ・サワーと対戦。下がりながらカウンター狙いの戦いをし、クリーンヒットを全く貰わず内容で圧倒したものの手数が少ないと見られドロー、しかし延長Rに抜群のタイミングでカウンターによるダウンを奪い判定勝ちを収めた。2009年4月21日、日本での初試合となったK-1 WORLD MAX 2009 FINAL16のトーナメント1回戦でジャバル"チンギスハン"アスケロフと対戦し、一度のクリーンヒットも貰わず3Rに左膝蹴りでKO勝ちを収めた。試合後、谷川貞治K-1イベントプロデューサーにはアルトゥール・キシェンコとともに優勝候補に挙げられ、魔裟斗には「ペトロシアン、キシェンコがキツいなぁと思った」と評価された。2009年7月13日、K-1 WORLD MAX 2009 FINAL8の準々決勝でアルバート・クラウスと対戦し、判定勝ち。試合後、谷川は「ペトロシアンなんかつまらない。あんなのが大晦日に出たら大変」と酷評した。2009年10月26日、K-1 WORLD MAX 2009 FINALに出場。準決勝で山本優弥を相手に、1R左ストレートからの右フックでKO勝ち。なおこの試合で右手甲を骨折するもドクターストップを回避するために隠していたと後に判明。骨折した状態での決勝では再びアンディ・サワーと対戦。前回の対戦と違い、自ら前に攻めるスタイルで戦い、2Rに左ストレートからの左膝蹴りでダウンを奪い、判定勝ちを収め、初優勝を果たすとともに魔裟斗引退試合の相手に決定した。試合後、谷川EPは「MAXを10年やっているが、こんなに穴の見えない選手は初めて。前回はつまらなかったが、今回はK-1スタイルになっていた」と絶賛した。大会翌日の精密検査で右拳(右第二中手骨骨間部)を骨折していることが知れ渡り、魔裟斗との対戦は実現しなかった。2010年3月13日、イタリアで開催されたIT'S SHOWTIME OKTAGONで最強のタイ人と言われていたケム・シッソーンピーノーンと対戦。1R中盤に右ストレートを被弾したのみで、離れた間合いからのミドルキックや相手の蹴り終わりを狙ったローキック、さらには蹴り足を掴んでの攻撃などムエタイ的な攻防でもペトロシアンが圧倒し、判定勝ち。後日、試合前から練習中に右手甲の骨折が再発していたことが判明。2010年3月27日、K-1 WORLD MAX 2010 〜-70kg Japan Tournament〜のスーパーファイトで佐藤嘉洋と対戦予定であったが、右手甲の骨折のため欠場となった。2010年10月3日、K-1 WORLD MAX 2010 FINAL16でヴィタリ・ウルコフと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。2010年11月8日、K-1 WORLD MAX 2010 FINALにてアルバート・クラウス、マイク・ザンビディス、佐藤嘉洋に判定勝ちし、優勝。MAX史上初となる連覇を成し遂げた。K-1 WORLD MAXが終焉すると、ペトロシアンはGLORYに主戦場を移す。ここでも、アルトゥール・キシェンコなどの強豪を下し続けた。2013年11月23日、GLORY12でアンディ・リスティと対戦。3Rに左フックでダウンを奪われKO負け。プロキャリア初のKO負けとなった。家族とともにアルメニアからイタリアに移住してきて以来、北イタリアのゴリツィアに在住。この町は自身の運命を決定付けた人物と言われるムエタイジム経営者のアルフィオ・ロマヌットとの出会いの地であった。実弟のアルメン・ペトロシアンもキックボクサーである。
出典:wikipedia
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