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清水信次

清水 信次(しみず のぶつぐ、1926年4月18日 - )は、日本の実業家である。株式会社ライフコーポレーション代表取締役会長兼CEO(最高経営責任者)。日本スーパーマーケット協会および国民生活産業・消費者団体連合会会長。三重県津市生まれ。旧制大阪貿易語学校(現在の開明中学校・高等学校)卒業。食品スーパーマーケット「ライフ」を興し、売上高4,700億円という日本最大の食品スーパーマーケットチェーンを一代で築いた。中内功・鈴木敏文・岡田卓也らとともに戦後の流通業界を牽引した人物である。現在も業界の重鎮として知られており、新聞・雑誌に多数登場。講演活動も行い、数多くの提言・発言を行っている。学校を卒業した翌年である1944年(昭和19年)、陸軍に入隊して中国に出征した。このときの戦友には、後に不動産会社・秀和を起こしてバブル期には世界有数の富豪となった実業家、小林茂がいた。小林との関係は小林が2011年(平成23年)に死亡するまで続き、秀和が1980年代後半に行った流通株買占めの背景にも清水と小林との関係が関与した。日本の敗戦に伴って1945年(昭和20年)、清水が戻った大阪は一面の焼け野原となっていた。当時19歳だった清水は、生き延びるため闇市で食品を売ったが、これ以降清水は終生食品流通・販売に携わることになった。清水は大阪市で家業の食品卸売業 「清水商店」を継いで代表となった。1950年(昭和25年)、朝鮮戦争が始まると、貿易の増加による物流需要の拡大を予測し単身上京。パイナップルやバナナの輸入業で利益を上げ、「パインちゃん」の異名をとる。又この仕事を通じて蓮舫の父で台湾人バナナ貿易商を営んでいた謝哲信と知り合い、家族ぐるみの交友を深めた。現在も台湾財界人に知己が多い。日本では次第に財閥系商社が復権。以後貿易業からは手を引き、食品スーパーを創業した。1954年(昭和29年)、同志社大学を卒業した弟清水三夫が清水商店に入社し支配人となる。1956年(昭和31年)、清水商店を母体に株式会社清水実業を設立し代表取締役社長となる。更にライフストア(現、ライフコーポレーション)を設立し代表取締役社長。三夫が専務となる。1982年(昭和57年)2月 ライフコーポレーション株式上場を機に、社長職を三夫に譲り代表取締役会長となる。1986年(昭和61年)、日本チェーンストア協会会長に就任。また、同年に藍綬褒章を受章している。1988年(昭和63年)3月、三夫が取締役に退いたため社長を兼務。1999年(平成11年)には、日本スーパーマーケット協会を設立して初代会長に就任した。2006年(平成18年)3月 三菱商事からライフコーポレーションに出向していた岩崎高治を代表取締役社長兼COOとし、自身は代表取締役会長兼CEOとなった。80歳を超えてもなお現役の企業経営者である。自分が現役で働ける限り働き、子息などに世襲はしない意向であるという。1986年(昭和61年)の第3次中曽根内閣の売上税構想に反対。テレビ番組に出演するなど売上税反対の陣頭に立ち、世論を盛り上げる。1987年(昭和62年)4月に放送が始まったテレビ朝日系討論深夜番組「朝まで生テレビ!」に出演している。2000年(平成12年)、第26回経済界大賞特別賞受賞。2001年(平成13年)、自由党党首(当時)小沢一郎の要請を受け、「最後のご奉公」と第19回参議院議員通常選挙に自由党候補として比例代表区から立候補した。結果は落選であったが、自由党第4位として当選した大江康弘(得票43,801)とは僅差の第5位(43,027票)の次点であった。この際、自由党4議席目は全議席確定直前まで当選者が決まらず、開票速報を一晩中見守った。翌日昼頃テレビ各局は大江に当選確実を出し、大江は「最後の当選確実者」となった。清水は落選が決まり、記者に心境を問われると「(やっと当選者が)決まってよかった」とのみ述べ、午後から本業に戻った。その後2007年(平成19年)まで繰り上げ当選の可能性を有したものの、政治活動はしていなかった。2009年(平成21年)12月、民主党の参議院議員選挙比例代表第1次公認候補に内定し、83歳にして再び国会を目指すことになった。これを受けて2010年(平成22年)7月に行われた第22回参議院議員通常選挙に比例代表区から立候補したが、結果は再び落選であった。清水は、折に触れて自身の戦争体験を語っている。天皇・内閣総理大臣・閣僚らの靖国神社公式参拝を求めており、これを非難する中国・韓国・北朝鮮に対し「外国にとやかく言われる筋合いは無い」と反発していた。ただしその後、著書『さらばアメリカ』においては中曽根政権時からの靖国参拝について批判的に書いている。また、長らく台湾財界人との交流があり、台湾を支持していたが、近年は台湾への言及は無く、もっぱら中華人民共和国への言動が目立つ。清水は岸信介が昭和四十四年に創立した日韓協力委員会の理事長を設立当初より続けている。2009年(平成21年)6月には、韓国政府から修交勲章光化章を受章した。さらに、長年幹部を務める日韓協力委員会に比する団体として、日中協力委員会設立に向け2007年(平成19年)8月以来、当日の中国の王毅駐日大使と会談を重ね、日本と中国の協力団体設立を実現する方向で約束をしたことを著書で述べている。また、日中協力委員会の設立には残りの人生すべてを賭ける覚悟とも述べた。ビジネスにおいては、ヤオハンなど同業他社の中国等への進出も少なくないが、清水は「大東亜戦争の敗北によって、満州・朝鮮の日本人資産はことごとく失ってしまった。そういう歴史を見ているので進出はしない」と述べており、ライフの海外出店は行わない方針である。また周辺諸国との商慣行の相違にも注意を促している。清水は、剣道六段教士である。

出典:wikipedia

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