柳生 三厳(やぎゅう みつよし、慶長12年(1607年)-慶安3年3月21日(1650年4月21日))は、江戸時代前期の武士、剣豪、旗本(ただし、後述の事情により柳生藩第2代藩主として数える場合もある)。初名は七郎、通称は十兵衞(じゅうべえ)。江戸初期の著名な剣豪として知られ、三厳を題材とした講談や小説が多く作られた。慶長12年(1607年)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)にて誕生。父は徳川秀忠の兵法指南を務めて後に柳生藩初代藩主となる 柳生宗矩 。母は豊臣秀吉が若年時に仕えていたことで知られる松下之綱の娘・おりん。同母弟に柳生宗冬(飛騨守)、異母弟に柳生友矩(刑部・左門)、列堂義仙がいる。元和2年(1616年)、10歳の時に父に連れられ初めて徳川秀忠に謁見し、元和5年(1619年)、13歳で徳川家光の小姓となる。元和7年(1621年)に宗矩が家光の兵法指南役に就任してからは、父に従って家光の稽古に相伴してその寵隅も甚だ厚かったと伝わるが、寛永3年(1626年)20歳の時に、何らかの理由で家光の勘気を被って蟄居を命じられ、小田原にお預けの身となる。家光は寛永4年~5年頃に宗矩に宛てた書簡の中で既に、三厳の動向を気にかける様子を見せている事から、蟄居の原因となった勘気自体は、早くて1年後に解けていたとする見方もある。しかし正式な赦免は下されず、再出仕が許されるまで12年に渡って謹慎は続いた。『月之抄』や『昔飛衛というものあり』等の三厳の著作によれば、謹慎期間中は故郷の柳生庄に引き籠り、亡き祖父・宗厳や父が当地に残した口伝や 目録を頼りに、ひたすら兵法の研鑽に励んでいたとしている。一方でこの間、武者修行等で諸国を遍歴していたとする伝説があり、後に多くの講談や創作物の材料となった(後述)。致仕してから11年が経過した寛永14年(1637年)、その年の夏稽古が始まる5月初日に江戸に戻り、秋の終わりごろまで柳生の藩邸に滞在する。その間改めて父・宗矩の下で相伝を受け、それらの至極を伝書にまとめて父に提出する。しかし宗矩からは「全て焼き捨てろ」と命じられたため、当時屋敷に同居していた父の友人の禅僧・沢庵宗彭に相談する。沢庵は三厳に宗矩の真意を説いた上で、焼却を命じられた伝書に加筆と校正を施し、これを受けて三厳は「父の以心伝心の秘術、事理一体、本分の慈味を了解し、胸中の疑念が晴れ」たとして再び伝書を宗矩に提出し、印可を認められた。印可を得た翌年の寛永15年(1638年)、家光に重用されていた次弟友矩が病により役目を辞すのに前後して再び家光に出仕する事を許され、書院番に任じられる。翌、寛永16年(1639年)2月14日には弟の宗冬と共に家光の御前で兵法を披露している。出仕中も兵法研究に努めていたと見られ、この時期に代表作とされる『月之抄』を含むいくつかの伝書が著されている。正保3年(1646年)父宗矩が死去。遺領は宗矩の遺志に基づき、一旦幕府に返上された上で兄弟の間で分知され、三厳は八千三百石を相続して家督を継ぐ。宗矩生前の三厳は「強勇絶倫」で皆畏れて従う風があったが、家督を継いで以後は寛容になり、政事にも励み、質実剛健な家風を守り、奴婢にも憐みをかけて処罰することもなかったという。その後間もなく役目を辞して柳生庄に引き篭もったとも見られるが詳細は不明。慶安3年(1650年)鷹狩りのため出かけた先の弓淵(早世した弟友矩の旧領)で急死。奈良奉行・中坊長兵衛が検死を行い、村人達も尋問を受けたが死因は明らかにならないまま、柳生の中宮寺に埋葬された。享年44。墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺および奈良県奈良市柳生町の芳徳寺にある。大和の豪族秋篠和泉守の娘との間に二女(長女・松、次女・竹)があり、三厳の死後は家光の命で宗冬が養育した。宗矩の死後石高が1万石を切ったために三厳が大名に列した事はないが、三厳の遺領を相続した宗冬が再度大名としての地位を回復させたことで、便宜上三厳が大和柳生藩第2代藩主とされている。若い頃に失明したという伝説があり、片目に眼帯をした「隻眼の剣豪」のイメージが広く知られている。これは幼い頃「燕飛」の稽古でその第四「月影」の打太刀を習った時に父・宗矩の木剣が目に当たったとか(『正傳新陰流』)、宗矩が十兵衛の技量を見極めるために礫を投げつけて目に当たったため(『柳荒美談』)などといわれる。しかし、肖像画とされる人物の両目は描かれており、当時の資料・記録の中に十兵衛が隻眼であったという記述は無い。家光の勘気を受けて致仕してから再び出仕するまでの12年間について、三厳自身は著作の中で故郷である柳生庄にこもって剣術の修行に専念していたと記している。一方でこの間、諸国を廻りながら武者修行や山賊征伐をしていたという説もある。三厳の自著での記述と相反しているとはいえ、宝暦3年(1753年)に成立した柳生家の記録である『玉栄拾遺』でも取り上げていることから、三厳の死の100年後には既に広く知られていたものと思われる。後にこの事が下敷きとなって下記のような様々な逸話が派生し、今日に至るまで創作作品の素材ともなっている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。