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大手町 (広島市)

大手町(おおてまち)は、広島市中区の地名である。広島市中心部、元安川と国道54号(鯉城通り)に挟まれた東西200-350m、南北1.8kmの南北に細長い町域を持つ。北から1丁目、2丁目、平和大通りを挟んで3丁目、4丁目、国道2号を挟んで5丁目となる。橋で言うと、相生橋(相生通り)から川下に向かって、平和大橋(平和大通り)、新明治橋(国道2号)を経て、南大橋(駅前通り)までとなる。広島市の中心・紙屋町交差点から見ると、南西角にあたる。ただし、紙屋町交差点と本通りの間の3ブロックは紙屋町の町域となっているため、大手町は紙屋町交差点に接していない。隣接する町域は、全て広島市中区である。現在の大手町地区に人々が住み着き町が形成された時期は、毛利氏による広島城築城まで遡ることができる。この地区は広島城に南接(外堀(現在の広電本線の通り)の南側に位置)し、東側には築城のさい資材運搬のため開削された西堂川(現在の鯉城通り)が流れ、また西には当時の陸上交通のメインルートである河川(元安川)を控えており、町の発展にとって有利な条件が揃っていた。藩政時代にはこの地区を横断して西国街道(現在の本通)が通り、元安橋東詰は城下の交通の中心として里程の基点となる(これが明治以降「広島市里程元標」⇒「広島市道路元標」へと継承される)とともに制札場として情報交換の場に利用された。城の南西隅の「櫓下」(現在の相生橋東詰北側)から元安橋にかけての元安川東岸には広島藩の船着場や米蔵・材木蔵・木売所が設置され、特に細工町(旧町名)を中心に藩御用達の薬店・米屋・両替屋などが店や邸宅を構えていた。また東では西堂川に沿って街並みが南へ延びていった(しかし両岸に市街地が発達したことで次第に西堂川は埋め立てられ、幅が狭まっていった)。これらの町は広島藩により5つの町組の一つ「白神組」にまとめられていた。ところで現・大手町地区のうち築城時に陸地として存在していたのは現在の一・二丁目にほぼ相当する地域のみであり、それより南は遠浅の広島湾に没していた。現在の三-五丁目は藩政期の埋め立て(1699年)により造成された新開地で、これらは町人町としては扱われず「六丁目村」と称され前記の白神組とは区別されていた。明治時代になると大手町地区には多くの銀行が立地され、広島市初の金融街が形成された。主要な金融機関は現在の鯉城通り(電車通り)より一つ西に入った大手町筋(白神通り)に集中し、本通近辺には広島商工倶楽部(現在の商工会議所 / 旧横町)や広島郵便局(旧細工町)が設置、また郵便局の前には1989年以降「広島市道路元標」(1952年まで広島からの里程の起点として用いられ、原爆被災後は約30m西の元安橋東詰に移転し現在に至る。画像参照)が置かれた。北には広島城を接収した陸軍駐屯地を控え、また西は元安川を挟んで当時広島随一の繁華街で広島市役所が立地する中島地区(現在の平和公園)にも近接していたこともあり、この町は藩政期以来の広島経済の中心としての地位を守っていた。1912年の市電(現在の広島電鉄)敷設にともない、川幅が狭まりドブ川と化していた西堂川が埋め立てられ現在の鯉城通りが新たに造成された。この結果、金融街は道幅の狭い大手町筋からより幅の広い電車通り沿い(あるいはより東に位置する八丁堀方面)に移動し、現在に至っている(この点については大手町通り (広島市)を参照)。その一方で1915年には猿楽町(現・大手町1丁目)に地元商品の販路開拓のための広島県物産陳列館が竣工し、同館はのち広島県商品陳列所→広島県産業奨励館と改称されて美術展会場になるなど広島の文化活動の拠点となり、町を代表するランドマーク的な建造物となった。こののち、現在の大手町1・2丁目地区は古くからの店が軒を連ねる落ち着いた雰囲気の住宅地となったが、1945年8月6日の原爆投下に際しては細工町(現在の大手町1丁目)の島病院が爆心地となったため、街並みのほとんどが爆風・熱線により瞬時に消滅した全壊全焼地域になった。特に爆心地から0.5kmに入っていた現1・2丁目地区での住民はほとんどが即死し、生き残った住民は当日たまたま自宅を離れていたものを中心にごくわずかであった。広島郵便局を始めとする町の建造物も壊滅し、わずかに産業奨励館のみが外壁などを残す廃墟となって戦後、原爆ドームと称された。従来よりデオデオ(現・エディオン)の増設店舗などを中心に大手町1・2丁目はパソコン等を販売する店舗が多くあったが、1990年代後半から2000年代にかけてアニメ、同人誌、ゲーム、メイド喫茶などのサブカルチャー関係の店舗が軒を連ねるようになり、広島における電気街となっており、かつての「金融の街」は大きく変化している。大手町一-五丁目 - 北から一・二丁目、(平和大通りを挟んで)三・四丁目、(国道2号を挟んで)五丁目となる。「大手町」の町名は、かつて存在した広島城大手門の南に位置したことに由来する地名である(藩政時代の町名は「白神」(一-六丁目)であり、その名は近隣に所在する白神社に由来する)。大手門に関わりを持つ地名という点では、他の城下町に存在する「大手町」と同様である。第二次世界大戦以前の旧町名では、現在の大手町一-五丁目に当たる区域には、(旧)大手町一-九丁目の他、猿楽町・細工町など藩政時代以来の古い町名が並んでいたが、これらの町名は1965年の住所表示変更により、現在の大手町一・二丁目及び紙屋町二丁目に整理された。※広島市役所・中区役所の本館は鯉城通りを挟んだ向かい側の国泰寺町にある。大手町2丁目のNHK広島放送局のほか大手町4丁目のドコモ広島大手町ビルなど、鯉城通り沿いを中心に大型のオフィスビルも多く建っている。大手町は、広島市内で交通量が最も多い4本の道路(国道2号、鯉城通り、相生通り、平和大通り)が全て集まっている。国道54号線沿いのバス停は、原爆ドーム前を除き大手町と反対側の町名・施設名が付いている。広島市役所前交差点は、広島市中区大手町四丁目にある一般国道、広島県の一般県道の起・終点となっている交差点である。

出典:wikipedia

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