板東 里視(ばんどう さとみ、1942年1月1日 - 1999年10月7日)は、徳島県板野郡板東町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督。タレントの板東英二(元中日)は中学の一つ先輩にあたる(苗字は同一ではあるが血縁関係はない)。鳴門高では3年時の1959年、春季四国地区大会予選で徳島東工相手にノーヒットノーランを達成。夏の甲子園県予選では優勝し、南四国大会決勝で高知商の山崎武昭と投げ合うが、結果は1-4で敗退。甲子園出場を逃した。1960年、近鉄バファローに入団。2年目の1961年より一軍に定着し、3年目の1962年には開幕投手を務める。入団してから7年で7勝しか挙げられなかったが、1967年に8勝、1968年には200イニングを登板、自己最多となる12勝を挙げる。その後は再び低迷するも、1974年に10勝を挙げて復活。以降リリーフ、さらに谷間の先発としてチームに貢献した。1979年に投手コーチ兼任となり、同年引退。その後は近鉄のスカウト(1980年 - 1981年, 1995年 - 1998年)、二軍投手コーチ(1982年 - 1983年, 1989年 - 1992年)、一軍投手コーチ(1984年 - 1987年, 1994年)、二軍監督(1988年, 1993年)を歴任。スカウト時代は中国・四国地方を担当したが、1998年に病気のため退団。鈴木啓示が「プロ入り初のキャンプは同じ部屋の佐々木宏一郎さんの寝言、板東里視さんの歯ぎしり、牧野伸さんのいびきが酷くて夜もしんどかった。」 と語っている。1999年10月7日、胆管癌のため大阪市内の病院で死去。。
出典:wikipedia
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