種子島(たねがしま)は、九州の鹿児島県に属し、大隅諸島を構成する島の一つ。県内有人離島の中で最も東に位置し、人口(約33,000人)は奄美大島に次いで2番目に多く、面積は444.30km²で、奄美大島、屋久島に次いで3番目に大きい。日本では、10番目の面積を持つ。標高は最高点は回峰(まわりのみね)の282.4mで、海側から見ると殆ど平らにしか見えない。1936mある隣の屋久島と比べると対照的である。中心都市は西之表市。種子島でもっとも古い遺跡は、南種子町横峯遺跡(鹿児島県指定史跡)、中種子町立切遺跡・大津保畑遺跡で、約3万5千年前(較正年代)の遺跡である。これらの遺跡は、鹿児島県内で最も古い遺跡である。また、旧石器時代に人類が生活をした数少ない離島の一つでもある。種子島では細石器文化も確認されていて、南種子町銭亀遺跡は、細石器文化が確認された日本列島最南端の遺跡である。縄文時代の種子島では、九州島南部の縄文文化とほぼ同一の土器様式が確認されている。一方、弥生時代後期から7世紀にかけての種子島では、独自の貝文化が展開した。その種子島独自の貝文化を代表する遺跡として、南種子町広田遺跡(国の史跡)が著名であり、貝製品を中心とする広田遺跡の出土品は、国の重要文化財に指定されている。8世紀になると、種子島は、律令国家の支配下におかれる。大宝2年(702年)に令制国として隣の屋久島も含めて多禰国(たねのくに)が置かれ、島北部に能満郡、南部に熊毛郡が設けられたのである。中央より国司も任じられ多禰守として二島を支配した。しかし多禰国は平安時代前期の天長元年 (824年)に廃止され、能満郡は熊毛郡に統合し大隅国に編入された。鎌倉時代には見和氏、肥後氏が支配し、室町時代以降には肥後氏の支族種子島氏がこの地を治めた。鉄砲伝来の地で、火縄銃の製作が始められた場所でもあったため、国産の火縄銃は種子島と呼ばれていた。現在は種子島宇宙センターなど宇宙関連施設が多く建てられ、日本における宇宙開発の一翼を担っている。また、最近では多くのサーファーが移住し、マリンスポーツ等も盛んに行われている。戦前より県内外からの移住者が多く、その出身元も多様。島の内陸部にある十六番や二十番という地名は、開拓番号がそのまま集落名になったものである。種子島を構成する1市2町は揃って、1986年(昭和61年)10月18日に大阪府堺市と友好都市提携を結んだ。いわゆる「鉄砲つながり」で、「堺まつり」、「種子島鉄砲まつり」に相互参加している。種子島 - 鹿児島間には高速船、フェリー、航空機がそれぞれ運航され、1日あたりの総輸送人員は片道約3,000人に及ぶ。"※航路の詳細や運航時刻などは、各社の項目または公式サイトなどを参照。"大きく分けて客船航路は、西之表市の西之表港区、南種子町の島間港区の2港に分けられる。鹿児島への航路はいわさきグループ(鹿児島商船など)および市丸グループ(コスモライン)が就航しており、屋久島への航路は両グループに加え屋久島町が就航している。高速船については前記2社が競合していたが、2009年10月から一部の便において両グループの共同運航(コードシェア)が開始されたのち、2012年4月からは両グループの共同運航会社である種子屋久高速船に全便が移管された。各社ともボーイング929(ジェットフォイル)による運航。※かつては大阪(伊丹空港)との定期便(昭和50年2月開設)があったが、現在は夏期及び冬期の季節運航となっている。また、屋久島空港との間に日本内外航空による定期便が運航(昭和52年10月1日開設)されていたが、昭和58年4月1日に運休された。同年6月24日から同路線を引き継ぐ形で公共施設地図航空によるチャーター便が運航開始されたが、昭和61年3月10日に運休、同年5月22日から、日本産業航空(後の朝日航空)によるチャーター便が運航開始されたが、平成2年3月10日に運休、翌年平成3年3月10日に廃止、その後も日本コンチネンタル空輸などによるチャーター便が運航されたが、やがて運休・廃止となった。2005年(平成17年)より、県内の路面電車・路線バス会社で共通使用できるICカードが、島内の路線バスにも導入された。国道県道鉄の製錬と鍛冶製品の生産が古くから行われてきた。その技術はポルトガル伝来の鉄砲の生産に引き継がれ、その時代が過ぎると鋏や包丁などの日用品、そして農機具の生産へと移っていった。鍛冶製品の中でも、鋏(種子鋏)は切れ味、耐久性、デザインなどに優れ、全国的にもその名が行き渡っていたが、後継者がおらず衰退している。
出典:wikipedia
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