小村神社(おむらじんじゃ)は、高知県高岡郡日高村下分にある神社。国史見在社、土佐国二宮で、旧社格は県社。祭神は次の1柱。国宝の金銅荘環頭大刀を神体とし、『南路志』にも「神体剣」と見える。中世における本地仏は大日如来であった。社伝では用明天皇2年(587年)の創建とするが、詳細は不明。『土佐幽考』では、『新撰姓氏録』に見える高岳首・日下部と高岡郡日下庄とを関連づけ、その共通の祖神として国常立命を祀り大刀を神体としたとする。別説では、越智国造の小知命(小千命/乎致命)の墓が今治市の「日高」に伝わること等から、この小知命が当地に至り、国土開発の神として国常立命を祀り大刀を神体としたとする。一方、祭神の設定は後世のものとして、神体の金銅荘環頭大刀が原始の信仰対象であったとする説もある。以上のように諸説があり創建は不詳であるが、立地的には仁淀川水系を押さえた古代の有力豪族が祭祀した神社になる。国史では、『日本三代実録』に「小村神」の神階が貞観12年(870年)に従五位下から従五位上に昇叙された旨の記載が見える。しかし『延喜式』神名帳には記載がないため、いわゆる国史見在社にあたる。小村神社に残された仁治元年(1240年)・貞和3年(1347年)の棟札によると、当社の修理・造替には古くは国司があたったが、次第に地頭があたるようになったとし、仁淀川中流・上流域の吾河山・別府山・横川山がその用材供給地であるとする。また、その貞和3年の棟札に「正一位二宮小村大天神」と見えるように、中世には当社は土佐国一宮の土佐神社(高知市一宮)に次ぐ二宮に位置づけられたとされる。以降は蓮池城(現・土佐市)城主の大平氏から保護を受け、文亀3年(1503年)には大平国雄から三十六歌仙図が奉納された。戦国時代には頭屋組織によって神事が運営されるようになり、天文12年(1543年)の御頭帳には11の御頭屋敷が記されている。また天正16年(1588年)の「日下之別符地検帳」では、日下村全域や隣の波川村にもわたる神田の記載があるほか、宮床・馬場は検地が免除されたと見える。江戸時代に入ると、土佐国に入った山内氏により上述の社領が没収され、慶長6年(1602年)の知行割において与えられたのは神田の2反と別当寺への2反のみであったという。その別当寺は神宮寺で、「小村山昭光院神宮寺」と称していたが明治の廃仏毀釈で廃寺となっている。明治元年(1868年)2月に近代社格制度において県社に列し、「小村大天神」などと称されていた社名を明治3年(1870年)に正式に「小村神社」とした。その後いつしか社格は一旦郷社に下っていたが、大正13年(1924年)に県社に再昇格した。現在の社殿は、江戸時代中期の宝永2年(1705年)の造営。本殿・幣殿・拝殿から成る複合社殿である。本殿は流造銅板葺で、この本殿前に接続する幣殿・拝殿は平面に「十」字形を成し、屋根は同じく銅板葺である。これらは拝殿を頭としたトンボ(蜻蛉)が飛び出す形を表すとされ、「出蜻蛉(でとんぼ)」形式と称される。これらの社殿は日高村指定有形文化財に指定されている。このような出蜻蛉式社殿の類例としては、他に若宮八幡宮(高知市長浜)社殿が知られる。本殿背後には、「燈明杉」と称されるボタンスギ(牡丹杉)が立つ。伝承では樹齢1,000年といわれ、樹高25メートル、胸高直径270センチメートルを測る巨木である。下枝部の葉は一般的な杉型であるが、上枝部の葉は牡丹杉型を示す珍しい特徴を有している。当地の伝説では、宝永2年(1705年)の仁淀川洪水や、安政元年(1854年)の安政南海地震、日露戦争などの異変に際して梢に霊火が点灯したといい、「燈明杉」の名はこれに由来する。このボタンスギは日高村指定天然記念物に指定されている本社同様に、仁井田神社・劔神社・秋葉神社とも剣を神体とする。所在地交通アクセス注釈原典出典
出典:wikipedia
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