デリバリット・フォース作戦 (Operation Deliberate Force) とは、1995年に北大西洋条約機構 (NATO) 加盟諸国が行った、ボスニアのセルビア陸軍に対する空爆及びその防空作戦である。作戦は、1995年8月30日から9月20日の間に実行され、15カ国から400機の軍用機と5000人の人員が投入された。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中の1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナ領内のセルビア人勢力は、首都サラエヴォを狙って発射した迫撃砲弾がサラエヴォ市内の市場に落下し、市民38人の死亡者がでた。この地域は、国際連合によって決定された、ボスニアの安全地域(非戦闘地域)に含まれていた。この事件には世界各国から広く抗議の声が上がり、国際連合保護軍の司令官やNATO南部司令官は、アメリカ海軍の原子力空母『セオドア・ルーズベルト』をアドリア海に派遣、連合国軍機も攻撃態勢を整えた。その後、NATOは数ヶ月間に渡って、セルビアのボスニアへの攻撃活動を阻止する空爆作戦を練り、290機の軍用機をイタリアを中心とする18カ所の基地に配備し、空母セオドア・ルーズベルトでも多くの艦上戦闘機を配備した。配備完了後、デリベレート・フォース作戦という作戦名のもと、空爆作戦が実施された。作戦に参加する軍用機の大半はアメリカ軍機で占められていた。防空を任務とする軍用機は、ミラージュ2000C、F-16、シーハリアー、F-14であった。またその他に、この作戦での防空制圧を任務とする航空機は、アメリカとスペインのF/A-18、F-16 CHARM、EF-111、EA-6B、トーネードECRであった(この防空制圧のための作戦は、実際にはデッド・アイ作戦 (Operation Dead Eye) と呼ばれる別作戦として扱われる事もある)。また、外部では、アメリカ、フランス、イタリアのKC-135、イギリスのL-1011、スペインのKC-130による空中給油支援、F-14、ミラージュF1CR、ジャギュア、偵察型ミラージュ2000、オランダの偵察型F-16A、偵察型ハリアー、偵察型シー・ハリアー、RQ-1 プレデターによる偵察支援、RC-135、EP-3、ES-3、C-160、DC-8軍用型による電子妨害支援、フランスのE-3、アメリカのE-2Cによる空中警戒支援もおこなわれた。作戦は慎重に行われたが、特にセルビア軍の対空砲と地対空ミサイルに関してはかなり慎重に作戦が行われた。これらの地上兵器は、作戦前にF-16、シーハリアー、G.222を撃墜していたためである。そのため計画検討の際から、空爆攻撃の任務執行と同時に、これらの兵器を停止する努力もすることになっていた。作戦は、1995年8月30日午前2時頃、セオドア・ルーズベルトから出撃したF/A-18C、アビアノ空軍基地から出撃したF-16Cによる空爆によって開始された。外部では、EA-6B、EF-111、EC-130も支援をしていた。作戦上初めての攻撃は、SAMとセルビア軍の指揮施設に対するものであった。作戦中の9月1日から、NATO軍はセルビア軍に対し、48時間の交渉時間と攻撃中断の機会を与えた。交渉には、フランス軍のベルナール・ジャンビエール中将と、ボスニア系セルビア軍司令官のムラディッチ将軍があたった。交渉はしばらく続いたが、進展が見られなくなったため、NATO軍は9月5日から空爆を再開した。9月5日頃からの攻撃では、クロアチア軍も北部での攻撃を開始し、バニャ・ルカからセルビア軍を排除しようと躍起になっていた。その後も作戦は続き、セルビア軍はかなりの被害を受けた。9月14日に、ムラディッチ将軍は停戦に合意、サラエヴォ市内へのNATOの立ち入りを許可し、重火器も引き上げはじめた。その後もNATO軍による空中監視は続いた。しかし、10月に入り、セルビア軍側が停戦条件を破り、NATO軍は再び、セルビア軍に対する小規模な攻撃を再開している。1995年11月に、アメリカ、オハイオ州でセルビア系、ボスニア系、クロアチア系の政治主導者がデイトン合意に調印、事実上戦闘は終結した。完全な紛争終結は10月13日である。
出典:wikipedia
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