大崎八幡宮(おおさきはちまんぐう)は、宮城県仙台市青葉区八幡にある神社である。旧社格は村社。社殿(本殿・石の間・拝殿)は国宝に指定されており、どんと祭の裸参りで知られる。創建年代は不明であるが、社伝では坂上田村麻呂が宇佐神宮を鎮守府胆沢城(現岩手県奥州市水沢区)に勧請し鎮守府八幡宮と称したことに始まり、室町時代に入り奥州管領であった大崎氏が本拠地(現宮城県大崎市)に遷したため、大崎八幡宮と呼ばれるようになったという。大崎氏改易後の慶長9年(1604年)、伊達政宗が仙台城()から見て北西(乾)かつ仙台城下町()北西端の現在地に造営を始めた。当地は別当寺の龍宝寺()の西隣にあり、城下町の北に連なる北山丘陵(七北田丘陵)と広瀬川とが接するために城下町がある河岸段丘の西端部にあたり、広瀬川上流の愛子盆地や山形方面に向かう作並街道(現国道48号)が超えなくてはいけない最初の難所の鶏沢()の城下町側に接する地である。慶長12年(1607年)、従来伊達氏が祀ってきた成島八幡宮と合祀して遷座し、仙台城下の乾(戌亥・北西)天門の鎮めとした(当宮の西隣の鶏沢には堤も造られた)。以前に大崎氏の家臣が行なっていた流鏑馬の神事は、その旧臣3人が祭りの日に仙台までやって来て勤めた。仙台藩は寛永15年(1638年)から彼らに旅費を支給した。後に社職の者も加わって4人が勤めた。庶民から「八幡堂」とも呼ばれていたが、古来より社名は「大崎八幡宮」だった。明治4年(1871年)の太政官布告によって近代社格制度が制定されたのを機に、「大崎八幡神社」に改称された。鎮座400年の記念大祭を10年後に控えた平成9年(1997年)、「大崎八幡宮」の名称に復した。現存する本殿・石の間・拝殿(国宝)は伊達政宗の寄進により建立され、慶長12年(1607年)に竣工した。手前の拝殿と奥の本殿を「石の間」で繋いで1棟とした、「権現造」形式の社殿である。拝殿は桁行(正面)7間、梁間(側面)3間、入母屋造で、正面には千鳥破風を見せ、唐破風造の向拝が付く(「間」は長さの単位ではなく、「柱間の数」を指す用語。以下も同じ)。本殿は桁行5間、梁間3間、入母屋造。「石の間」は桁行、梁間とも1間、両下造(りょうさげづくり)とし、屋根はいずれも杮葺きである。「石の間」は、本殿・拝殿より床を一段低く造り、板敷きとする。本殿の正面軒先部分を「石の間」内部に現すのが、この種「権現造」の特徴的な手法である。本建物では、本殿正面軒先と拝殿との間に格天井を張っている。本建物は、柱などの軸部を黒漆塗とし、長押、組物、蟇股などは彩色、彫刻、鍍金金具で装飾され、桃山建築の粋を凝らした絢爛たる社殿となっている。境内には樹齢350年のイヌシデが立っていたが、環境悪化により枯損した。毎年、遠刈田温泉の刈田嶺神社(里宮)の神体が春になると蔵王・御釜を見下ろす刈田岳山頂の刈田嶺神社(奥宮)へ季節遷座しているが、遷座の前に毎年「刈田嶺神社雪かき奉仕」を当宮が行っている(刈田嶺神社 (蔵王町遠刈田温泉)#季節遷座参照)。国宝重要文化財登録有形文化財選択無形民俗文化財どんと祭の日は、パークアンドライド用の駐車場が開設されたり、仙台市都心部との間などに臨時バスが運行されたりする。1941年(昭和16年)から1976年(昭和51年)までは仙台市電・八幡神社前駅が最寄り駅だった。
出典:wikipedia
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