ヤン・コック・ブロンホフ(Jan Cock Blomhoff、歩陸無忽桴)、男性、(1779年8月5日-1853年10月13日)は、江戸時代の出島オランダ商館長(カピタン)、日本初の英語辞書編纂者。英語を教えた通詞に吉雄権之助、吉雄忠次郎、本木正左衛門、末永甚左衛門、馬場為八郎、馬場佐十郎、西吉右衛門。ネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)・アムステルダムに生まれた。1794年、15歳の時にフランス革命戦争にネーデルラント連邦軍の兵士として参加。しかし翌年、ネーデルラント連邦がバタヴィア共和国へ移行する中ブロンホフは軍を除隊。1798年激化するフランス革命戦争から逃れる為に両親とプロイセン王国(現在のドイツ)に亡命して、そのままプロイセン軍に入隊、イギリスに赴任した。1802年3月25日、フランスとイギリスが講和しアミアンの和約を締結。フランス革命戦争終結に伴いブロンホフは除隊してオランダ東インド会社へ入社したことになっている。1803年、イギリスがアミアン和約を破棄しナポレオン戦争が勃発。国許が戦火に巻き込まれる中ブロンホフは1805年、バタヴィア(現在のインドネシア・ジャカルタ)へ渡りオランダ東インド会社総督ヘルマン・ウィレム・ダエンデスのもとで働いたことになっている。しかし、オランダ東インド会社は、すでに1799年に解散しており、会社自体が存在していないため、いずれの任務で商館長に就いたのかは不明である。その後も1806年、フランス皇帝ナポレオン1世の弟ルイ・ボナパルトが国王としてバタヴィア共和国に入りバタヴィア共和国はホラント王国に移行。オランダの混乱は収まらなかった。1809年、ブロンホフは日本の出島オランダ商館に荷倉役(倉庫番)として任命され訪日。この頃の日本ではこの1年前の1808年にフェートン号事件が発生しイギリス船からの攻撃を受けた幕府は西洋からの攻撃に警戒を強め、直ちにイギリスの情報収集と対応のためイギリスの言葉、英語を習得することを決めていた。しかしイギリス人のいない日本で英語習得は難しく、困った長崎の通詞達は出島オランダ商館長(カピタン)ヘンドリック・ドゥーフに相談。そこでドゥーフは、商館内からブロンホフを英語指南役として推薦した。ブロンホフは軍隊時代にイギリス赴任の経験があり英語がオランダ商館内で一番堪能であったためだ。この時からブロンホフは長崎通詞達に英語を教え、同時に英語辞書の編纂を開始することになった。1810年、ホラント王国がフランスに併合され、オランダ商館の立場はより苦しいものになった。翌年にはオランダ東インド会社の東洋拠点インドネシアのバタヴィアがイギリスに占領され、オランダの旗が翻るのは日本の出島のみとなった。1812年、ブロンホフは遊女糸萩との間に娘、おいねをもうけた(翌年の2月24日に眠り病で死去)。同年、イギリス東インド会社総督トーマス・ラッフルズの命を受けたイギリス船が出島に再来航。再度退けたが、商館長ドゥーフは事態打開のため、バタヴィアへの使者をたてることに決めた。1813年、ブロンホフはイギリス東インド会社への出島オランダ商館の使者としてバタヴィアに到着。しかしあえなく捕縛され、そのままイギリスに連行されることになった。連行される間も1814年6月、またもイギリス船が出島に来航するシャーロット号事件が発生した。1815年、不安の中イギリスに到着。フランスに併合されていたオランダが既にウィーン会議の結果ネーデルラント連合王国として独立し主権を回復していたため、ブロンホフは手続きが終わると直ちに釈放され、オランダに帰国した。帰国後、ティティア・ベルフスマと結婚。故郷に腰を落ち着けるつもりだったが、国王ヴィレム1世に招聘され命を受けた。それは再び日本に赴任し商館長として活動することだった。1817年、再度訪日。ブロンホフが妻子や乳母・召使いを同伴していたことに幕府は驚愕し、出島に入れる事を拒んだが、ブロンホフは商館長ドゥーフと共に直訴、対応は膠着した。その間、長崎の話題は妻ティティアに集まった。町の絵師達はこぞって彼女を題材に絵を描き、または人形を制作するなどした。その後、ブロンホフは自身の健康上の理由で家族の同伴の必要性を述べるなど幕府に嘆願したが、健康に不備があるなら別の人間を連れてくるようにとにべなく断られ、家族は16週間の出島滞在の後、ドゥーフと共にオランダに帰国した。日本へ旅した最初の西洋人女性、ティティアの存在は、『西洋婦人』となって、今も語り継がれている。家族と別れたブロンホフは以後、途絶えていた貿易事業の回復や日本の動植物や文化の研究に専念した。1818年2月13日、ブロンホフは、江戸参府のため長崎屋に滞在し11代将軍徳川家斉に謁見した。大槻玄沢ら江戸の蘭学者とも交流した。1821年4月2日、妻ティティアがネーデルラント本国で病死。出島での生活が夫人との最後となった。1822年2度目の江戸参府に赴いたあとは出島で帰国まで過ごした。1823年、商館長職をヨハン・ウィレム・デ・スチューレルに引き継ぎ、オランダに帰国。帰国後は日本で蒐集した品を売買するなどしながら再婚もして静かな余生を送った。1853年10月13日、74歳で死去。当時、ブロンホフ夫人ティティアをモデルに制作された人形は、現在でも長崎古賀人形「紅毛夫人」として土産物の一つとなっている。
出典:wikipedia
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