イスラム美術(イスラムびじゅつ)もしくはイスラーム美術(イスラームびじゅつ)は、ヒジュラ(西暦622年)以降現代に至るまでの、スペイン、モロッコからインドまでに亘る「イスラーム教徒の君主が支配する地域で生み出された美術作品、もしくはイスラーム教徒のためにつくられた作品」を指す。域内での芸術家、商人、パトロン、そして作品の移動のために、イスラーム美術はある程度の様式的な一体性を見せる。イスラーム世界全域で共通の文字が用いられ、特にカリグラフィーが重用されることが一体感を強めている。装飾性に注意が払われ、幾何学的構造や装飾で全体を覆うことが重視されるといった共通の要素も際立っている。しかし、形式や装飾には国や時代によって大きな多様性があり、そのためにしばしば単一の「イスラーム美術」よりも「イスラームの諸美術」として捉えられる。オレグ・グラバールによれば、イスラームの美術は「芸術的創造の過程そのものに対する一連の姿勢」によってしか定義され得ぬものであった。建築においては、モスクやマドラサのような特定の役割を持つ建物が非常に多様なフォルムで、しかしながらしばしば同一の基本構造に従って建設された。彫刻はほとんど存在しないが、、象牙、陶器などの工芸はしばしば極めて高い技術的完成にまで達した。聖俗双方の書物の中に見られる絵画とミニアチュールの存在も無視できない。イスラームの美術は厳密に言えば宗教的なものではない——ここでの「イスラーム」という言葉は宗教ではなく、文明として捉えられる。「キリスト教美術」や「仏教美術」のような概念とは異なり、「イスラーム美術」において直接に宗教美術が占める部分は比較的小さなものである。また通念とは異なり、実際には人間、動物、さらにはムハンマドを表現したものも存在する。多少の例外はあるが、これらは宗教的な場所や作品(モスク、マドラサ、クルアーン)においてのみ禁止されていたに過ぎない。この領域の呼称の問題は、研究の初期から難しいものであり続けてきた。19世紀のヨーロッパでは「アラブ美術」「ペルシア美術」「トルコ美術」「サラセン美術(とりわけ「サラセン様式」という呼称として)」「ムーア美術」のように地理や民族により個別に名付けられていたものが、19世紀末にはオリエント学を背景に1つの「イスラーム美術」もしくは「ムスリム美術」として捉えられるようになった。「マホメット美術」「ムスリム美術」のような宗教的な呼称は、「」や「仏教美術」の場合と異なりイスラム教が礼拝のための聖像や聖具を持たず、作品の相当な部分が世俗的なものであったことから不適切であり、「イスラーム」という語が、その宗教的でなく文化的な受け取られ方により、20世紀後半には好まれるようになった。しかしながら、そのような美術の一体性の問題は微妙なものであり続け、たとえばオレグ・グラバールは『イスラーム美術の形成』においてこれに疑問を投げ掛けている。このため美術史家は「イスラームの諸美術」(arts de l'Islam)という表現を好むようになりつつあるが、「イスラーム美術」(art islamique)という表現も依然として頻繁に出版物に見られる。ジョナサン・ブルームとシーラ・ブレアは、「イスラーム美術」という考え方自体がイスラームの側からではなく、その外部の人々によって作り出された「明らかに現代的な概念」であると指摘している。ムハンマドと共に生まれたイスラームはムハンマドの死後1世紀の間に後継のカリフたちの下で急速に版図を拡大し、西はイベリアから東はサマルカンドに至るまでの広大なイスラーム帝国が成立した。ウマイヤ朝以前の建築についてはあまり分かっていない。最初の、そして最も重要なイスラーム建築は恐らくマディーナにかつてあったとされるであろう。イスラム教ではどこででも祈りを捧げることができると考えられているが、この半ば伝説的な建物はムスリムたちが祈るために集まった最初の場所であったろうと思われる。預言者の家は、多柱式の礼拝空間、礼拝の方向を示すキブラ、人々を酷暑から守る日陰という3つの要素を持つ、イスラーム建築におけるモスク(マスジド、「平伏の場所」)の原型となった。祈りへと適用されたこの形式は無から生まれたわけではない——フサ寺院(イエメン、2世紀)もしくは(245年に改修)が発想の源となっていた可能性がある。腐食しやすい建材(木材と練土)で建てられていたため預言者の家が残っていた期間は短かったが、アラブの史料で詳しい描写が行われている。こうした叙述はかなり後の時代になってなされたもののため、どの程度実物に忠実であるのかは明らかではない。現在、預言者の家の跡地と推測される場所には預言者のモスクが建っている。イスラームの初期の物品をそれより前のサーサーン朝、東ローマ帝国などのものと区別することは非常に難しく、これはウマイヤ朝に関してもそうである。実際、イスラム教は、美術に乏しかったと思われる が、美術品の産出で知られる諸帝国に取り囲まれていた地域で誕生した。初期のイスラームの芸術家たちが近隣諸国と同じ技法とモチーフを用いたのはこのためである。釉を施さない陶器の大量の産出が知られており、銘からイスラーム時代のものと特定できるルーヴル美術館蔵の有名な小碗もそのことを示している。この碗はイスラーム以前からイスラーム世界への移行を辿ることの出来る数少ない発掘地点から出土した——イランのスーサである。ウマイヤ朝では宗教的および世俗的な建築が共に新しいコンセプトと様式を伴って発展した。中庭と多柱式の礼拝室からなるアラブ・プランは、ダマスカスの最も神聖な場所——古代のユピテルの寺院があった場所に洗礼者ヨハネのバジリカが建てられていた——にウマイヤド・モスクが建設されてから真に典型的なプランとして確立された。この大建築は建築者たち(と美術史家たち)にとってアラブ・プランの誕生を知らせる目印となっていった。しかしながら、による最近の研究では、アラブ・プランは堅材でできた初めてのモスクであったアル=アクサー・モスクの建設と共に生まれたものではないかとしている。エルサレムの岩のドームは疑いなくイスラーム建築全体を通じ最も重要な建築物の1つであり、ビザンチンの強い影響が見られるが(金地のモザイクや、聖墳墓教会のものを想起させる中央部のプランなど)、クルアーンの書かれた銘文を伴う250mに亘るフリーズのような純粋にイスラーム的な要素も既に含んでいた。しかしながら、そのモデルは発展を見ず、グラバールが「偉大な美的創造物たらんとしたイスラーム世界で最初の建造物」であるとしたこの作品の流れを汲むものは出現しなかった。パレスチナの(砂漠の離宮とも)の数々は、その正確な機能については諸説があるが、世俗・軍事的な建築に関する多くの情報を伝えてくれる。キャラバンサライ、保養地、要塞化した住居、あるいはカリフと遊牧諸民族との会見を可能にする政治的目的を持つ宮殿など、その機能は専門家たちも確定できておらず、場所によって用途も違ったのであろうと思われる。アンジャルの街の遺跡はその全体が、ラムラのようにまだ古代ローマのものに非常に近くカルドゥスとデクマヌスを伴う都市計画の類型を伝えている。 建築のほか、職人たちは陶器(無釉であることが多いが、緑もしくは黄色の単色透明な釉が施されることもあった)やの工芸も行った。職人たちは西洋(唐草文様やアカンサス葉飾りなど)やサーサーン朝(兜から取られた翼のモチーフ)の要素を再利用しており、こうした美術品をイスラーム以前の時代のものと区別することは非常に難しい。建築においても工芸品においても、ウマイヤ朝の芸術家や職人たちは新しい語彙を作り出すということはせず、地中海とイランの古代後期の語彙を進んで再利用し、例えばダマスカスの大モスクではモデルとなったビザンチン様式のモザイクの装飾的な諸要素を樹木と街に置き換えて自分たちの芸術概念へと適合させている。とりわけ「砂漠の城」はこうした借用の良い証言となっている。諸伝統を混淆させ、建築のモチーフや要素を再適用しながら徐々に、建造物のみならず工芸品や装飾クルアーンにも見られるアラベスクの美学でとりわけ明瞭となっているようなイスラーム特有の美術を作り出していったのである。権力の中心地が東に遷ると共に、2つの都市が相次いで首都の役割を果たすようになり歴史の前面に出て来る——イラクのバグダードとサーマッラーである。バグダードの街は現代の建物に覆われているので発掘調査を行うことはできていない。円形をした街で、その中央には大きなモスクと宮殿が建っていたと複数の情報源が描写している。他方、サーマッラーはやより最近ではによるものなど複数次の発掘調査の対象となっている。836年にアル=ムウタスィムによりほぼ「無から」建設されたサーマッラーは、数多くの宮殿、2つの大モスクおよび兵営があった。892年のの死と共に完全に放棄されたため、年代学上の信頼できる目印となっている。アッバース朝の建築にはティグリス川・ユーフラテス川の堆積土で作られた風化しやすいレンガが用いられていたため、当時の姿を知ることは難しい。サーマッラーからは膨大な備品類、とりわけ建築の装飾となっていたスタッコ(化粧漆喰)が発見されており、そのモチーフは建物の年代決定をある程度可能にした。これらのモチーフはエジプトのトゥールーン朝からイランに至るまでの工芸品、特に木製のものにもまた見出される。陶芸ではファイアンス焼きと金属光沢(ラスター彩)の発明という2つの大きな革新があり、これらは王朝が消滅した後には陶工の移動によりカイロなど別の諸地域の諸王朝で再び見出されるようになる。イスラームでの「ファイアンス」は胎土に不透明な酸化錫の釉を施し、その上に装飾した焼き物を指す。この時代には中国の磁器を模倣したものが広がった。磁器に必要な胎土であるカオリンが入手できなかったため薄くすることはできなかったが、8世紀以降スーサで使われるようになった酸化コバルトの青で白釉に彩色する白地藍彩が可能となったのである。モチーフのレパートリーは植物や銘文など限られたもののままであった。ラスター彩は9世紀に、恐らくはガラス工芸で既に存在していたものが陶芸に移し替えられて誕生したもののようである。この発明の年代の特定や、最初の数世紀の歩みを跡付けることは非常に難しく、複数の論争の的となっている。最も優勢な意見によるならば、最初期のラスター彩は多色で、人や動物の形を全く取らぬものであったが、10世紀からは単色で具象的なものへと変化していったと考えられており、これは部分的にはのミフラーブを根拠としている。鋳型での吹き込み形成、もしくは部品の追加により装飾された透明もしくは不透明のガラス細工もまた生産されていた。カットガラスの例も複数が知られており、その中で最も高名なのはおそらくヴェネツィアのサン・マルコ寺院の宝物庫に保存されている「野兎の杯」であろう。またカットガラスによる建築装飾がサーマッラーで発見されている。9世紀以降、アッバース朝権力は中央イラクの僻地で抵抗を受けるようになる。それはファーティマ朝と後ウマイヤ朝という敵対するシーア派のカリフ制の誕生として具現化し、また同時期にイランでは自治的な統治者の諸小王朝が誕生した。境界の安定せぬ細分化された勢力がせめぎあい、権力と権威の確保が共通する政治課題であった。スペイン(もしくはアンダルス)に定着した最初の王朝は後ウマイヤ朝であった。その名の示すように、この王統は9世紀に虐殺されたシリアのウマイヤ朝の末裔である。後ウマイヤ朝は諸々の自治的な王朝(タイファ:1031-1091年)の台頭により瓦解したが、この政治的変動により美術作品が根本的に変化するということはなかった。11世紀末には、レコンキスタのただ中にあって、ベルベル人の2つの部族が相続いてマグリブとスペインを支配した——ムラービト朝とムワッヒド朝であり、両者は美術にマグリブの影響をもたらした。しかしながら、キリスト教の諸王により徐々に征服され、14世紀にはイスラーム支配のスペインはグラナダのナスル朝のみとなり、1238年にこの街を首都としたナスル朝は1492年まで存続した。マグリブにおいては、ムワッヒド朝の後継となったのはハフス朝(1230年)、ザイヤーン朝(1235年)、マリーン朝(1258年)であった。マリーン朝は、その首都であるフェズを出発点に、スペインのみならずチュニジアでも数多くの軍事遠征に加わったが、チュニジアにしっかりと根を下ろしていたハフス朝を追い出すには至らなかった。ザイヤーン朝はナスル朝と密な交易を行っており、またアラゴン連合王国およびマリーン朝とも同盟を結んでいた。マリーン朝は15世紀には衰退を始め、1549年にはたちにより完全に取って代わられた。ハフス朝は1574年にトルコのオスマン帝国により征服された。アンダルスは中世に偉大な文化が栄えた地であった。イブン=ルシュドのものなど、西洋世界では知られていなかった哲学や科学の広がりを可能にした数々の大学のほか、この地は美術にも富んでいた。建築ではコルドバの大モスクがすぐに思い浮かぶであろうが、トレドのやカリフの都ザフラー宮殿などもそれに劣らず重要である。この時代の傑出した建築としてはグラナダのアルハンブラ宮殿もある。西ゴート族、さらにはローマをモデルとした半円アーチのフォルムに代表されるような数々の特徴はスペイン建築の特色を示しているが、同様に頻繁に使用される多弁形のアーチはイスラーム時代の典型的な特徴のようである。ミフラーブを小さな部屋として扱うのもスペインの特徴である。工芸ではさまざまな技法が凝らされた。後ウマイヤ朝の北アフリカ進出に伴い象牙が入手しやすくなったことから象牙細工が発展し、精緻な箱や宝石箱がカリフ一族など富裕層のために作られた。中でもが傑作であり、精緻な浮彫で4つの場面が描かれているが、その図像の意味は詳らかにはなっていない。イスラーム圏ではどちらかと言えば稀であった大きな彫刻も日の目を見た。金属製の丸彫りはや噴水の吐水口として、石製の丸彫りは例えばアルハンブラ宮殿の「獅子の噴水」の支えとして用いられた。織物、特に絹は大部分が輸出された。その多くの例が西洋の教会の宝物庫で、聖人たちの骸骨を包む布として再発見されている。焼き物では、「伝統技術」が駆使され、とりわけラスター彩が化粧板や一連の「アルハンブラの壺」に用いられた。マグリブ人の諸王朝による支配を受けてからは、彫刻と彩色の施された木工芸への趣味も見られるようになる。1137年のものとされるマラケシュのクトゥビーヤ・モスクのミンバル(説教壇)はその最良の例の1つである。北アフリカの建築については、脱植民地化以降に研究が行われなかったためあまり知られていない。ムラービト朝とムワッヒド朝は、裸の壁を持つモスクなどから窺い知れるような簡素さの探求が特徴となっている。マリーン朝とハフス朝は重要だがほとんど知られていない建築様式や、彩色・彫刻・象嵌を施した木工芸を生み出した。909年から1171年までエジプトを支配したファーティマ朝はイスラーム世界で数少ないシーア派王朝の1つであった。ファーティマ朝は909年にイフリーキヤで誕生し、969年にはエジプトに到達しフスタートの北にカイロに首都を建設した(フスタートも経済の中心地であり続けた)。ファーティマ朝は聖俗の重要な建築様式を生み出し、アル=アズハルとアル=ハキムのモスクや、宰相バドル・アル=ジャマリが建設したカイロの城壁などが残存している。また木、象牙、釉の下にラスター彩と彩色を施した焼き物、金銀、象嵌した金属、不透明ガラス、それからとりわけ天然水晶など、最も多様な素材による美術品の豊かな産出の源でもあった。当時の職人には多数のキリスト教徒のコプト人が含まれており、キリスト教の図像を持つ数多くの作品がそのことを裏付けている。とりわけ寛容であったファーティマ朝の治世下ではキリスト教徒が多数を占めていたのである。その美術は豊かな図像が特徴となっており、人間と動物の姿が活き活きとした表現で多用され、ラスター彩の陶器に施された目玉文様のような純粋に装飾的な要素であることからは解放される傾向にあった。地中海沿岸、とりわけビザンチンの文化との商業的接触により技法と様式の両面で豊かなものとなったのである。また丸彫り彫刻を(多くの場合ブロンズで)作らせた数少ない王朝の1つでもあった。同時期にシリアでは、セルジューク朝の王子たちの養育係的な存在であるアタベクたちが権力を簒奪していた。独立独歩のアタベクたちは王子たちの間の反目に乗じ、また大半はフランク人のの定住を甘受した。1171年にサラーフッディーンがファーティマ朝のエジプトを占領し、短命な王朝となるアイユーブ朝を創設した。建築にとってはあまり良い時代ではなかったが、それでもカイロの街の防衛施設の修繕と改良は行われた。高級品の生産も途切れた訳ではなかった。釉の下にラスター彩や彩色を施した焼き物や、高品質な象嵌した金属工芸の生産は続けられ、12世紀末には揃い物のゴブレットや特に瓶などのエナメル装飾を施したガラスも出現した。マムルークたちが1250年にはエジプトでアイユーブ朝から権力を奪い、1261年にはシリアでモンゴル人と戦いその価値を認めさせた。君主の世襲が行われた訳ではなかったので、マムルーク朝は厳密な意味では王朝ではない。事実、マムルークたちはトルコの解放奴隷であり、(理屈上は)権力を解放奴隷の仲間同士で引き継いだ。この特異な政体は1517年までの3世紀弱に亘って続き、スルタンもしくは首長による巨大な総合施設からなる豊かな石造建築の様式が特にカイロで実現することになる。スルタンの地位が不安定であったため支配権を保つには多くの施設を寄進せざるを得ず、この時期には幾千もの建物が建造された。装飾は概してアブラクの技法に沿って色取り取りの石を嵌め込むことや放射状の幾何学文様を持つ寄せ木細工を木部に施すことで行われた。エナメル彩のガラスや象嵌した金属工芸も庇護の対象となり、各地に輸出された。真鍮製品製造者ムハンマド・イブン・アル=ザインの署名がある、イスラームの美術品で最も高名なものの1つであるはこの時代のものと推定されている。10世紀のイランとインド北部では、ターヒル朝、サーマーン朝、ガズナ朝、ゴール朝が覇権を争った。そのため美術は隣人から抜きん出るための不可欠な手段となっていた。ニーシャープールやガズニーのような大きな街が建設され、また現在の形のエスファハーンの金曜モスクが作られたのもこの時期である。墳墓建築が発達し、また陶工は黄色の地に万華鏡のような装飾や、有彩の釉薬の流れた跡や釉の上と下の双方に施された(エンゴーベ)で構成された碧玉文様の装飾を施し1つ1つが大きく違う作品を作り出した。トルコ(現在のモンゴル国も含む)を起源とする遊牧民であったセルジューク朝が10世紀の終わり頃にイスラーム世界に急激に広がった。セルジューク朝は1048年にバグダードを占領し、1194年にはイランにおいては滅亡したが、その名を持つ品物の生産が12世紀末から13世紀初頭にかけても行われており、これは独立したより小規模な君主たちのためのものだったのであろう。中庭の4辺にイーワーンを持つイラン・プランのモスクが初めて出現したのはセルジューク朝時代であった。石英の粉に白い粘土と釉薬の粉を混ぜた人工胎土(ストーン・ペースト)により陶器を白く薄く作ることが可能になり、カーシャーンでは色彩豊かなミーナーイー手もしくはハフト・ランギの陶器が作られペルシア陶器は黄金期を迎えた。またブロンズに貴金属を象嵌することも行われた。13世紀には中央アジアからの新たな侵略の波がイスラーム世界に襲来し、ウィーンの城門にまで到達した——チンギス・カンの率いるモンゴル帝国である。チンギス・カンが死ぬと、その帝国は息子たちによって分割され、いくつもの支流が生まれた。中国においては元、イランにおいてはイルハン朝であるが、イラン北部は「黄金のオルド」(ジョチ・ウルス)の遊牧民らが支配した。最初は元の皇帝に従属していたが急速に独立したものとなっていった「小ハーン」たちの下で、豊かな文明が発達した。モンゴル人たちが定住化するにつれ建築活動も活発になっていったが、遊牧民の伝統の跡も多少なりとも残り、それは建物を南北に向けることなどに現れた。しかし著しいペルシア化や、イラン・プランとして既に確立されていた形式の再来もまた見られる。ソルターニーイェにあるオルジェイトゥの墓はイランで最も大きく堂々とした建造物の1つであるが、破壊が夥しい。宰相ラシードゥッディーンの命により編纂された『集史』のような重要な写本を通じてペルシアの写本芸術が誕生したのもこの王朝の下であった。陶芸ではラージュヴァルディーナ彩やスルターナバード彩をはじめとするさまざまな新技法が出現した。イルハン朝の工房は多民族の職人で構成されていたが、モンゴル人は中国の文物に慣れ親しんでいたため美術のあらゆる分野に中国の影響が見出される。これら遊牧民の美術については極めて僅かしか知られていない。ようやく関心を向けはじめた研究者たちは、これらの地域に都市計画と建築が存在していたことを発見した。金銀細工も大いに発展しており、その作品の大部分には中国からの強い影響が見られる。サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に所蔵されているこれらの作品はようやく研究されはじめたばかりである。遊牧民からの3度目の侵略はティムールの軍勢によるもので、これは中世イラン3番目の重要な時代を打ち立てた——ティムール朝である。15世紀におけるこの王朝の発展に伴い、特にヘラートへの遷都後にはビフザードらの画家や、数々の中心地と庇護者たちによってペルシアの写本芸術は頂点に達した 。サマルカンドの建造物などを通して知られるペルシアの建築と都市計画もまた黄金時代を迎えた。タイルによる装飾やムカルナスのドームがとりわけ見事である。写本芸術および中国の美術の強い影響が他のあらゆる領域で見出される。ティムール朝時代における写本芸術とペルシア美術の結び付きは後のサファヴィー朝の大帝国におけるペルシア美術の飛躍を可能にした要素の1つである。拡大を続けるセルジューク朝トルコはアナトリア半島にまで征服の手を伸ばした。1071年のマラズギルトの戦い後、アナトリアのセルジューク朝はイランのものとは独立したスルタン国を形成した。モンゴルの侵攻を受け、その権力は1243年には消滅したものと思われるが、その名を冠した硬貨は1304年まで鋳造され続けていた。イランやシリアのさまざまな様式を折衷した建築や美術品は帰属の決定が困難である場合も多い。木工芸が主要な美術分野の1つとなっており、またこの時代のものとされる傑出した装飾写本も知られている。建築では通商路にキャラバンサライを充実させ、建築装飾には人物や鳥獣などの具象的なモチーフが多く用いられた。ヴァン湖周辺の地域で遊牧生活を営んでいたトルクメン人については極めて僅かしか知られていない。しかしながらをはじめとする数々のモスクはトルクメン人によるものであり、またルーム・セルジューク朝の瓦解後のアナトリアや、ティムール朝時代のイランにも決定的な影響を及ぼしている。13世紀以降アナトリアは、ここに住みつきビザンチンの領土を徐々に侵食していったトルクメン人の小規模な諸王朝により支配されるようになった。そうして徐々に1つの王朝が勃興してくる——オスマン帝国(1453年以前のものは「初期オスマン帝国」と呼ぶ)である。この時代には建築に庇護が与えられ、建築では丸天井を用いることにより空間の統一を探求しようとしたものと思われる。陶芸でも、「ミレトス陶器」(ミレトス手)やアナトリアの青と白と呼ばれるようになるオスマン帝国固有の特徴となるものが現れた。インドはガズナ朝とゴール朝によって9世紀に征服され、1206年にムイッズィー(奴隷王)たちが権力の座に就きデリー・スルターン朝が誕生してようやく自治を回復した。後には、ベンガル地方、カシミール、グジャラート、ジャウンプル、マールワー、およびデカン高原北部(バフマニー朝)にも競合するスルターン朝が形成された。これらの国々は徐々にペルシアの伝統から遠ざかってゆき、ヒンドゥー美術との融合が見られる独自の建築と都市計画が誕生することになった。美術作品の制作については現時点ではほとんど研究されていないが、重要な写本芸術のあることが知られている。スルターン朝諸国の時代は、インド全域を徐々に占領していったムガル帝国の到来と共に終焉する。イスラーム世界全体を統一する帝国が再び現れることはなかったが、この時期にはトルコのオスマン帝国、インドのムガル帝国、およびイランのサファヴィー朝という3つの安定した大帝国が成立し中世の地方王朝を取り込んでいった。14世紀に誕生したオスマン帝国は第一次世界大戦まで存続する。非常に広い地域と長い時代に亘ったこの帝国には多産な美術が存在した——多数の建築、陶器の大量生産(とりわけイズニク陶器)、重要な宝石細工活動、ならびに多方面からの影響を受けた傑出した写本芸術などである。この時代には、イランや中国などの東洋およびヴェネツィアに代表される西洋の双方との交易が行われていた。メフメト2世がコンスタンティノポリスを征服した際にムスリムに知られるようになった教会アヤ・ソフィアはオスマン帝国初期の建築に大きな影響を与え、壮大なドーム・コンプレックスを持つオスマン・プランのモスクが作られるようになった。100歳近くまで長生きし数百もの建築物を手掛けた建築家ミマール・スィナンの存在が特に重要である。写本芸術においては、特記すべきものとして例えば1つは14世紀末に、もう1つはスルタンのムラト3世(1574-1595)のために作られた2冊の『祝典の書』があり、これらには数多くの挿絵が含まれている。ミニアチュールは16世紀初頭に戦利品としてもたらされた大量の美術品や、到来した数々のイラン絵画によるサファヴィー朝イランからの影響を強く受けている。また陶芸において「イズニク赤」と呼ばれる鮮やかな赤が作り出されたのもオスマン帝国においてであった。非常に際立ったこの赤は1557年頃に出現したもので、現在はロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に所蔵されているスレイマニエ・モスクのランプやタイルがその証となっている。ムガル帝国は1526年から1858年、イギリスに占領され保護領とされるまでインドを支配した。ムガル帝国の建築はモスクのムガル・プランの確立やタージ・マハルの建設で名高く、宝石細工や翡翠などの硬石加工も栄えた。とりわけ、たとえば馬の頭を象ったもののような軟玉製の短剣が作られた。のような独自の金銀細工技法によってルビー・エメラルド・ダイヤモンドなどの緻密な象嵌が可能となり、花のモチーフを象ることが一般的であった。なお王族が金や玉器の食器を用いた一方、カースト間の汚染を恐れたためか陶芸は発達しなかった。フマーユーンの治世下で、逃亡先から帰還したフマーユーンと共にやってきたペルシアの職人たちの指導を受け写本芸術が生まれるようになった。しかしまた、遠近法の使用と彫版術というヨーロッパの着想といった、西洋からの強い影響もはじめて見出される。ヒンドゥーの特徴もまた、特に地方の中心地で見られる。17世紀のの発明も特記すべきで、卑金属の合金を強く艶消した黒とし金銀の象嵌モチーフを引き立たせる技法により、代表的であるフーカの基部の他、水差し、キンマの箱、「痰壺」などといったさまざまな金属工芸が製作された。ムガル帝国とオスマン帝国に並んで、イランも1501年から十二イマーム派の王朝を頂き、1786年まではどうにか存続していた。サファヴィー朝の美術においては、陶芸と金属工芸に大きな変化が徐々に起き、16世紀以降は高価な素材ではなく色のついた生地を埋め込むようになった。専門家の中には、16世紀には金属工芸が衰退したとする者もある。中国の磁器が非常に高く評価されており、写本芸術や絨毯において極めて中国的なモチーフを青と白で模倣することが行われた。建築が繁栄し、アッバース1世によりエスファハーンに新都が建設された——数多くの庭園、のような離宮、広大なバザール、壮大ななどが建造された。写本芸術は、250以上もの絵画を含む巨大な写本であるによってその頂点を迎えた。17世紀になると王族が高価な装飾写本をあまり注文しなくなり、新しい種類の絵画が発達した——アルバム絵()である。これはさまざまな芸術家たちが絵やデッサンやカリグラフィーを紙葉に描き、それを愛好家が集めてアルバム(画帖)にするものである。この新しい美術形式を代表する画家の1人にリザー・アッバースィーがいる。アフガン人の侵略によるサファヴィー朝の滅亡に伴い1世紀の間混乱が続くが、モンゴル支配の時代にカスピ海沿岸に定住したトルクメン人の部族による新しい権力であるガージャール朝の台頭により混乱には終止符が打たれた。西洋の強い影響を受けた美術が生まれた——ガージャール朝のシャーたちの油絵による立派な肖像画には、ミニアチュールの作法の名残は多少あるにせよ、それまでのペルシア絵画とはほとんど関係のないものとなっている。ガージャール朝の下では、テヘランの街の発展と共に壮大な建築もまた建設されるようになった。鋼鉄などの新しい技法も美術に取り入れられた。イスラームの建築はイスラーム世界に特有のさまざまな形態を取り、それはイスラム教と関係していることが多い。モスクはもちろんであるが、マドラサや隠居所なども信仰に対応したイスラーム国に典型的な建物となっている。建物の類型は時代と地域によって大きく異なっている。13世紀以前には、今のエジプト、シリア、イラク、トルコにあたるアラブ世界の発祥の地ではモスクはどこもほぼ同じ「アラブ・プラン」と呼ばれる間取りに従っており 1つの広い中庭と1つの多柱式の礼拝空間を持つが、その装飾とさらにはフォルムには大きな差異があった。マグリブのモスクはキブラに垂直な身廊を持つ「T」形を採用していたが、エジプトとシリアでは身廊はキブラと平行であった。イランは、煉瓦の使用、スタッコと陶芸を用いた装飾、またイーワーンやペルシア式アーチといったに由来していることの多い独特のフォルムといった固有の特徴(イラン・プラン)を有している。マドラサもまたイラン世界で生まれたものである。スペインでは蹄鉄や多弁形などさまざまなアーチを用いた色鮮やかな建築への嗜好が見られる。アナトリアでは、ビザンチン建築の影響下にありつつもアラブ様式の中でこの地域独自の発展も見せる、独特で並外れた丸屋根を持つオスマン式(オスマン・プラン)の大モスクが建設された 。ムガル帝国のインドでは徐々にイランの様式を離れ球根状のドームを強調した独自の様式が発達した。は絵画、カリグラフィー、ミニアチュール(余白や扉に描かれるアラベスクや図案など)、装幀を全て含めたものである。伝統的に、写本芸術は3つの領域に分けて考えられてきた。シリア、エジプト、ジャズィーラ、マグリブ、それからオスマン(オスマンは別の領域とも考えられる)の写本に対応する「アラブ」、特にモンゴル時代以降のイラン世界で作られた写本に対応する「ペルシア」、そしてムガル帝国の作品に対応する「インド」である。それぞれの領域には特有の様式があり、それはさらに独自の芸術家たちや慣習などを持つ相異なった流派に分かれる。諸流派やさらには地理的領域の間での、政治状況の変化や芸術家の頻繁な移動(特にペルシアの芸術家はオスマンやインドに多く移住した)による影響関係が存在したことは明らかであるが、それぞれの変遷は並行して進行していた。遅くとも9世紀にはクルアーンの写本が存在した。クルアーン写本には挿絵は描かれなかったが、6書体による美麗なカリグラフィー、幾何学・植物文による装飾、芸術的な装幀が施された。中世に科学がよく発達したイスラーム圏では天文学や力学など科学書の写本も盛んに作られ、アブド・アル・ラフマン・アル・スーフィーの『恒星論』の1009年の写本が現存する最古の挿絵入り写本である。挿絵入りの写本はアラブ圏では14世紀に衰退が起きた一方、ペルシア圏では宮廷書画院(ケターブ・ハーネ)の下で物語や歴史書の挿絵入り写本が開花し、イスラーム絵画の主要な舞台となった。なお中国から伝来した製紙は10世紀にはイスラーム世界に定着し写本繁栄の礎となったが、アラビア文字の組版の困難さやカリグラフィーの重視のため印刷術の導入は18世紀まで遅れたウマイヤ朝からアッバース朝にかけては壁画や床絵としてフレスコ画などの絵画が描かれ、ウマイヤ朝時代のクルセイル・アムラや、ファーティマ朝時代のカイロ浴場壁画などが残存している。また陶芸、金属工芸、ガラス工芸、象牙彫刻が絵画的表現の媒体となっていた。写本芸術が発展すると、科学書から始まった挿絵が発展し絵画の舞台となった。ティムール朝・サファヴィー朝を中心にペルシア語の物語や歴史書の装飾写本が盛んに作られた。アラビア語では画家は神と同じ語「ムサッウィル」(創造者)であったこともあり糾弾の対象であったが、その画家の地位も確立され、署名を通じて名前が残るようになり、16世紀には画家論が書かれるまでになった。代表的な画家はビフザードである。16世紀後半になるとペルシアでは王族が高価な写本をあまり作らせなくなり、一枚ものの絵が描かれるようになった。これを愛好者が収集して画帖()とするようになり、画家の地位はさらに向上した。リザー・アッバースィーは鮮やかな色彩で宮廷の優雅な男女を描き評判を取り、その作風は広く模倣された。装飾美術の諸分野はヨーロッパでは「マイナー美術」と呼ばれている。しかしながら、数多くのヨーロッパ以外の文明や古代の文明でそうであったように、イスラームの地でもこれらの媒体は実用よりも芸術的な目的のために用いられており、職人仕事と分類してしまえなくなるほどの完成にまで至る傾向があった。イスラームの芸術家たちは主に宗教的な理由から彫刻には興味を示さなかったが、時代や地域により、 金属工芸、陶芸、ガラス工芸、宝飾(石英が代表的であるが、のような硬石も用いられた)、木工芸、象牙細工などの幅広い領域で独創性と卓越した技量を示した。金属工芸の素材としては青銅や真鍮が最もよく使用され、その他金銀鉄などの使用も見られるが、金銀はしばしば熔かして再利用され、またアッバース朝以降ではシャリーアを基に本格的に禁止されたため現存する作品は少ない。水差し、鉢、杯、インク壺、箱、鏡、シャンデリア、燭台、武具など多岐にわたり、その技法も製作物に応じて多種存在していた。基本的にはサーサーン朝ペルシアやビザンチンといったイスラーム以前から存在していた伝統を継承し、発展させた工芸美術である。ファーティマ朝時代のエジプトなどでは鳥獣をかたどった水差しが流行し、数多く製作されている。セルジューク朝時代には装飾として刻まれているアラビア文字の末端に人間の頭部や花の紋様など変化をつけた作品も出現し始め、当時の社会情勢の変化を伺うことができる。他の地域ではあまり発達しなかった技法に、12世紀ごろから見られるようになった銅や銀を真鍮の器に嵌め込む象嵌細工があり、1163年にヘラートで制作されたボブリンスキーの手桶が代表的である。象嵌技法はその後シリアに伝えられ、14世紀初頭にエジプトで傑作「」などの作品が生まれた。しかしそれ以降は理由は不明であるが人物や動物を描いた象嵌装飾は下火となり、15世紀末には単純な打出しや線刻が主流となり金工は衰退を迎えた。特徴ある金属工芸としては17世紀ムガル帝国のがあり、これは卑金属の合金に金銀を象嵌し、アンモニア塩を含む泥で覆うことで艶消しの黒を得て象嵌を引き立たせるものであり、特に大麻や煙草の吸引用フーカの基部が多く作られた。イスラーム世界における陶芸の歴史は時代毎に勃興した王朝によってその技、特徴が著しい変化を遂げている。また、主要な窯場も時代に応じて変遷し、アフガニスタン、トルコ、エジプト、イベリア半島など広域に渡る。中国の陶磁器の影響を受け、磁器の完全な再現こそ果たされなかったが、ラスター彩や、ミーナーイー手などといった独自の陶芸文化を進化させていった。陶芸技術が飛躍的な発展を遂げたのは、アッバース朝におけるイラクで、白釉陶器、白釉藍緑彩陶器、ラスター彩陶器などが誕生した。中でもラスター彩は一度施釉して焼いた器に硝酸銀や硫化銅で絵付けし、低温度の窯で再度還元焼成することで金属的な輝きを出す独特の手法で、イスラーム陶芸の代表的なものとして知られている。この技術は後に続くファーティマ朝やセルジューク朝などでも受け継がれていった。セルジューク朝に入ると影絵手と呼ばれる技法が発達し、青釉掻落文陶器、ミナイ手(ミーナーイー陶器。ペルシア語で「エナメル」の意)などの多彩な装飾が施された陶器が誕生する。イル・ハーン朝ではさらに装飾技法が発展し、金箔を加えた藍地金彩色絵(ラージュヴァルディーナ彩)や藍釉白盛上陶器(スルターナバード彩)などが誕生した。また、中国の陶磁器から影響を受けた建築装飾用のタイルなども生産されるようになった。オスマン朝時代のトルコ・イズニク窯場では中国の青花陶器の技法が取り入れられた白地藍彩陶器などが主流となり、また「イズニク赤」と呼ばれる鮮やかな赤も用いられた。サファヴィー朝ではこれを模倣したクバチと呼ばれる絢爛な彩画陶器の作成技法が生まれた。イスラーム時代以前より、地中海沿岸ではローマ由来の宙吹きガラス、ペルシアではサーサーン朝由来の面カット装飾を用いるガラスが作られていたが、アッバース朝時代に入り両者が融合し独自の発達を遂げ、イスラームのガラスは世界の最先端となりヴェネツィアなどのヨーロッパ諸都市にも強い影響を与えた。ガラスのカッティング技法による装飾が流行し、レリーフ・カットなどの技術が誕生している。11世紀に入るとエジプト・フスタートを中心として新しい技術が次々と生まれ、被せガラスの手法を用いた作品などが生み出された。また、ガラス工芸で生み出された技術は陶芸にも用いられ、イスラーム美術独特の陶芸技法であるラスター彩が誕生している。さまざまな器形がある中でも代表的であったのは大型の吊りランプ(モスク・ランプ)であり、エナメル彩の豪華なランプがモスク、マドラサ、廟墓などに神を光に喩えた以下のクルアーンの章句を添えて寄進されるのが常であった。高温乾燥の気候から身を守るための衣服、涼しい床の直上で生活し同じ空間を使い分けるための絨毯、遊牧民にとって住居そのものとなるテント(天蓋)など、イスラーム世界では布が重要な役割を担った。日用品としての布地は大半が無地であったが、装飾のある布は珍重された。銘文の刺繍(ティラーズ "tiraz")がある布を君主が家臣に下賜することが行われ、これを制作するための国立の工房もティラーズと呼ばれた。この制度はアッバース朝で拡大し、膨大なテキスタイルを生産した。空引機で作り出されるイスラームの複雑な図案の絹織物は14世紀まで世界市場を独占し、19世紀まで重要な輸出品であり続けた。絨毯はペルシアやトルコ(アナトリア)が現在も続く主要な産地であるが、礼拝用に絨毯を必要とすることなどからかつてはイスラーム世界ほぼ全域で絨毯の生産が行われていた。絨毯や掛け布などの贅沢な布は家の中にこの世の楽園を作り出すものであった。ペルシア絨毯の最高傑作とされるはティラーズで作られモスクか霊廟に奉納されたものと考えられており、こうしたデザインは速やかに地方に伝播していった。中世の象牙はほぼ全てがサハラ砂漠を越える陸路でもたらされており、これを入手しやすい地勢にあった後ウマイヤ朝やファーティマ朝では象牙細工が発達した。後ウマイヤ朝のが代表的な傑作である。またパンプローナ・ナバッラ美術館に所蔵されているファーティマ朝の象牙の30cmほどの箱には一面に高浮彫が施され、夥しい数の職人の署名があり、極めて高価なものだったことを窺わせる。またファーティマ朝では調度品などの装飾にも象牙細工が用いられた。イスラーム世界には木材の入手しにくい地域が多く、また家具もあまり必要とされなかったが、指物技術により貴重な木材を継ぎ合わせて箱や衝立などが作られた。特に、モスクの重要な備品であるミンバル(説教壇)やクルアーン台は木で作られる。現存する最古の木製ミンバルはにある9世紀のものである。建築には主に煉瓦・石材・タイルが使用されたが木材が豊富であった地域では建築装飾にも木工芸が用いられ、例えばナスル朝のアルハンブラ宮殿の天井は数千の木材を組み合わせた木造である。トルコでは木工芸がよく発達し、オスマン帝国のクルアーン収納箱のような傑作が残されている。エメラルドやルビーのような宝石が装飾として他の工芸品に嵌め込まれる一方、水晶や翡翠などはそれ自身を彫り込んだ工芸品が作られた。水晶細工に最も優れたのはファーティマ朝であった。ファーティマ朝の宝飾はほとんどが再利用され残存していないが、水晶から彫り出された高価な水差しやランプの一部はヨーロッパに渡り、教会の宝物庫などに収められ今日まで伝わっている。こうした非常に高価な工芸品はカリフ一族や高官が個人的に使用するためのものであった。玉器が最も盛んであったのはムガル帝国で、宝石細工や翡翠(硬玉と軟玉の2種がある)などの硬石加工が栄え、軟玉製の柄を持つ短剣や全体を宝石で埋め尽くした短剣などが作られた。のような独自の金銀細工技法によってルビー・エメラルド・ダイヤモンドなどの緻密な象嵌が可能となり、花のモチーフを象ることが一般的であった。「イスラーム美術」という言葉からは、偶像を排し幾何学文様とアラベスクだけから構成された美術が思い浮かべられることが多い。しかしながら、イスラームの美術には人や動物の姿の表現が数多く見られ、宗教とは関係しない領域ではとりわけそうである。さまざまな宗教がイスラーム美術の発達において重要な役割を演じ、神聖な目的に向けられた美術も多い。イスラム教はもちろんであるが、しかしながらイスラーム世界でイスラム教が多数派となったのは13世紀以降のことに過ぎず、他の宗教もまた無視できない役割を演じている。現在のエジプトからトルコまでの一帯ではキリスト教 、イラン世界ではゾロアスター教 、インド世界ではヒンドゥー教と仏教、マグリブではアニミズムが特にそうである。イスラム教は偶像を禁じたため、モスクなどの宗教建築やクルアーンの写本などを除くと宗教美術は存在せず、また宗教的な図像の需要も生まなかった。他方で、王族や都市の富裕層などはワクフとして宗教や慈善への寄進を行う傍ら、宮殿や贅沢な調度品など宗教以外の美術品のパトロンともなった。よってイスラーム美術に占める宗教美術の割合は大きくないのであるが、全面的ではないにせよ生物描写の忌避、モスクやクルアーンを飾ることのできる抽象的な装飾や神の完璧な創造を暗示する数学的に計算された無限の美の追求、神の言葉を記すカリグラフィーに与えられる高い価値などの美意識や慣行を通して、乾燥地帯という気候風土などと並びイスラーム美術に共通の特質の一部を作り出している。芸術家は宗教以外のさまざまな源泉を用いており、中でも文学との関係が深い。フェルドウスィーにより10世紀初頭に作られた国民的叙事詩『シャー・ナーメ』(『王書』)や、ニザーミーの『5つの詩』(もしくは『ハムサ』。12世紀)といったペルシア文学が写本芸術のみならず美術品(陶芸、絨毯など)のモチーフの源となっている。特に、権力者たちは自分の伝記物語よりも『シャー・ナーメ』の豪華な写本を作らせるのが常であった。神秘主義の詩人サアディーとジャーミーの作品を表現したものも多い。14世紀初頭に宰相ラシードゥッディーンにより編纂された『集史』(『歴史集成』)はイスラーム世界全体で数多くの表現の支えとなっている。ペルシア語はムガル帝国やオスマン帝国でも宮廷語となっており、ペルシア文学の写本が作られた。ペルシア語以外のものとしては、『パンチャタントラ』のインド起源の寓話、アル・ハリーリーの『マカーマート』やその他のテクストにバグダードやシリアの工房でイラストレーションが施された。なお『千夜一夜物語』は879年までには原型が出来ていたが、イスラーム世界の歴史的な挿絵入り写本は現存しておらず、19世紀以降のものがあるのみである。こうした美術形式における抽象的・装飾的なモチーフは無数にあり、から植物文様(アラベスク)まで極めて変化に富んでいる。クルアーンの章(スーラ)は神の言葉であると考えられているため、カリグラフィーはイスラーム世界では重要な、さらには神聖な活動であるとされている。また、生き物の姿を表現することは宗教的な場所や作品では認められていない。そのためカリグラフィーには宗教的な領域のみならず世俗的な作品においても特別な注意が払われている。アラビア文字は神の文字と捉えられ、イスラーム美術において神像、偶像の代替的役割を果たした。アラビア文字はその視覚的特性からイスラーム美術の抽象的装飾とうまく調和し、イスラーム美術の重要な装飾要素のひとつと位置付けられている。装飾に用いられる文字文様は読解が困難であったり、文字に似せているだけ(倣文字文)であったりする場合もあり、必ずしも読まれることを前提とはしていなかった。イスラーム美術には全く偶像が存在しないと考えられがちであるが、陶芸や写本芸術などでは数多くの人や動物の姿が表されている。クルアーンは偶像を禁じているが、これは神の姿を像に表し崇めることを禁じたもので、人間や動物を描くことを禁じたものではない。他方、ハディース(ムハンマドの言行録)の中には、動物の姿を描くことを神への挑戦であるとして非難するものがある。よって、あらゆる領域において神の表現は行われないが、人間や動物を描くことはモスクなどの宗教的文脈でこそ忌避されても、世俗の領域では必ずしもそうではなかった。またムハンマドだけでなくイエスやその他の旧約聖書に登場する預言者たちや、さらにはイマームたちの宗教的な図像も描かれることがあり、時代や地域によって顔に覆いがかけられていたりいなかったりする。ムハンマドは神ではなく預言者であり、よってクルアーンの偶像禁止とは関係せず、また当初は神格化もされなかった。時代が下ると共に光背や頭光が描かれるようになり、16世紀には顔にベールがかけられ、18世紀には姿全体を隠すことも行われるようになった。このように図像表現の問題は複雑なものであり、時代や地域による変遷もあるのでさらに理解は困難なものとなっている。ヨーロッパにおいては、中世に高価な物品(絹、天然水晶)を多数輸入していたため、古くからイスラーム美術が知られていた。こうした物品の多くが聖遺物箱に使用され、西洋の教会の宝物庫で保存されている。初期のガラス器の完品の大部分はイスラーム世界ではなく教会の宝物庫に残っていたものである。しかしながら、学問としてのイスラーム美術史はたとえば(西洋)古代美術史などよりも遥かに最近になって生まれた分野である。それに加え、考古学の分野ではイスラーム美術は、古代の層に達したいと望みそのため現代に近いものを荒らしてしまう考古学者たちによってしばしば犠牲にされている。19世紀に誕生しオリエンタリズムによって推進されたこの学問は世界的な政治・宗教上の出来事のために幾多の紆余曲折を経てきた。植民地化は一部の国々の研究に有利に働き、ヨーロッパとアメリカに複数のコレクションも誕生したが、完全に無視された時代地域も数多あった。後期オスマン帝国やガージャール朝の美術がその典型で、今日ようやく再発見されつつある。西洋的なオリエンタリズムはイスラームの過去の1つの統一された黄金時代を見ようとし、他方で植民地主義から解放されたイスラーム諸国ではと民族主義との相克があった。また冷戦は研究と発見の伝播を妨げ、イスラーム美術の研究を大幅に遅らせた。日本へは7世紀末には唐招提寺舎利容器(国宝)としてイスラームのガラスが鑑真によりもたらされたほか、東大寺正倉院中倉に3点のイスラーム・ガラス器が収められている。中近世にも陶磁器、絨毯、織物は伝来を続けており、特に織物は名物裂として扱われた。しかしながら学問としてのイスラーム美術の確立は遅く、2009年現在もイスラーム美術の講座を持つ大学は2-3校に過ぎない。他でもよくあるように、イスラーム美術の大規模なコレクションはイスラーム世界よりもむしろ西洋に多い。19世紀末のオリエンタリズムの隆盛やアーツ・アンド・クラフツ運動による手工業工芸品の再評価などにより優れたイスラーム美術のコレクションが欧米に形成された。具体的にはルーヴル美術館、メトロポリタン美術館、大英博物館、ヴィクトリア&アルバート博物館などがある。しかしながらイスラーム世界にも、などのコレクションが存在する。リスボンのカルースト・グルベンキアン財団とハリリ・コレクションも多くの作品を所蔵している。ワシントンD.C.のフリーア美術館のようなアメリカ合衆国の博物館にも美術品や写本を有しているものがある。には世界で最も重要なイスラームのガラス作品のコレクションがある。写本では、大英図書館やフランス国立図書館などの大図書館も重要で、東洋の写本のコレクションがかなり充実しているが、また博物館も写本の装飾されたページを保存している場合がある。日本にも陶器とテキスタイルを中心としたコレクションが存在し、中近東文化センター、東京国立博物館、国立民族学博物館、岡山市立オリエント美術館、MIHO MUSEUMなどでイスラーム美術の一端に触れることができる。建築ならびに美術品の最も古い産品を求めてサーマッラー、スーサ、カイロなどでイスラーム考古学が行われている。政治状況や一時期の無関心などのためアラビア半島は学問上「最後の空白地」とも呼ばれ、それだけに研究の余地は大きく、困難にもかかわらず、パキスタンからマグリブに至るまでのイスラーム世界全域の重要な発掘現場で現在も発掘が行われている。
出典:wikipedia
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