鄧 賢(とう けん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期から三国時代の人物。魏の武将。『三国志演義』の描写が原因のためか、孟達の甥とは別人との説があるが、本記事では同一人物として扱う(今鷹真・井波律子らが訳したちくま学芸文庫の和訳も同一人物と解している)。劉璋配下。建安18年(213年)、劉璋と劉備の関係が悪化し、劉備の入蜀が始まる。鄧賢は劉璝・冷苞・張任と共に涪城で劉備軍を迎え撃ったが敗れ、綿竹へ後退した。その後、一時的に軌跡が途切れている。太和2年(228年)正月、魏に降っていた孟達が再び蜀漢に戻ろうと反乱した際、鄧賢は密かに司馬懿と通じ、城門を開いてその軍勢を迎え入れた。以後、鄧賢の名は史書に見当たらない。姿を消していた15年間の動向だが、鄧賢も孟達と同様まず劉備に降伏した後、魏に降ったという可能性が高い。ただ鄧賢については、劉備を経由せず直接曹操に降った可能性もあり、現在の史料からはこれを完全否定できない。小説『三国志演義』では、劉璋の劉備歓迎の宴で、同僚たちと共に劉璋を守ろうと剣舞を行なう。劉備の入蜀が始まると、史実の涪城ではなく雒城で劉備軍を迎え撃っている。冷苞と共に城外に陣を構え、抜け駆けしてきた魏延を後一歩まで追い詰めるが、黄忠に射殺されてしまう。上記の時点でその死は明らかなはずだが、その後、史実同様に孟達の反乱にも名を連ねている。
出典:wikipedia
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