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夏潮 (駆逐艦)

夏潮(なつしお/なつしほ)は、日本海軍の駆逐艦。陽炎型駆逐艦(一等駆逐艦陽炎型)の6番艦である。1942年(昭和17年)2月9日、マカッサル沖において潜水艦の雷撃が原因で戦没した。なお、本艦は陽炎型全19隻のうち最初の沈没艦となった。艦名は海上自衛隊のなつしお型潜水艦「なつしお」、はるしお型「なつしお」に継承された。駆逐艦「夏潮」は藤永田造船所で1937年(昭和12年)12月9日に起工。1938年(昭和13年)9月20日、日本海軍(米内光政海軍大臣)は舞鶴海軍工廠で建造の陽炎型4番艦を『親潮』、藤永田造船所の陽炎型6番艦(本艦)を『夏潮』、川崎造船所の陽炎型7番艦を『初風』と命名した。同日附で、各艦(親潮、夏潮、初風、伊号第十八潜水艦、伊号第二十潜水艦、伊号第二十二潜水艦等)は、それぞれ艦艇類別等級表に登録。「夏潮」は1939年(昭和14年)2月23日に進水。本艦の建造は陽炎型3番艦「黒潮」と同時に進められた。同年4月11日、藤永田造船所で陽炎型11番艦「浦風」が起工。同年10月18日、藤永田造船所で陽炎型14番艦「谷風」が起工。藤永田造船所は陽炎型4隻(黒潮、夏潮、浦風、谷風)を同時に建造することになった。1940年(昭和15年)1月27日、藤永田造船所で姉妹艦「黒潮」が竣工。5月1日、日本海軍は睦月型駆逐艦5番艦皐月艦長、白露型駆逐艦8番艦山風艦長、吹雪型駆逐艦浦波艦長等を歴任した野間口兼知中佐を夏潮艤装員長に任命した。同日附で早潮艤装員長も任命されている。5月3日、藤永田造船所に夏潮艤装員事務所を設置する。同年8月31日に竣工。陽炎型5番艦「早潮」と同日附の竣工であった。呉鎮守府籍。野間口艤装員長は制式に夏潮駆逐艦長(初代)となる。夏潮艤装員事務所も撤去された。同日(8月31日)附で、日本海軍は既に竣工していた陽炎型4番艦「親潮」(8月20日、舞鶴海軍工廠建造艦)と、完成したばかりの2隻(夏潮、早潮)で第15駆逐隊を編制した。駆逐隊司令には、初春型駆逐艦2番艦子日初代艦長や吹雪型1番艦吹雪艦長、第7駆逐隊司令、特務艦野島特務艦長等を歴任した植田弘之介大佐が任命されている。編成直後の第15駆逐隊は、呉鎮守府練習駆逐隊となる。11月15日、第15駆逐隊は第二艦隊(司令長官古賀峯一中将)・第二水雷戦隊(司令官五藤存知少将)に編入。同時に第16駆逐隊に所属していた姉妹艦「黒潮」が第15駆逐隊に編入され、15駆は定数4隻(黒潮、親潮、早潮、夏潮)を揃えた。1941年(昭和16年)6月18日、第15駆逐隊司令は植田大佐から佐藤寅治郎大佐(前職第4駆逐隊司令)に交代した(植田は9月20日より日本丸監督官)。6月23日、日向沖で実施された演習で「夏潮」は朝潮型駆逐艦8番艦「峯雲」(第9駆逐隊)に衝突され(夏潮艦中央部損傷)、さらに後進をかけた「峯雲」と、前進してきた「黒潮」が衝突する多重事故が発生した。9月1日、第二艦隊司令長官は古賀峯一中将から近藤信竹中将に交代(古賀は支那方面艦隊司令長官に補職)。9月6日、本艦は修理を完了する。9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将は第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)司令官へ転任(翌年10月、サボ島沖海戦で青葉大破時に戦死)、後任の二水戦司令官は第六潜水戦隊司令官田中頼三少将となった。10月20日、野間口(夏潮艦長)は第5駆逐隊(春風、朝風、旗風、松風)司令を命じられ、海軍省人事局局員長井純隆中佐が二代目夏潮駆逐艦長となる。長井は初春型2番艦子日二代目艦長だった事がある(前の15駆司令植田大佐は、子日初代艦長)。10月25日、佐藤(15駆司令)は司令駆逐艦を「早潮」から「夏潮」に変更した。太平洋戦争開戦時、陽炎型姉妹艦4隻(黒潮、親潮、早潮、夏潮)は引続き第15駆逐隊(司令佐藤寅治郎大佐)を編制、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)に所属し、比島部隊(指揮官高橋伊望中将/第三艦隊司令長官)の指揮下にあった。当事の第二水雷戦隊は、第15駆逐隊以外に第8駆逐隊(大潮、朝潮、満潮、荒潮)、第16駆逐隊(雪風、時津風、初風、天津風)、第18駆逐隊(不知火、陽炎、霞、霰)が所属していたが、第8駆逐隊は南方部隊本隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)、第18駆逐隊は南雲機動部隊警戒隊(指揮官大森仙太郎第一水雷戦隊司令官)に所属して、第二水雷戦隊本隊とは別行動である。1941年(昭和16年)12月上旬より、ダバオ、ホロ攻略作戦に参加した。1942年(昭和17年)1月、メナド攻略作戦に参加し、以降ケンダリー攻略作戦、アンボン攻略作戦に参加。フィリピン方面の作戦が一段落すると比島部隊は蘭印部隊となり、東南アジアでの作戦に従事する。2月1日の時点で、第15駆逐隊は司令駆逐艦/第1小隊1番艦夏潮、2番艦黒潮、第2小隊3番艦親潮、4番艦早潮という編制であった。2月5日、マカッサル攻略作戦に従事する部隊(軽巡長良、水上機母艦瑞穂、第8駆逐隊、第15駆逐隊等)はセレベス島スターリング湾に集結した。前日には駆逐艦「涼風」(第24駆逐隊)が米潜水艦スカルピン("USS Sculpin, SS-191")の雷撃で大破しており、船団はすでに連合国軍潜水艦に狙われていた。2月6日夕刻、マカッサル攻略船団はスターリング湾を出撃。その前路掃蕩に従事していた駆逐艦「満潮」(第8駆逐隊)はスカルピンに爆雷攻撃を行うが、スカルピンを取り逃がした(満潮報告では効果確実)。2月8日、船団はマサッカルに接近するが天候不良となり、第一根拠地部隊指揮官久保九次少将は指揮下部隊・各艦に天候不良時の上陸方法について指示を行う。マサッカル入港時、攻略船団は各艦相互に通信をおこなって識別灯を点灯しており、対潜警戒をおろそかにしていた。同日22時15分、輸送船団後尾にいた「夏潮」はスラウェシ島のマカッサル沖で米潜水艦S37(")の雷撃に遭った。魚雷1本が艦中央前部機械室左舷に命中し船体に大破孔ができ、上甲板は膨れ上がった。また爆発と同時に九三式魚雷を装填していた2番魚雷発射管と測量儀が吹き飛び、被害箇所に近い位置にあった内火艇や探照灯も破壊された。これにより前部機械室と第三缶室が浸水、主機械破壊により航行不能となり左に2度傾斜したが、この時点では沈没せず僚艦「黒潮」の曳航でスラウェシ島ケンダリに退避する事になった。黒潮駆逐艦長によれば、当初は機雷による被害だと考えていたという。マカッサル上陸作戦そのものは成功した。2月9日7時15分、「親潮」(第15駆逐隊司令)より緊急電が発信された。タナケナ島の南で風向が急変、急速に浸水が進んだ。手の施しようがなく、「夏潮」は次第に中央部が沈降し、つづいて艦首と艦尾を持ち上げV字型に折れ曲がり前後に分断されて8時43分に沈没した。乗員は2隻(親潮、黒潮)に収容された。沈没時点の戦死者は8名、重傷者6名。沈没地点。曳航失敗の原因について夏潮駆逐艦長は「被害認定が甘かった」と回想している。なお『華々しく自爆して最後を飾ろう』という乗組員のはからいにより、爆雷に細工が行われた。水雷科員は投下器に装填中の爆雷全てを起爆深度を30mに設定、船体水没後、夏潮は巨大な水柱を上げ自爆した。佐藤(第15駆逐隊司令)は司令駆逐艦を「夏潮」から「親潮」に変更する。僚艦に救助された夏潮乗員はセレベス島ケンダリに入港後、日本海軍初の生き残りとして珍しがられ各方面から見舞い品が届き、親切にされたという。長井(夏潮艦長)は2月14日附で呉鎮守府附となり、夏潮駆逐艦長の職務を解かれた。駆逐艦「夏潮」は2月28日、第15駆逐隊、帝国駆逐艦籍一等陽炎型、それぞれから除籍された。夏潮残務処理は3月3日から呉海兵団内でおこなわれ、4月6日に終了した。第15駆逐隊は7月20日に陽炎型1番艦「陽炎」を編入するまでの間、3隻編制で行動することになった。

出典:wikipedia

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