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天津風 (陽炎型駆逐艦)

天津風(あまつかぜ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。艦名は初代天津風の襲用。天を吹く風の意味から。日本海軍の駆逐艦としては、初代天津風(磯風型駆逐艦)に続いて2代目。陽炎型駆逐艦の9番艦である。天津風のみ次世代型駆逐艦島風用の試作機関を搭載していた。第16駆逐隊に所属して数々の海戦に参加するも1944年初頭、米潜水艦の雷撃により大破した。1945年3月下旬、仮艦首を装備して日本本土へ帰投中、アメリカ軍機の攻撃を受け1945年4月上旬にアモイで座礁し、自沈した。戦後、艦名は海上自衛隊の護衛艦「あまつかぜ」に引き継がれた。天津風は後に次世代型駆逐艦島風で採用した高温高圧缶(ボイラー)をテストケースで搭載したことで知られる。他の陽炎型駆逐艦の缶の発生する蒸気は圧力、温度350℃であったが、天津風のそれは圧力、温度400℃であった。高温高圧の缶を採用することで機関はコンパクトになり、燃費も向上する。天津風は全速発揮時1時間1馬力あたり0.305kgの燃料を消費するが、陽炎の消費量に比べて0.040kg少なく、吹雪より0.135kg少なかった。天津風の試作機関は小型の大出力機関を開発するのに必要な技術であった。ただし、天津風の機関出力は他の陽炎型と同じく5万2000馬力に設定され、巡航時の燃料消費量もさほどかわらなかった。舞鶴海軍工廠で1939年(昭和14年)2月14日起工。8月25日、天津風(アマツカゼ)と命名された。姉妹艦の時津風も同日附の命名であった。同年10月19日進水、1940年(昭和15年)10月26日に竣工。呉鎮守府籍。同年1月27日編制当初(駆逐隊司令島崎利雄大佐)の第16駆逐隊は陽炎型2隻(黒潮、雪風)だったが、2月15日に初風、11月15日時津風、12月15日に天津風がそれぞれ編入され、それにともない黒潮は第15駆逐隊へ転出した。1941年(昭和16年)7月25日、島崎司令は軽巡川内艦長へ転任、渋谷紫郎大佐(前職第7駆逐隊司令)が第16駆逐隊新司令として着任した。第16駆逐隊は渋谷司令指揮下のもと、陽炎型4隻(雪風、時津風、天津風、初風)で編成され、第二水雷戦隊に所属して開戦を迎えた。第16駆逐隊はさらに第一小隊(雪風、時津風)、第二小隊(天津風、初風)で構成されていた。第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)は第8駆逐隊(朝潮、荒潮、大潮、満潮)、第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮、夏潮)、第16駆逐隊、第18駆逐隊(陽炎、不知火、《朝潮型駆逐艦:霞、霰》)から編制されており、15駆・16駆・18駆が陽炎型を主力としていた。だが第18駆逐隊は第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦阿武隈)の指揮下に属して南雲機動部隊警戒隊となり真珠湾攻撃に参加、16駆以下の二水戦各艦とは別行動であった。太平洋戦争における天津風の最初の任務は第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)空母「龍驤」航空隊の支援であった。第二水雷戦隊旗艦神通、初風と共に飛行機帰投線を構成し、12月8日のダバオ空襲を終えて帰投する龍驤航空隊を誘導している。11-12日、第2小隊(天津風、初風)は第五戦隊(重巡妙高、那智、羽黒)と合流してそれらの直衛艦となり、レガスピー攻略作戦を支援する。16日、パラオに帰投した。陸軍輸送船団を護衛してパラオを再出撃、12月20日のダバオ攻略作戦において姉妹艦の親潮と共に陸軍輸送船団の護衛を行った。上陸作戦が開始されると天津風は湾内に突入、内火艇を派遣してダバオ市南岸の桟橋一帯掌握を試みる。陸軍に先んじて海軍側で桟橋を確保しようという企図で、中国大陸ではよくある事例だったという。だが天津風内火艇は連合軍兵の反撃により危機に陥り、天津風が支援砲戦を開始したところ、ダバオ市内で爆発が発生する。流れ弾がガソリンタンクを破壊したと見られる。この上陸作戦で天津風は小型艇1隻を撃沈、桟橋付近の数十隻を拿捕という戦果を上げ一名の戦死者を出した。のちに陸軍側から抗議されたが、戦時中のため有耶無耶となった。ダバオ占領後は、メナド、ケンダリー、アンボン、クーパンの各攻略作戦に参加している。また各地区において、開戦と同時に拘束されていた在フィリピン邦人の救出も行った。1942年(昭和17年)2月26日、原艦長の回想によれば天津風はスラバヤ方面でオランダの病院船オプテンノールを臨検し拿捕する。ただしオランダ側の記録では、26日のオプテンノールはスラバヤ港に停泊中であった。2月27日、天津風以下第二水雷戦隊はスラバヤ沖海戦に参加して砲戦雷撃戦を行うが、第五戦隊(那智、羽黒)、第二水雷戦隊(神通、雪風、時津風、天津風、初風、江風、山風、潮、漣)、第四水雷戦隊(那珂、村雨、五月雨、夕立、春雨、朝雲、峯雲)各艦が発射した酸素魚雷はほとんど自爆してしまった。戦史叢書では『魚雷爆発尖が鋭敏だった事による早爆説』を採っているが、天津風水雷長は疾走中の魚雷同士が衝突して爆発した可能性を指摘している。戦闘後、天津風はオプテンノールをバンジャルマシン基地へ連行した(天津風水雷長の回想では3月9日拿捕)。これは天津風の独自判断ではなく、第四水雷戦隊・第2駆逐隊(村雨、夕立)が臨検していたオプテンノールへの護送を引き継いだだけである。後日、オプテンノールは日本海軍に編入され特設病院船天応丸(最終的に第二氷川丸)となった。村雨(天津風)によるオプテンノールの臨検・拿捕・抑留そのものは『病院船は戦闘の妨害をしてはならない/重大な事情があり必要なときは病院船を抑留することができる』ため、国際法には違反していないとみられる。その後天津風は対潜哨戒任務に従事し、3月3日、他艦と共同でアメリカの潜水艦パーチを砲撃により撃沈した。また、当時艦長であった原為一中佐は自著の中で、3月8日に米潜水艦シャークを撃沈したと記述している(アメリカ軍記録と異なる)。3月下旬、クリスマス島攻略作戦に参加。4月1日、物資揚陸中に軽巡那珂がアメリカの潜水艦シーウルフ ("USS Seawolf, SS-197") の雷撃で大破、天津風は軽巡名取に曳航される那珂を護衛して帰投した(日本軍のクリスマス島占領)。ミッドウェー作戦では攻略部隊を乗せた輸送船の護衛に当たり、5月28日にサイパンを出撃する。6月4日、アメリカ軍哨戒機の雷撃により輸送船1隻が小破したが、輸送船団が本格的にアメリカ軍と交戦することはなかった。6月13日、二水戦(神通、初風、雪風、天津風、時津風)はトラックを発ち、21日横須賀へ帰投している。8月1日、第16駆逐隊司令は渋谷大佐から荘司喜一郎大佐に交代した。8月7日、アメリカ軍はフロリダ諸島とガダルカナル島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いがはじまった。8月11日、天津風は日本本土を出港してソロモン方面へ進出した。第二次ソロモン海戦では、空母龍驤、利根型重巡洋艦利根、姉妹艦の時津風と共に機動部隊支隊(陽動部隊)を編制、8月24日に第三艦隊本隊より分離してガダルカナル島へ向かう。同日、龍驤が米空母サラトガ艦載機の攻撃により沈没した。天津風は支隊指揮官(第八戦隊司令官原忠一少将)より龍驤曳航を下令されていたが浸水により実施できなかった。支隊各艦は龍驤乗組員と不時着機搭乗員の救助を行った。10月11日-12日のサボ島沖海戦時、第16駆逐隊(天津風、雪風)はヌデニ島のグラシオサ湾(サンタクルーズ諸島)を偵察してり、同海戦には参加しなかった。10月24日、南太平洋海戦に参加。第三艦隊司令長官南雲忠一中将指揮下の機動部隊本隊(第一航空戦隊《翔鶴、瑞鶴、瑞鳳》、重巡《熊野》、第4駆逐隊《嵐、舞風》、第16駆逐隊《雪風、初風、時津風、天津風》、第17駆逐隊《浜風》、第61駆逐隊《照月》)を編成。天津風は空母翔鶴の護衛として活動し、不時着した機体から搭乗員13名を救助した。11月12日、天津風は第十一戦隊司令官阿部弘毅少将の指揮下、挺身攻撃隊(第十一戦隊《比叡、霧島》、軽巡洋艦《長良》、第6駆逐隊《暁、雷、電》、第16駆逐隊《雪風、天津風》、第61駆逐隊《照月》、第四水雷戦隊〔旗艦《朝雲》、第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》、第27駆逐隊《時雨、白露、夕暮》〕)はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地砲撃のため出動する。後方警戒に第27駆逐隊を残してルンガ泊地への突入を企図したが、アメリカ軍巡洋艦部隊に迎撃されてしまう。大混戦となった第三次ソロモン海戦第一夜戦では、雷撃により少なくとも駆逐艦バートンを撃沈した。続いて探照灯を照射して米艦隊を砲撃したが、逆に目標とされて被弾。第二缶室に被弾・浸水して左舷に14度傾斜、艦上部構造物にも多数の命中弾があり、戦死者45名、負傷者31名を出した。この際、舵故障を起こすも応急人力操舵で鉄底海峡からの離脱に成功している。司令部からは沈没したと思われており、艦隊と合流すると祝福の通信があったという。一連の戦闘で天津風も砲弾151発(残745発)、魚雷16本(残0本)を発射し、巡洋艦1隻・輸送船1隻轟沈、巡洋艦1隻・魚雷艇1隻大破確実を報告した。トラックに帰投後は工作艦明石に接舷して応急修理を行なったのち、単艦で日本本土へ帰投。12月20日、呉軍港に帰還し翌年1月まで呉工廠で修理が行われた。1943年(昭和18年)1月10日、第16駆逐隊僚艦初風、時津風は第6次ガダルカナル島輸送作戦に参加したが、アメリカ軍魚雷艇の襲撃で姉妹艦の初風が大破、長期修理となった。2月4-5日、天津風と重巡鈴谷は内地を出撃、2月10日にトラック諸島へ進出した。以降はトラックを中心に各地への船団護衛に従事した。2月15日、天津風と第17駆逐隊の姉妹艦浦風は空母瑞鳳飛行機隊基地員180名と各種物資をパプアニューギニアのウェワクへ輸送すべくトラック泊地を出発、17日に到着して任務を終えた。帰路、2隻および救難船兼曳船雄島は、1月24日にウエワクでアメリカの潜水艦ワフー ("USS Wahoo, SS-238")の雷撃で大破した駆逐艦春雨をトラック諸島まで曳航することになった。19日、天津風と春雨を結ぶ曳航索が切断され、春雨曳航は浦風が担当することになった。21日、悪天候により春雨の艦橋部より前部が分断されて水中につかり、船体切断を余儀なくされる。23日、4隻はトラック泊地に到着し、春雨は工作艦明石による修理を受けた。3月3日、ビスマルク海海戦で16駆姉妹艦の時津風が沈没した。3月31日、第17駆逐隊谷風と共に南東方面部隊に編入された。その間ハンサ、ウエワク、パラオへの輸送任務に従事、同作戦では浦風と行動を共にする事が多かった。この間の5月1日、第16駆逐隊司令は荘司大佐(5月20日附で軽巡川内艦長)から鳥居威美大佐に交代した。7月下旬、天津風、浦風は重巡青葉、給糧艦伊良湖を護衛して内地へ帰投する。8月1日、4隻は呉に到着した。整備、補給、乗組員の休養を行う。8月17日、主力部隊(戦艦3隻《大和、長門、扶桑》、空母《大鷹》 、巡洋艦3隻《愛宕、高雄、能代》、駆逐艦部隊《涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風》)として呉を出撃し、23日トラックへ進出。9月、第16駆逐隊(天津風、初風)は、第三水雷戦隊、第10駆逐隊、第17駆逐隊(磯風、松風《臨時編入》)と共にコロンバンガラ島守備隊救出作戦(「セ」号作戦)を支援する。11月1日、軽巡阿賀野(第十戦隊旗艦)、初風、若月、涼月、長波等は第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)の基地物件をラバウルへ輸送した。11月2日、天津風は駆逐艦島風、漣と共に油槽船日章丸、日栄丸を護衛してトラックを出発、ラバウルへ向かった。だが日章丸は空襲により損傷、島風は日栄丸を護衛してラバウルへ向かった。天津風、日章丸はトラックへ戻った。この時ラバウル方面ではブーゲンビル島沖海戦が生起、軽巡川内が沈没し十戦隊からは初風が沈没した。第16駆逐隊は2隻(天津風、雪風)に減少した。12月3日、軽空母千歳、第16駆逐隊(天津風、雪風)は第三艦隊より海上護衛総部隊へ臨時編入され、附属部隊となった。12月6日附で第16駆逐隊司令は鳥居大佐から古川文次大佐に交代。12月7日、3隻(千歳、天津風、雪風)は伊良湖、靖国丸を護衛してトラック泊地を出発、14日に横須賀へ帰投した。1944年(昭和19年)1月11日門司を出港、千歳、天津風、雪風は『ヒ31船団』(御宝山丸、厳島丸、北陸丸、建川丸)を護衛しシンガポールに向かう。天津風には第16駆逐隊司令古川文次大佐が乗艦していた。1月16日夕刻、南シナ海で浮上していたアメリカの潜水艦レッドフィン ("USS Redfin, SS/SSR/AGSS-272") を発見した。天津風は単艦で追撃・砲撃を行うも、船団護衛に戻ろうと左に転舵したところレッドフィンの雷撃に遭った。被雷地点。魚雷1本が左舷1番煙突直下に命中して第一罐室は全滅、荒れた天候のため前後に船体切断、艦橋を含む前部船体を喪失し、艦後部は応急処置に成功して沈没を免れたが後部缶室に浸水したため、残り1基のボイラーも停止して航行不能となる。古川大佐を含む船体前部乗組員34名は船体後部へ泳いで合流しようとしたが、水雷長・航海長・下士官1名以外行方不明となり田中正雄艦長は切断前に後部へ移動しており無事だった。戦死者は86名(第16駆逐隊司令、砲術長、便乗者含む)。天津風は直ちに救援緊急電を発信したが、艦橋を失って海図がないため被雷位置が100浬ずれており、友軍捜索機に発見されなかった。一週間ほど漂流。やむを得ず天津風より電波を発射して高雄市-マニラ-サイゴン無線所による方位測定をおこない、1月23日になって第705海軍航空隊所属の一式陸上攻撃機に『後部』を発見される。航空隊の誘導により若竹型駆逐艦朝顔、第十九号駆潜艇が到着し、朝顔の曳航によりサンジャックを経由して1月30日サイゴンに入港した。3月31日をもって第16駆逐隊は解隊、雪風は陽炎型(不知火型)4隻(浦風、磯風、浜風、谷風)編制の第17駆逐隊に編入された。天津風は11月8日まで同地で応急修理に従事した。天津風の修理中に生起したマリアナ沖海戦・レイテ沖海戦・多号作戦で日本海軍は事実上壊滅し、不知火型の姉妹艦も3隻(雪風、磯風、浜風)を残すのみとなっていた。11月15日シンガポールへ回航、第101工作部で1945年(昭和20年)1月まで修理を行う。修理内容は切断箇所から先に仮艦首を建造・装着してその上に仮設の操舵艦橋と前部マストが設置された。これにより後部主砲2基の戦闘能力を取戻し、さらに13mm単装機銃3門と25mm単装機銃2門を増設、主ボイラー1基の復旧により20ノット強の速力が出せるようになった。その一方で本来の艦橋を喪失した事で、射撃指揮装置となる方位盤が無い為に砲側で照準・射撃を行う他無く、実際の砲撃力は4分の1以下と見るべきであった。また、水測兵器も使えず目視に依る見張に頼るしかなくなり、爆雷も全くの目算で投下するより他なかった。応急修理後の船型は第一罐室以前を失った為に第一煙突後部にあった魚雷発射管のところに艦橋を仮設、そのすぐ前方が仮艦首となり全長は72.4mとなった。この応急艦首は15ノットで航行していても30ノットのような凄い艦首波が発生する錯覚効果を産み、これに依り的針・的速を見誤らせる効果が起り、後に潜水艦の雷撃が回避運動を行う必要が無い程前方を通過する事が何度も起った。日本海軍は高性能の機関を搭載した天津風の本国修理を決定し、既に艦首と罐が舞鶴海軍工廠で製造中との連絡が入る。第十方面艦隊司令長官福留繁中将は天津風が日本に辿りつけるか懸念してシンガポールに残ることを薦めたが、新たに就任した森田艦長は内地での修理を決意した。1945年(昭和20年)3月17日、第一南遣艦隊の命令により南号作戦の一環として、『ヒ88J船団』(輸送船7隻、護衛艦7隻)に加わっての本国帰投が決定する。3月19日シンガポールを出港、『ヒ88J船団』を護衛し内地に向かった。途中、B-24リベーレーター爆撃機やB-25ミッチェル爆撃機の度重なる空襲、米潜水艦の襲撃によりヒ88J船団は全滅した。天津風は何度もアメリカ軍に襲撃され、とくに3月30日の海南島停泊中にB-25ミッチェル12機から反跳爆撃を受けた際には1発が命中(不発)、機銃掃射により1名戦死、1名重傷という損害を出した。4月2日、香港に入港、新たに編成された『ホモ03船団』に加わる。3日、B-24リベレーター50機の爆撃により択捉型海防艦満珠が大破着底、ホモ03船団は出港前から損害をこうむった。4月4日、天津風は満珠から25mm単装機銃2基、13mm単装機銃1基を貰い受けて応急装備すると、夕刻になってから香港を出港した。4月5日、輸送船甲子丸(乗員乗客約540名)が爆撃を受けて沈没、天津風と第二十号駆潜艇は約260名を救助し、第二十号駆潜艇は救助者を乗せて香港に避退した。第二東海丸は既に沈没し、天津風は無線機の故障で僚艦と連絡もとれず単艦で日本へ向かった。天津風砲術長によれば「分離行動は各個撃破され不利」と第十一海防隊司令(海防艦1号、134号)に発信したが、2隻は天津風を置いて先行した。だがアメリカ軍第345爆撃大隊(B-25ミッチェル62機)はB-24の蝕接により天津風を仕留めようと態勢を整えていた。4月6日午前11時30分、アモイ沖にて第345爆撃大隊第501中隊が天津風より20浬先行していた「第一号海防艦」と「第百三十四号海防艦」を相次いで撃沈、続いて第500中隊が周囲を索敵し天津風を発見した。第500中隊第1小隊B-25ミッチェル3機は反跳爆撃で天津風に爆弾1発命中を主張するが実際には命中せず、逆に3番機が撃墜・墜落した。続く第498中隊(1機喪失)の反跳爆撃により500ポンド爆弾3発が船体後部に命中、主砲は全て破壊され、無線機・機関・舵は故障、火災が発生して左舷に傾斜した。アメリカ軍の記録によると、4月6日の戦闘で天津風は合計18機のB-25と交戦、計3機を撃墜し2機に損傷を与えた。天津風は一時は弾薬庫付近の火災により危機に陥るが、浸水により鎮火に成功、人力操舵により速力6ノット発揮可能となり、アモイまで自力航行した。6日午後7時30分、天津風はアモイ湾内で機関停止したが機雷源通過後に推進機関損傷により機関再始動に失敗(潤滑油に海水が混ざったため)、また錨鎖もなく潮流に流されて午後8時20分浅瀬に座礁した。翌4月7日、200トン警備艇により曳航作業を試みるが失敗し、その後に波浪に流され離礁するもアモイ島南岸に再度座礁した。天津風の森田艦長は根拠地隊司令部と打ち合わせのため負傷乗組員と共に陸上へ向かい、砲術長が指揮をとることになる。すると略奪目的の匪賊(重慶軍とも)に襲撃され、撃退するも1名が戦死した。もう一度曳航を試みたが失敗。ここに至り天津風の機能回復は絶望的となり、廈門特別根拠地隊の協力を得て物資・武装を揚陸、乗組員は退去した。4月8日、天津風の乗組員の退去が完了。4月10日、軍艦旗降下の後、歴戦の天津風は爆雷の自爆により爆破処分された。生存者は161名、戦死者39名(便乗者3名含む)。駆逐艦天津風は8月10日附で帝国驅逐艦籍不知火型駆逐艦のそれぞれから除籍された。

出典:wikipedia

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