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イルティッシュ号投降事件

イルティッシュ号投降事件(イルティッシュごうとうこうじけん)は、日本海海戦で損傷を受けたロシアのバルチック艦隊の特務艦イルティッシュ号が航行不能となり、1905年(明治38年)5月28日午後2時頃、島根県那賀郡都濃村和木(現・江津市和木町)で投降した事件。排水量15,000トン、全長180m、全幅17m、最大速度10.5ノット。兵装として8つの小口径砲を装備していた。1903年にドイツ海軍の石炭運送船ベリギヤ号(7,500トン)としてドイツで建造され、1904年にロシアがドイツより購入。200万ルーブルをかけて改装され、石炭艙は各種積荷の貯蔵のため乾燥室と石炭室に分割され、西シベリアを流れるオビ川の支流イルティッシュ川から命名された。艦長のエルゴミィシエフ公爵・副長のシュミット中尉以下、251名(士官17名、准士官6名、水兵228名)、投降時の乗組員は235名で、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、タタール、ドイツ、ラトビア、エストニア等の出身者で構成されていた。なかでもヴォルガ川支流のオカ川、カマ川流域の艀で働く12〜13歳の少年や退役軍人が全体の62%を占めていた。当直将校のグラフは事務長をしており、彼の航海日誌が出回り金塊騒動の元となった。日露戦争で、ロジェストウェンスキー中将を司令長官とするバルチック艦隊に加わることになり、出港準備を急ぎ石炭を積み込んだため積荷がバランスを崩して船体が破損、本隊から約2ヶ月遅れて12月24日にバルト海のリバウ軍港で、石炭8,000トン、硝化綿15,000プード、ピロキシン3,200プード、弾丸、水雷、食料、雄牛数頭を積荷し、8,000ポンドの海軍小切手も渡され出港した。この時点で本隊はマダガスカル島に停泊していた。本隊に合流後、1905年5月27日の日本海海戦に参戦。船体の3ヶ所(第二ハッチ右側、甲板上の社交室、艦前方)に被弾し浸水。羅針盤も故障、蒸気釜も爆発した。艦長はウラジオストク港にたどり着くことを目指し日本沿岸を北上することにした。5月28日午前10時頃、和木の真島沖にたどり着く。さらに北上し、嘉久志(現・江津市嘉久志町)の沖まで来たところで、江の川の河口で時化を避けて並ぶ漁船を発見した。数日前から強い西風が吹いていた和木の浜には100隻近い漁船が時化を避けて並んでいた。これを戦艦と間違えたイルティッシュ号は後戻りした。しかし艦の損傷による浸水は激しく、再び和木の真島沖に戻った午後2時過ぎには航行不能となった。このため、陸地から2海里の地点に停泊して6隻のボートを下ろし、重傷者から順番に上陸させることにした。ボートの舳先には、B旗(我は激しく攻撃を受け)・N旗(援助を乞う)・白旗・赤十字旗・ロシアの国旗を掲げて投降することとなった。イルティッシュ号が姿を現した都濃村和木では大騒動となっていたが、白旗を確認すると住民たちは安心し、救助活動にとりかかった。しかし、折からの強い西風に煽られボートは岩に乗り上げて転覆し、ロシア兵は海に投げ出された。都濃村和木の男達は荒海へ飛び込みボートを岸へと曳航した。地元では、当初、温泉津港と浜田港を結ぶ航路があり、海が時化ると欠航するなど不定期だったため、この時もゆっくりと北上する大きな船を見た人々は汽船か病院船と思っていた。午後6時には、ゴムイセフ艦長以下乗組員235名全員の上陸が完了し、その夜は住民から飲食を含めた保護を受けた。 また負傷者53名(うち重傷者13名)は、和木と嘉久志の両小学校に収容され手当てを受けた。住民による救助活動と、炊き出しを受けたロシア兵には涙を流すものもあった。翌5月29日未明にイルティッシュ号は沈没。同日朝、乗組員は浜田の歩兵第21連隊へ戦時捕虜として引き渡された。翌年(1906年)から、戦争等による中断をはさみながらも、和木住民によってロシア兵を偲んだロシア祭りが行われている。江津市和木町には、イルティッシュ号の乗組員の慰霊碑が建てられており、遺留品などは和木公民館に保管されている。また2005年(平成17年)5月29日、救助から100年を記念した式典が江津市内で開催された。また難波利三により『イルティッシュ号の来た日』として小説化されている。第72回(1974年下半期)直木賞候補作。沈没したイルティッシュ号には金塊が積まれていたのではないかという話があり、何度か引き揚げが試みられた。特に1959年(昭和34年)には大規模な引き揚げ作業が試みられたものの機雷を発見しただけに終わった。

出典:wikipedia

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