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白井胤治

白井 胤治(しらい たねはる、生没年不詳)は、戦国時代の武将、軍師。出家して浄三(じょうさん/じょうみ)と号したために、白井入道浄三という名でも知られている。出自不明で、一説には利胤・親胤・胤富の千葉氏三代に仕えたとされる。別説では三好三人衆の三好長逸に軍師として雇われ、後に修行のため関東に下ったという。永禄8年(1565年)11月、上杉謙信は三国峠を越え関東で越冬。翌2月北条方の小田氏治の領する常陸小田原城を陥落させ高城氏の領する下総小金城へ攻め入った後、3月上旬に1万5千の大軍で北条方の原胤貞が治める下総の臼井城を包囲した。謙信はここを拠点に里見氏と連携し、印旛沼や利根川水運を手に入れようと考えていた。臼井城にはわずか2千の兵しかいなかったという。原胤貞は旧主千葉氏、後北条氏に援軍を依頼したが、しかし千葉氏は臼井城ではなく本城である本佐倉城を優先し少勢しか援軍を送らなかった。後北条氏も里見氏との戦いの最中であり援軍は松田康郷ら150騎にすぎなかった。上杉兵の波状攻撃により3月20日には濠一重を残すばかりとなり、上杉家重臣・長尾景長は下野足利の千手院へ「落居程有るべからず候」と書簡している。謙信が臼井城を囲んだとき、白井浄三がたまたま在城していたことが情勢を変えた。落城寸前、原胤貞より指揮を託された浄三は「このたび大敵発向すといえども、さらに恐れるべからず。敵陣の上に立つ気は、いずれも殺気にして囚老にして消える。味方の陣中に立つ軍気はみな律儀に王相に消える間、敵は敗軍疑いなし」(『北条記』)と兵を鼓舞した。浄三は兵の士気を高め好機をひたすら待った。3月26日、ついに謙信は総攻撃を命じた。『北条記』は、その言葉を「これほどの小城、何程の事かあるべき。唯一攻めに揉み落とせ」と記している。これに対し浄三は、城門を全開にし城兵による総攻撃を命じたのである。まず原大蔵丞と高城胤辰の先陣が突入し、疲れが見えたところで二陣の平山・酒井が錐で穴を空けるがごとく道をつくり、松田康郷・佐久間率いる三陣が敵本営のわずかなところにまで迫った。特に三陣の松田康郷の活躍すさまじく「赤鬼」というあだ名に恥じぬ鬼神のはたらきであった。これにより上杉軍はいったん撤退を余儀なくされる。翌日、謙信は敵が勢いに乗って攻め込んでくると考え本陣で待ち受けたが、いっこうに攻め込んでこない。いぶかしがる謙信に海野隼人正は「本日は千悔日と言い、先に行動を起こすと敗れるという日です。敵城には白井浄三という名軍師がおり、おそらくその指図でしょう」と伝えた。業を煮やした謙信は逆に出陣を決意。部下に城攻めを命じた。先鋒の長尾顕長(長尾当長の間違いと思われる)は城の逆茂木を壊し濠を越え大手門まで迫ったが、これを見越していた浄三に城壁を崩され兵士数百名を一瞬で下敷きにされてしまう。驚いた謙信は全軍を撤退させようとしたが、勝機と見た浄三がそれを許さず城兵に総攻撃を命じたのである。雪崩のように崩れ落ちる上杉の軍勢を北条長国や新発田治長が良くつなぎ止め撤退戦を行うが、それでもかなり戦死者が出た。後北条方の古河公方足利義氏などは上杉の死傷者は5千人以上と語っている。謙信のあまりの惨敗のためか『謙信公御年譜』(謙信の伝記)にも記録されなかったほどである。 浄三のその後は不明であり、ただ次の伝説が残るのみである。 慶長16年(1611年)、徳川家康が豊臣秀頼との会見を望んだ際、淀殿は会見の正否を白井竜伯という軍師に占わせた。軍師は「否」との結果を出したが家老の片桐且元が会見を行うべきとの結論に書き換えてしまった。秀頼と会見した家康は、りっぱな武将に成長した秀頼を恐れ豊臣をつぶすことを決意したという。浄三は後に豊臣家に仕えたという伝承があり、竜伯はその子孫の可能性がある。

出典:wikipedia

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