神之池(ごうのいけ)は、茨城県神栖市にある池である。面積44ha、平均水深1.9m、最大水深3.5m。一帯は神之池緑地公園として整備されており、神栖市民の憩いの場である。また神栖市役所が公園に隣接している。かつては現在の7倍もの面積があったが、周辺の工業用地造成のために1969年に埋め立てられた。緑地公園では毎年、4月上旬にかみす桜まつり、9月中旬には花火大会が開催され、多くの観光客で賑わっている。かつてはコイ、フナ、ウナギ、ボラ、エビなどが多数生息し、漁業も活発であったが、現在はブラックバスやブルーギルなどが多く、これらの趣味的な釣りを楽しむ人は多いものの、事業としての漁業は行なわれていない。緑地公園として整備されている公園周辺は、ウォーキングコースのほかに運動施設等が数多くある。神之池は、約1,400〜1,200年前に海面が下降して周辺砂丘の造成や土砂の堆積によって独立して出来た、かつて周囲2里余(約8km)、面積292町歩余(約289ha)のおむすび型に近い円形の広大な淡水池であった。戦後の高度経済成長期に、鹿島臨海工業地帯を建設する国家プロジェクトとして進められた鹿島開発を境に、神之池の様相は大きく異なる。そして今の姿は、鹿島開発によってその大部分が埋め立てられてしまったものである。奈良時代に編纂された『常陸国風土記』には、神之池(寒田池)に関する記述が残されており、この当時からコイやフナが棲み、人里の田はこの池のあるおかげで潤っていたことがわかる。江戸から明治・大正・昭和初期における神之池では、コイ・フナ・ウナギ・エビなどの魚類や、雁・カモなどの水鳥が相当多く獲れた他、藻草・葦・蒲など水生植物が自生していた。それらが人々に自然豊かな恵みとして与えていたばかりでなく、或は用水池として周辺村々の水田の貴重な灌漑用水の水源として必要不可欠なものであった。神之池と利根川の間にある各村々は、神之池に取水門を作り用水路を掘って水田に水を引いていたが、古くから水騒動が繰り返されており、1886年(明治19年)の夏、空梅雨による大干ばつで神之池の水位が低下し、奥野谷村と知手村が日川村へ引く用水路を途中せき止めて文字どおり「我田引水」したことがきっかけで、「神の池用水水路妨害事件」として事件が起き、日川村が2村を訴えた裁判がその2年後まで続いている。また、1938年(昭和13年)7月では大降雨によって神之池は増水氾濫して、地層の低い奥野谷村では水位の低下を図ろうと他の村々に無断で神之池水門を開いて利根川に排水したために濁水が溝口村・石神村・芝崎村・高浜村・木崎村・田畑村の周辺6村に氾濫し、村民たちが神之池水門に殺到し村民どうしの対立する事件が起こっている。しかしながら、地元の民から「砂丘の中のオアシス」と呼ぶように親しまれ、湖岸は青松と白い砂丘に囲われ、静かな水面には漁をする小舟が浮かぶ風光明媚なたたずまいを見せていたという。昭和30年代後半より高度経済成長期に入り、1960年(昭和35年)に当時の茨城県知事岩上二郎は「鹿島開発構想試案」をまとめ、1962年(昭和37年)4月に、鹿島臨海工業地帯開発組合が茨城県と鹿島・神栖・波崎の地元3町村によって設置されて鹿島開発がスタートし、鹿島臨海工業地帯の港湾と工業用地として神之池の埋立が計画された。同年11月には鹿島臨海工業地帯の核となる鹿島港の起工式があり、1964年(昭和39年)6月、神栖村議会で鹿島港湾南航路にかかる神之池の埋立計画に同意することが決議された。この頃の神之池は、工業技術院地質調査所の報告書により、湖岸線の長さ6.6km、平均水深0.8m、最大水深1.82m、湖面面積3.065km²(306.5ha)あったとされている。1967年(昭和42年)4月には埋立工事の起工式が執り行われ、公有水面面積296万mのうち45万mを遮断緑地を含む農業用水利用調整池として残し、それ以外の神之池を埋め立てる事業が進められてゆく。1969年(昭和44年)には神之池を二分する締切堤防が築かれ(堤防上に鹿島臨海鉄道が敷かれる)、海岸寄りの池の部分の埋め立てが始められた。鹿島港を掘り込む際に発生する大量の土砂が神之池の埋立に利用されることになり、こうして一千年以上の歴史を持つ神之池は約7分の1を残して埋め立てられ、周辺地域の人々のシンボルであったその姿を変えて現在の姿となっている。埋め立てられた地域は、現在の花王鹿島工場、DIC鹿島工場、JSP鹿島工場、三菱化学鹿島工場の一部などに相当する。池周辺は住民の憩いの場として緑地公園に整備された。
出典:wikipedia
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