願泉寺(がんせんじ)は、大阪府貝塚市にある浄土真宗本願寺派の寺院である。本尊は阿弥陀如来。起源は行基が建てたと伝えられる庵寺から始まり、本尊の阿弥陀如来立像も行基作とされる。応仁年間に浄土真宗本願寺の蓮如が立ち寄り教義を説いたことから、天文14年(1545年)に根来寺より卜半斎了珍を住持に招き、同19年に庵寺を再興し、同24年に石山本願寺下の寺内町として取り立てられた。天正11年(1583年)7月、石山合戦で石山本願寺から紀伊国の鷺森御坊に撤退していた顕如を迎え、同13年8月に天満本願寺へ移転するまでの約2年間、本願寺教団の拠点となった。慶長12年(1607年)に「願泉寺」の寺号を准如から授けられたが、願泉寺は同7年の本願寺東西分裂以降も江戸時代を通じて東西兼帯であり、両本山歴代門主の絵像を蔵している。明治以降も東西両本願寺に属していたが、昭和26年(1951年)の宗教法人法施行によって本願寺派寺院となり、現在に至っている。卜半家二代の了閑は慶長15年(1610年)に住民の反発を退けて徳川家康から寺内諸役免除の黒印状を下賜され、慶応元年(1865年)に大坂町奉行支配となるまで250年以上に渡って住持の卜半家が「貝塚寺内町」の領主となって自治を行った。ただし、戦力を保持するような寺内町本来の自治では当然なく、有力寺院の住持と年寄衆で町政を運営する在郷町という位置づけであった。町の出入口に置かれた、願泉寺の門徒ではなく岸和田藩の足軽が詰める番所は、目と鼻の先に城下町を構え、貝塚寺内に隣接する農村を藩領に持つ岸和田藩の監視機関と化していた。なお、願泉寺の報恩講は大規模なもので、岸和田藩が願泉寺への参詣を控えるよう領民に触書を出して警戒するほどであった。本堂、表門などの建造物は国の重要文化財に指定されている。現在の本堂は寛文3年(1663年)の建立で、老朽化のため平成16年(2004年)9月から同23年3月まで半解体修理が行われていた。(以下は重要文化財の附(つけたり)指定)
出典:wikipedia
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