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ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ

ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ(, 1170年頃 - 1230年頃)は、ドイツの中高ドイツ語叙情詩の詩人。ヴァルターの本名は記録を探しても見つからない。ただ一つの例外は、旅先でのパッサウ司教ヴォルフガーの勘定書に「Walthero cantori de Vogelweide pro pellicio v solidos longos(フォーゲルヴァイデの歌手ヴァルターへ 毛皮のコート代 5シリング)」と書かれていたことである。彼に関しての主な情報源というと、彼自身の書いた詩と、随所に見られる同時代のミンネゼンガー達からの影響である。hêr(Herr, Sir)という肩書きから、彼が高貴な生まれだったことはわかるが、城や村の地名ではなく、「フォーゲルヴァイデ」(鳥の放牧を意味する。ラテン語でaviarium。鳥を捕まえておくところ)という名前を名乗ったことから、上流貴族ではなかったと思われる。とはいえ、貴族ではない自由耕作者とは比べものにならない富と地位を持つ勤務貴族、あるいは大領主のつつましやかな随員であったのかも知れない。ヴァルターの出生地は現在に至っても不明で、書かれた文書が少ないことから、正確に割り出すことは不可能である。名前も手掛かりにはなるかどうか微妙である。中世において、城や町の周辺に「フォーゲルヴァイデ」と呼ばれる場所は多く、そこは鷹狩りのための鷹や、家々のための鳴き鳥を捕まえておくところだった。この点から、ヴァルターが広い地域で活動するのに、そういう名前を名乗っていたとは考えられない。なぜかというと、その名前が指し示すものはあまりに漠然としていて、役に立たないからである(普通、主人と旅する他の上流貴族や詩人は、彼らが何者か明らかにするため、所有するものか出身地を名乗っていた)。つまり、「フォーゲルヴァイデ」という名前は、その名前がその地域に一つしかない、あるいは比喩的に誰のことを言っているのかを理解してもらえる、狭い範囲でしか通じないわけである。(12世紀から13世紀の詩人はステージ・ネームを使っていたが、ミンネゼンガーは書類にサインする時は、原則として、彼らの高貴なファミリー・ネームを書いていたことが知られている)。1974年、ヘルムート・ホルネーはRappottensteinの土地台帳の中の1556年の記載に、ある農家のことが「Vogelweidhof」と書かれていることを突き止めた。この時期、そのあたりはAmt Traunsteinに属していて、現在はシェーンバッハ(低地オーストリアのヴァルトフィアテル)という町の中にある。その存在は1911年にアロイス・プレッサーも言及していたが、正確な位置がどこかわからなかったので、注釈は記していなかった。ホルネーは、今なお残っているWeidという農家がVogelweidhofであることを立証し、ヴァルターがヴァルトフィアテルの生まれであるという説を打ち出した。彼はそのことを、1974年に出版した『800 Jahre Traunstein(800年のトラウンシュタイン)』の中に書き、ヴァルターが「Ze ôsterriche lernt ich singen unde sagen(私は歌うことと話すことを学んだ)」と、当時低地オーストリアとウィーンのみでしか使われていなかったオーストリア語で話していたことも指摘した。ある言い伝えでは、10人の老巨匠の一人であるヴァルターはボヘミア出身の地主とされているが、これもヴァルターのヴァルトフィアテル出身説を否定するものではない。なぜなら中世、ヴァルトフィアテルは時期によって「対ボヘミア」の象徴だったからだ。この説に対して、ベルント・テュム(ドイツ、カールスルーエ大学)は1977年と1981年に強力な援護をした。テュムはヴァルターの作品、特に「老年のエレジー」として知られる、十字軍の呼びかけを歌った詩の内容を分析し、ヴァルターの出生地は当時の旅行ルートから遠く離れたところにあり、その地域の土地がまだ空き地だったと推論した。ヴァルターが自分の悲しみを「Bereitet ist daz velt, verhouwen ist der walt(野は燃やされ、木は伐られた)」と吐露したことが、その根拠だった。それは、もはやヴァルトフィアテルには彼が住む場所も家来もいなくなったことを示唆している。さらに1987年、ヴァルター・クロムファーと図書館員シャーロッテ・ツィーグラーが、ヴァルターがヴァルトフィアテルで生まれたに違いないと主張した。2人の研究の出発点となったのは「ヴァルター」という言葉である。それがどうして彼の出生地と関係あるのかという疑問に対して、クロムファーは17世紀にツヴェットル修道院の修道士達が描いた古地図を見せて反論した。その地図には「Walthers」という村と「Vogelwaidt」という野原が載っていて、関連のある家がその村に属することを示していた。やがて村はさびれてしまったようで、地図の印はくりぬかれ、書き直されていた。クロムファーはこの地域の所有権が誰か、全体から部分的に割り出すことに成功し、それが「ヴァルター」という(そう珍しい名前ではないが)クリスチャン・ネームを持つ者であることを突き止めた。これらの説に反して、フランツ・プファイファーはヴァルターが南チロルのヴィップ渓谷の生まれであると主張した。イザルコ川のシュテルツィングの小さな町からそう離れていないところで、そこには「Vorder- und Hintervogelweide」と呼ばれる森がある、というのがその根拠だった。しかし、これはヴァルターが何十年も生まれ故郷を訪れることがかなわなかったという事実と反する。当時のチロルは、何人かの有名なミンネゼンガーたちの地元で、バーベンベルク家のオーストリア公フリードリヒ1世のウィーンの宮廷は詩と美術の中心となっていた。ヴァルターは若い頃、有名な親方ラインマル・フォン・ハーゲナウの下で修行した。ラインマルの死に関して、後にヴァルターは美しい2つの叙情詩を書いて、哀悼の意を表している。続いてヴァルターはフリードリヒ1世の庇護を受けた。彼にとっては最初のパトロンである。この時期は彼の人生の中で最も幸せだった時期で、彼は愉快でのびのびした恋愛叙情詩を生み出したが、1198年のフリードリヒ1世の死でそれは終わってしまった。その後のヴァルターはパトロンを求めて宮廷から宮廷へ渡り歩き、自分を「ペテン師人生」と客相手の恥辱から救ってくれたらと願いながら宿とパンのために歌った。ヴァルターはどうすればこの職業で物質的成功をおさめるかなど考えたこともなかった。一方で、彼に対する周りの批判と態度は容赦なかった。気前の良いパトロンとの接触がかなわなかった時など、その手下たちは彼に対して、不快なものを追い払うような扱いをすることもしばしばあった。このようにして、彼は寛大だったカリンシア公爵ベルンハルト(1202年 - 1256年)の宮廷からも追い出された。テューリンゲン方伯ヘルマン1世にも仕え、1207年のヴァルトブルク城の歌合戦にもヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハと共に参加していたが、ここで騒々しい雇い人のために苦い経験をし、以降は耳の悪い人達は遠ざけるよう注意するようになった。マイセン辺境伯ディートリヒの宮廷では、彼の奉仕に対して金も称賛も得られなかったことに不満を訴えた。ところでヴァルターは確固たる政見の持ち主であった。そのことで、文学における評価とは別に、ヴァルターはドイツ史の中で重要な存在意義を持っている。神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の死が、神聖ローマ帝国とローマ教皇間に決定的な亀裂をもたらしたその時、ヴァルターはドイツの独立と統一を求める側に立って、猛烈な論争の渦中にその身を投じたのだ。彼の宗教詩はカトリック教会への忠誠の証ではあったが、教皇に対しては死ぬまで痛烈な攻撃を続けた。その痛烈さを正当化しうるのは、ひとえにその愛国心の強さのみだった。彼が政治詩を書いたのは、1198年のウィーンが最初で、王子達の破壊的な野心に対抗して、ドイツに向けてこう訴えた。「フィリップに皇帝の冠を、そして彼らに汝の平和をこれ以上乱さぬよう命じられよ」。9月8日、ヴァルターはマインツでのフィリップ(ハインリヒ6世の弟)のドイツ王戴冠式の場にいて、勝利が確実なものとなるまで彼を支持し続けた。しかし、1208年にフィリップが暗殺されると、フィリップと対抗していたヴェルフ家のオットーを言葉と歌で支持し、教皇の推すハインリヒ6世の息子フリードリヒに対抗した。ドイツにとってのオットー4世の有意義性が1212年のブーヴィーヌの戦いによってこなごなに打ち砕かれてしまうと、今度はフリードリヒ2世の擁立に転じ、教皇と王子達に対抗するドイツの主権の比類なき代弁者となった。やがて、ヴァルターの才能と帝国への熱意を新皇帝フリードリヒ2世が認めるにいたり、フランケン地方の小さな封土(「その価値は微々たるもの」と彼は不満だったが)を賜り、彼は長年欲していた定住の地を得ることができた。フリードリヒ2世はさらに彼を息子ハインリヒの家庭教師にすることで彼の名声を高めようとしたというが、これはいささか疑わしい。そんなことはありえそうになく、根拠とされるたった1つの詩もまったく別の解釈ができるからである。いずれにせよ、ヴァルターの活発な精神はフランケンに長く留まることに耐えられなかった。1217年にはウィーンに、1219年には第5回十字軍から帰還したレオポルト6世のところに移った。1224年にはヴュルツブルク近郊に封土を得て、そこに住んでいたと見られている。ヴァルターはドイツの王子達に1228年の第6回十字軍に参加するよう働きかけ、少なくともチロルあたりまで十字軍に随行した。美しく感傷的な詩の中で、彼は幼児期のことを思いだし、それに較べると今の生活は夢を見ているようだと、その境遇の変化を活写している。ヴァルターは1230年に亡くなり、遺体はヴュルツブルクに埋葬された。ある物語によれば、鳥達が毎日彼の墓で餌をついばむことになるようにとの遺言を残したと言われている。墓碑にはラテン語の銘が刻まれていたらしいが、その墓碑は消失し、1843年に新たに「Lusamgärtchen」(Lusamの庭)と呼ばれる記念碑が建てられた。現在はヴュルツブルクの2つの大きな教会の間の隅にある。また、ボルツァーノにも美しいヴァルターの像がある(1877年除幕)。ヴァルターの政治詩に対する歴史的な関心は高い。19世紀から20世紀初頭のドイツ人批評家達は、中世の愛国的な詩の中に、彼ら自身の帝国への憧れと教皇への嫌悪を反映させ、その功績を少なからず誇張したりもした。しかし一般的に、彼の詩でより永遠性があると考えられているのは、恋愛を扱った詩であり、それが今日の「我等が歌のマイスター」という称賛をもたらしたといえよう。もちろん、作品の出来にはムラがある。悪いものは、弟子たちの退屈な紋切り型な詩以上のものではない。逆に良いものは、自然で、魅力的で、流暢で、ライバルたちが真似しようとしてもできなかったほどである。彼の初期の詩は生きる喜びに、自然への情感に、愛への賛美に満ちている。大胆なことに、愛は高貴な生まれで身についたしきたりをも超越し、「女性」と「淑女」との優位性すら逆転する。彼の詩で最も美しいといわれる『菩提樹の下で("Under der linde")』は、どこにでもいる一人の少女の立場から歌われたものである。初期の喜びに溢れた詩の中にも、ある程度のシリアスさは見られたが、それは年を経るごとに顕著になっていく。宗教的で教訓的な詩が頻繁になってくるのだ。愛の賞賛は、政治不安に動揺してあやふやなものになってしまった道徳的規範への抗議に変わる。彼の姿勢は一貫して健全で良識があったと考えられている。十字軍の説教をする一方で、その同じ時期、信教の自由の美徳も訴えた。彼はこう言った。神を崇拝するという意味において、「キリスト教徒もユダヤ人も異教徒も皆同じだ」と。ヴァルターは「偽りの愛」を痛烈に非難し、一方で「愛は罪なり」と主張する人々を軽蔑した。禁欲的な規範と乱れきった道徳に満ちたその時代、彼は騎士道精神に鼓舞された信条を訴えたが、それと一致するものは、ありきたりなものですら存在しなかった。「Swer guotes wibes liebe hat Der schamt sich ieder missetat(良き女性を愛する者は、悪行によって恥を感じる)」。とにかくヴァルターの詩は、ただの芸術的天才ではなく、精力的で、情熱的で、大変に人間的かつ愛らしかった人物だったということを、我々に伝えてくれる。

出典:wikipedia

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