フォルクスワーゲン( )は、ドイツのニーダーザクセン州ヴォルフスブルクに本社を置く自動車メーカー。傘下の企業を合わせてフォルクスワーゲングループを構成する。フォルクスワーゲンは1937年設立となっているが、旧フォルクスワーゲン製造会社は第二次世界大戦前にナチス政権の国策企業として設立され、会社としては第二次世界大戦終戦後のイギリス軍管理下で改組されたもので、工場と製品設計のみを継承したかたちとなっている。現在では世界119ヶ所に工場を持つ。社名はドイツ語で「大衆車」を意味する。アドルフ・ヒトラーが1934年のベルリンモーターショウで提唱した国民車(フォルクスワーゲン)計画に従い、著名な自動車設計者であるフェルディナント・ポルシェによって、進歩的なメカニズムを備えた流線型のリアエンジン小型車が開発された。後のフォルクスワーゲン・タイプ1となる車である。1936年に最初の試作車を完成、1938年に発表された。当初ヒトラーはこの車を「フォルクスワーゲン(国民車)」と称していたが、最終的に1938年に、「(歓喜力行団の車)」と命名した。歓喜力行団とは、ドイツ労働戦線の一部局で労働者の余暇活動を活性化させる組織を指し、文字通り「ナチス政権下の国民車」としての意義を強調するものであった。生産のために1937年5月28日フォルクスワーゲン準備会社("Gesellschaft zur Vorbereitung des Deutschen Volkswagens GmbH" )が創立され、1938年9月16日フォルクスワーゲン製造会社("Volkswagenwerk GmbH" )と名称変更。この国民車の大量生産を期し、歓喜力行団の車を生産する街 ("Stadt des KdF-Wagens" )までもが新しく建設された。しかし1939年9月に第二次世界大戦が始まるとフォルクスワーゲン製造会社は軍需生産に移行、歓喜力行団の車をベースにしたキューベルワーゲン等の軍用車両を生産、民需のフォルクスワーゲンを生産することはなかった。フォルクスワーゲンを購入するために労働者は余暇活動組織「歓喜力行団」を通じて積立金を支払っていたのであるが、民需生産の中止により実際の納車はなされなかった。戦時中のフォルクスワーゲン製造会社の生産ラインにはポーランド、ウクライナ、ロシア、ベラルーシ、イスラエル、オランダ、フランス、オーストリアなど、近隣諸国からの約2万人の強制労働者や戦争捕虜、のちにはアウシュヴィッツ収容所の収容者が送り込まれ、過酷な労働を強いられ死に至る者もいた。設計者のフェルディナント・ポルシェもキューベルワーゲン、シュビムワーゲン以外にティーガーI戦車を含めた軍用車輌開発に従事していた。そのような情勢でフォルクスワーゲン計画は立ち消えた形になったのである。また、最近は高級SUVのトゥアレグや、Fセグメントに属する高級セダンであるフェートンなどを発売し、社名(車名)そのものの大衆車メーカーから、高級車も手がけるブランドへと変貌を図っている。第二次世界大戦の欧州戦がドイツの降伏によって終結すると、ドイツ全土は連合軍の占領下におかれた。KdF工場はソ連に接収され、やがて撤去されようとしていたが、重要性に気づいたイギリス軍が最終的に管理下においた。工場所在地の「KdF市」というナチスじみた地名も、近くにある城の名前に因んでヴォルフスブルクと改名された。フォルクスワーゲンにとっての幸運は、理解あるイギリス軍少佐のアイヴァン・ハースト(" 、1916年-2000年)が工場管理者となったことであった。ハーストはKdF車の将来性と、ドイツ人労働者の高い資質を見抜き、リーダーシップを取って、戦禍によって廃墟同然となった工場を復興させた。その結果、1945年中にはフォルクスワーゲン社が改組され、KdFも「フォルクスワーゲン・タイプ1」に車名を変更して生産を再開したのである。さらにハーストは占領軍の管理者という立場でありながら、品質管理や販売網・サービス網整備にまで意を払い、フォルクスワーゲンの礎を築いた。1947年からはオランダを皮切りに輸出も開始している。フォルクスワーゲン車は、戦後のアメリカ、イギリスの主要自動車メーカーからも調査の対象となったが、その進歩性・合理性を、保守的なデトロイトや英国の技術者たちは理解できなかった。英国メーカー各社の調査団は検討の結果「評価に値しない車」としてこれを看過した。フォードのトップであったヘンリー・フォード2世は、1948年末の連合国側関係者による検討会議で「フォルクスワーゲンは無価値と判断する」旨発言してこれを放擲する意見を表明し、連合国関係者はフォード2世の意見に同意した。このため、他国に設計・設備を収奪されるような事態に至らず、フォルクスワーゲンはドイツの民族系企業としての発展を約束されたのである。これに先立つ1948年1月、戦前にドイツ最大の自動車メーカー・オペルの幹部であったハインリヒ・ノルトホフが、ハーストの後を受けて経営に携わるフォルクスワーゲン社長に任命された。就任にあたり、ノルトホフは工場の労働者に、「未来は過去と決別するときに始まる」と自身の信念を語っている。以降、辣腕のノルトホフに率いられたフォルクスワーゲン社は、ヒトラーの数少ない「正の遺産」である「タイプ1」を中心に、その言葉の通り戦後の社業を拡大して行くことになった。主力モデルの「タイプ1」は、その耐久性と経済性、そして優れたアフターサービス体制で世界の市場から圧倒的な支持を得ることに成功した。「ビートル」の愛称で広く親しまれたこの古風な流線型車は、アメリカをはじめ全世界に大量輸出され、貴重な外貨を獲得して西ドイツの戦後復興に貢献した。2003年のメキシコ工場における生産終了時点までに生産された台数は2,152万台以上に上り、モデルチェンジなしでの1車種としては未曾有の量産記録となっている。おそらく四輪自動車で、今後もこれを破る記録は現れないであろう。フォルクスワーゲンはタイプ1の設計をベースとした派生車種を多く送り出したが、なかでも1950年に発表したキャブオーバー・ワンボックス車の「タイプ2」は、貨客搭載力と乗り心地を両立させた優秀な汎用車として大変な人気を博した。1960年までは西ドイツ政府の国営であったが、民営化にあたり「フォルクスワーゲン法」という特別な法律が制定された。この法律により、投資家はどんなに株を買っても議決権の20%までしか保有できないようになっていたほか、筆頭株主がニーダーザクセン州であったなど、通常の一般企業とは異なる面をもっていた。1965年には、従来ダイムラー・ベンツ傘下にあり今日のアウディAGの前身であるアウトウニオン社を生産体制強化のために買収した。だがビートルのあまりに大きすぎた成功は、後継モデル開発の妨げともなった。「フォルクスワーゲンすなわちビートル」というイメージの強さは、空冷リアエンジン方式というレイアウトが1960年代には既に陳腐化していたにも関わらず、新型車を世に問うても決定打を欠くということになり、低迷期が1960年代後半以降長く続いた。フォルクスワーゲンは、傘下としたアウトウニオン(現アウディ)の前輪駆動技術をも応用して、1970年以降の新型車について前輪駆動化への動きを進めた。1974年に至り、スペース効率に優れた前輪駆動のハッチバック車ゴルフを開発し、その機能性が市場に受け容れられてベストセラーとなった。ようやくビートルを代替できるモデルを得たのである。以来、その延長線上に各種の機能的な小型車を多数送り出し、ヨーロッパを代表する大衆車メーカーとしての地位を確立した。1980年代以降は、それ以前の南米などへの工場展開のみならず、既存メーカーの買収をも進めるようになっている。1984年には、上海汽車との提携で中国市場へ参入。また1991年にはチェコの老舗メーカーであるシュコダ、1996年にはかつてフィアット系だったスペインのセアトを傘下に入れ、東欧・南欧での拠点をも確保した。1998年に、戦前・戦時中のフォルクスワーゲン製造会社に関連する戦争補償プログラムをはじめた。2007年、欧州委員会はフォルクスワーゲン法が欧州連合の法令に違反していると指摘し、ドイツは法令廃止を余儀なくされた。安定株主を確保する必要に迫られたフォルクスワーゲン社は、歴史的に繋がりが深く業務提携関係にあるポルシェに株式提携を要請。紆余曲折の末、フォルクスワーゲンとポルシェが経営統合することとなる。ナチ党がドイツを動かしていた頃、フォルクスワーゲンだけでなくジーメンス、ダイムラーなどの会社は多くの人々を奴隷的強制労働させたと言われている。弁護士らはそれらの会社が使った強制労働の数は200万人以上であると考えている。2011年7月にフォルクスワーゲンは強制労働の過去を償うための基金の設立を発表した。だが2011年10月、弁護士らはその基金では不十分だとして、フォルクスワーゲンやダイムラーなどが強制労働の被害者から訴えられた。フォルクスワーゲングループ・ジャパンが総輸入元となり、日本の販売ディーラーにはフォルクスワーゲングループ・ジャパンが展開している「Volkswagen」店と旧ジヤクス系の「ファーレン」店、2009年まで販売提携を結んでいたトヨタ自動車のディーラーが手がけている「DUO」店がある。取り扱い車種に違いはない。歴史的な車種を含む、主な車種を列挙する。1953年(昭和28年)よりヤナセにより輸入が行われた。当初から右ハンドル仕様を用意するなど、日本市場に適した製品の積極的な導入により、輸入車のトップシェアを維持していった。1983年(昭和58年)7月にフォルクスワーゲンの直接の子会社であるフォルクスワーゲン株式会社が設立され、1989年(平成元年)8月には「フォルクスワーゲンアウディ日本株式会社」となって系列の販売店をオープンし、より直接的な販売にも乗り出した。しかも1991年(平成3年)にトヨタがVW車の販売を始めると表明するとヤナセとの関係が悪化し、ヤナセは『値引き合戦が激しくなり、ブランドイメージが保てなくなる』として1992年(平成4年)12月をもってVWの輸入、販売を取りやめた。その後は地場資本の「ファーレン店」とトヨタ系の「DUO店」で販売を行い、かつてVWのインポーターであったヤナセも2005年(平成17年)に「ヤナセヴィークルワールド」を立ち上げ、VW車の販売を再開した。2009年(平成21年)12月にはスズキとの包括的提携を発表し、VW側はスズキの発行済株式の19.9 %を取得する一方で、スズキ側もVW株を「VWがスズキ株式の取得に投じた金額の2分の1を限度として」取得するほか、ハイブリッド車等の開発でも提携することとなったが、2011年9月にスズキ側より提携解消が発表された。なお1984年(昭和59年)から1991年(平成3年)にかけて、日産自動車との提携により「サンタナ」を同社の座間工場でノックダウン生産し、同社の販売店とヤナセで販売していたものの、これまでにフォルクスワーゲンが日本国内に自社工場を構え、生産を行ったことはない。なお、日本でのサンタナの後継となる3代目「パサート」は、ヤナセがセダンとバリアントを輸入、販売し、日産がセダンのみを輸入、販売するといった変則的な方法が取られたが、VWとトヨタとの提携が始まったことで、日産扱い分は終了している。中華人民共和国(中国)では、古くから業界1、2位を争う大手の上海汽車、第一汽車双方と生産・販売協定を行っている。フォルクスワーゲンは同国において国外の自動車メーカーで最初に合弁企業を設立した会社である。また部品工場も保有する。商標は「フォルクスワーゲン=国民車」から「大衆」で、簡体字表記では「大众」となる。また、「众(衆)」の字はVWのロゴマークとよく似ている。2008年に開催された北京オリンピックの(同国内でのみ権利のある)ローカルスポンサー(公式パートナー)となった。1949年にアメリカ合衆国に輸出が開始されて以来、恐竜にも例えられた国産車への対抗馬として、かつては代表的な大衆車であったが、1970年代後半に開始されたラビット(Rabbit:初代ゴルフの現地名)現地生産での失策(運転感覚や車種のキャラクターを一般的アメリカ車に近づけすぎた)と、同時期の日本車の好評によるシェアの伸長以降、長期低落状態に陥り、アメリカにおける市場シェアが2007年で2%以下まで下落している。品質・信頼性に関する問題に加え、「割高で、つまらない自動車」と捉えられていることが原因とされる。2006年には、販売不振だった高級乗用車・フェートンの販売を中止した一方、イメージ挽回をかけて、先代GTI(北米では独立した車名となっている)の広告でMTVの人気番組Pimp My Rideをパロディにしたを行ったり、最近では基幹車種であるニュービートル、ラビット(五代目ゴルフの現地名)、ジェッタの特売キャンペーンを展開している。2008年7月15日に、フォルクスワーゲンはテネシー州チャタヌーガ市で自動車組立工場を建設すると発表した。特に北アメリカのために設計される車を、現地で2011年前半に生産を始める予定である。1953年にブラジルの現地法人である「フォルクスワーゲン・ド・ブラジル」を設立し、「ビートル」や「パサート」などの生産を行うとともに、「ブラジリア」や「ゴル」などの独自車種の開発、生産も行っている。1979年には、経営危機を受けブラジル市場から撤退したアメリカのクライスラーの工場施設や販売拠点を買い取り、中型トラックの生産にも進出した。現在は国内に5か所の生産工場を構え、独自開発した「フォックス」をはじめとする、同国で生産した車種を南アメリカの近隣諸国やヨーロッパ、北アメリカ諸国へ輸出するなど、国外における一大拠点として位置づけられている。2015年9月、フォルクスワーゲンのディーゼル車の一部車種が排出ガス規制を不正にごまかし、規制値を大幅に上回っていることが明らかになった。すでに多くの台数が市場に出回っているため、健康への被害はきわめて大きいと推定される。制裁金、訴訟、ブランドイメージの悪化などにより、企業業績への悪影響は長期間にわたると予想され、数日後にCEOが辞任する結果となった。2015年9月18日、アメリカ合衆国の環境保護庁は、フォルクスワーゲンが、アメリカの大気浄化法をクリアするため、ディーゼル自動車に不正なソフトウェアを搭載していたと発表した。このソフトウェアは、試験であることを自動検知し、排気ガスをコントロールする機能をフル稼働し有害物質の量が大幅に減るようになっていた。しかし、自動車が通常走行する場合は、環境基準の40倍に上る窒素酸化物などを排出していた。このように試験だけをクリアする機能はディフィート・デバイス(無効化装置)と呼ばれ、アメリカでは違法である。通常走行でも規制に適合するようソフトウェアを修正すると、燃費の劣化、馬力の低下、および部品寿命の短縮が見込まれる。問題があるのは排ガス規制に関する部分だけであるため、運転の安全性には問題がないとされる。その後、不正車種はガソリン車に拡大し、不正対象物質は二酸化炭素排出量にも及ぶことが同社の内部調査で明らかになった。EUでは2007年にディフィート・デバイスを違法としており、2013年に欧州委員会の共同研究センター (JRC) が不正を防ぐために路上テストに切り替えるべきだと提言していた。なお日本では3.5トン超のディーゼル車に対してのみディフィート・デバイスが禁止されているため、当該車種での使用は違法行為とはならない。当該車種による汚染物質の総量は年間100万トンと見られる。統計的には、1300トンのNOxあたり一人の死亡につながると推定される 。最初に異常な排出値を検出した路上走行での測定には、日本の計測器メーカー堀場製作所が製造したポータブル測定器が使われた。フォルクスワーゲンは、この不正行為を認めており、アメリカ国内で不正の対象となった車は、2009~15年型の「ゴルフ」「ジェッタ」「ビートル」と12~15年型の「パサート」で、いずれもディーゼル車であり、台数は48万2000台に上ると発表された。フォルクスワーゲンの内部調査により、上記の該当車種だけでも全世界で1100万台が不正の対象となっていることが判明している。ドイツ国内では280万台に上る。アメリカ以外にも、EU、スイス、カナダ、韓国、インドの政府が検査を実施する見通しであるが、日本では当該車種は発売しておらず影響は小さい見込みである。ドイツのドブリント運輸相は、欧州販売のVW車でも不正を確認したという。さらにセアト・レオンやトレドで使われている1.6リットル、2リットルエンジンでも不正が確認されたと述べた。さらに不正対象車種は増え、アウディもA1、A3、A4、A5、A6、TT、Q3、Q5の210万台が違法ソフトを搭載したと発表した。西ヨーロッパが142万台、ドイツ58万台、アメリカが1.3万台である。さらに、「フォルクスワーゲン・ティグアン」も、第1世代のうちEA189ディーゼルエンジンの搭載車に限り不正の対象となったと発表された。さらに、3リットルV6ディーゼルエンジンを搭載した2009年-2016年のモデルの「フォルクスワーゲン・トゥアレグ」とアウディ・Q7、2013年-2016年モデルの「ポルシェ・カイエン」、アウディの2014年-2016年モデルのQ5、A6、A7、A8にも不正ソフトウェアが発見され、アメリカ国内で対象車が8万5千台に及ぶと米環境保護局が発表し、フォルクスワーゲン社もこれを認めた。さらに、フォルクスワーゲン、アウディ、シュコダ、セアトのガソリン車を含む合計80万台の車種で、二酸化炭素排出量にも不整合が見られるとフォルクスワーゲン社が発表し、その中には9万8千台に及ぶガソリン車が含まれることがドイツのドブリント運輸相によって発表された。フォルクスワーゲンは、今後、アメリカ国内だけでも最大180億ドル(約2兆1600億円)となる巨額の制裁金や、刑事訴追を受ける可能性もある。また大規模なリコールが予想され、同社は65億ユーロ(73億$)を引き当てている。不正車種の発売停止やブランドイメージの悪化による販売への悪影響は数年間に及ぶものと見られる。2015年11月の同社のアメリカ国内の販売台数は1年前と比べて25%下落し、イギリスでは20%下落した。そのほか、アメリカおよびカナダ国内で、価値の減じた当該車種の所有者による集団訴訟、健康被害にさらされた国民を代表しての政府による訴訟、さらには不利益を被ったディーラーによる集団訴訟が計画されている。アメリカではエコカー減税の対象となっており、4万台の所有者に61億円の減税があった。虚偽のデータに基づいて減税対象と認定されたため、違法とされる可能性がある。発表同日、同社の株価は20%下落した。翌9月22日火曜日、同社は全世界で1100万台が影響を受けると発表し、株価はさらに17%下落した。この株価下落に対し、株主の訴訟も計画されている。フォルクスワーゲンはドイツ最大の企業であり、ドイツ国内で27万人を雇用しており、ドイツ発の世界的ブランドでもある。その企業の不正は、長期化すればドイツの経済にも悪影響が及ぶという指摘がある。2015年9月20日、フォルクスワーゲンは不正を認めた。翌月曜日、環境保護庁は同社がほぼ一年間にわたって不正を否定してきたが、2016年に発売する車両の認可を保留すると脅して初めて不正を認めたと発表した。翌9月23日水曜日、CEOのマルティン・ヴィンターコルンは辞任した。9月25日金曜日、前ポルシェCEOのマティアス・ミュラーがCEOに就任した。この問題について、ドイツ政府が事前に把握していたとの疑いもあるが、ドイツ政府は否定している。違法ソフトウェアの導入を決めたのは、2005-06年頃だったという。2007年にソフトを開発し納入したのはボッシュだが、あくまでもテスト用であり「実車に使用するのは違法だ」という『文書による警告』をしていたという。また2011年に社内の技術者が違法ソフトの使用について警告していた。2015年9月28日、ブラウンシュバイク検察当局はマルティン・ヴィンターコルンに対して、詐欺の疑いで捜査を開始した。2015年10月7日、マティアス・ミュラーCEOは従業員集会において、「すべての投資計画、合理化計画を見直す」と初めて事業の改善計画について明言した。同日、翌2016年のアメリカ国内でのディーゼル乗用車認可申請を取り下げることが発表された。2015年10月15日、ドイツ政府は、修理するかどうかを当該車の所有者に任せると言うフォルクスワーゲン社の提案を拒否し、国内の全240万台の強制的リコールを命令した。2016年6月28日、同社はアメリカ国内の不正車の買い取り、修理、補償、および集団訴訟への対応のため、総額で153億ドルの支払いをすることが決まった。ただしこれには政府への罰金および刑事訴訟は含まれない。これは同日の為替レートで約1兆5千6百億円に及ぶ。横置きの7速DSG(デュアルクラッチトランスミッションの商品名) DQ200とDQ250型において場合によってトランスミッションオイル内で蓄積された硫黄の影響で制御装置の配線が短絡し、駆動力が伝達できなくなる不具合が発生しており、2013年になって数カ国でリコールが発表された。VGJからは2013年5月8日付で、下記のように届出が行われた。「自動変速機制御コンピュータの基盤材質が不適切であるため、内部ショートが発生し電源用ヒューズが溶断する恐れがある。走行中に不具合が発生した場合、クラッチの締結が開放されることによって、車両の運行を維持するための駆動力が伝達されず、惰性走行状態となり、車両停車後に再発進不能となる。なお、不具合が発生しても、車両を安全に停車させるための制動、操舵にかかわる機能は保持される。駐車中に不具合が発生した場合、エンジンを始動できない、または始動できても発進不能となる。」その他の国では下記のような事態が発生している。「国民車」"Volkswagen" の標準ドイツ語発音は 「フォルクスヴァーゲン」だが、日本では "Wagen" の部分を正確なドイツ語読みではなく、慣用的な表記「ワーゲン」にしている。これはヴァ行の発音が本来無い日本語においては広く行われている(例:リヒャルト・ワーグナー、ブルーノ・ワルターなど)。フォルクスワーゲン社の日本法人が1983年7月に『フォルクスワーゲン株式会社』として設立されたことにより、日本でのこの名称は公式なものになった。現在はフォルクスワーゲン グループ ジャパン株式会社に改名している。日本では『フォルクスワーゲン』およびその短縮形の『ワーゲン』は長い間、同社の『フォルクスワーゲン・タイプ1』を指す愛称として用いられてきた。本国ドイツではこれを「カブトムシ」を意味する『ケーファー("Käfer" )』と呼び、英語圏では同意の『ビートル("Beetle" )』の呼称が広く用いられた。日本でも「ビートル」の愛称はよく知られている。アメリカでは『虫(バグ、"Bug" )』とも愛称されるが、日本ではビートルを趣味の対象とするマニア内の用語に留まっている。なおメキシコではVocho(ボッチョ:スペイン語で『虫』を意味するBicho(ビチョ)とVolkswagenからの造語)、タイではタオ(亀)の愛称で呼ばれる。2005年9月、創業時から関係の深いポルシェ・オートモービル・ホールディングSE(以下PAHSE)はフォルクスワーゲンAGの株式20%を取得し、筆頭株主となった。2009年1月の時点では、PAHSE社の持ち株比率は50.76%となっており、同社による子会社化が完了した。また今後は複数の金融機関から追加取得できる権利も含めると75%まで買い増す方針が伝えられたが、フォルクスワーゲンはこれに抵抗した。2009年に入るとPAHSE社は資金繰りに行き詰まってしまい、2011年半ばをめどに、フォルクスワーゲンがPAHSE社傘下のポルシェAG社を買収する形で経営統合する方針であることが明らかとなった。PAHSE社はフォルクスワーゲンとカタール投資庁へのポルシェAG社株式の売却により財務の改善を行うことに成功する。2009年10月にはフォルクスワーゲンがPAHSE社の保有するポルシェAG社の株式の49.9%を取得した。PAHSE社の株式は市場売買可能なものの、議決権のある株式の90%以上を一族が保有しているため、依然としてフォルクスワーゲンAG社の議決権の過半数を所有しているのはPAHSE社であり、また同社を支配する創業者一族である。上記のように、フォルクスワーゲンは2011年度中にポルシェAGとの経営統合を目指していたが、PAHSEによるフォルクスワーゲン株式取得をめぐる訴訟問題の解決が長引いたため、両社の経営統合に遅れが生じた。2012年7月、フォルクスワーゲンは残るポルシェAG社の全株式を44億6000万ユーロで取得し、完全子会社化すると発表した。依然としてフォルクスワーゲン社の株式の過半数はPAHSE社が保有している。「ポルシェが買収された」「ポルシェがフォルクスワーゲンと合併した」と報道されることが多いが厳密にはポルシェの創業者一族による支配企業の統合である。2015年現在、ポルシェ家とピエヒ家が50%強、ニーダーザクセン州が20%の株式を所有している。フォルクスワーゲンでは、ソーセージの製造も手掛けている。元々は1973年にヴォルフスブルク工場の敷地内で飼っていた豚を使って製造したのが始まりとされている。ソーセージは豚肉をコショウ・ショウガ・コリアンダー・ターメリック・唐辛子などを混ぜたものをブナ材でスモークしたもので、当初は従業員や来訪者(アウトシュタットと呼ばれるフォルクスワーゲンに関する博物館)向けだったものが、社員食堂やヴォルフスブルクのスタジアム内でソーセージをカレー粉とケチャップを掛けた料理カリーヴルストなどで販売されるまでに至り、2015年には720万本が販売されている(当時過去最高の売り上げになり、排ガス規制問題の中でも本業より売れているため、「ソーセージの薫製でブナの木を燃やすが、排ガスが基準値を超えた事実は確認されていない」と南ドイツ新聞で皮肉られたほどである)。1990年代にはカリーヴルストに合う専門のケチャップも手掛け、ベルリンにあるカリーヴルスト博物館にも名物料理として紹介されるなど人気商品になっている。なお、ソーセージのパッケージには『フォルクスワーゲン純正部品』とプリントされ、公式の紹介動画も存在する。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。