建部 遯吾(たけべ とんご、明治4年3月21日(1871年5月10日) - 昭和20年(1945年)2月18日)は、社会学者、東京帝国大学教授、政治家。新潟県中蒲原郡横越村(現新潟市江南区横越中央)出身。1896年帝国大学文科大学哲学科卒。翌年から講師として母校の社会学講座を担当、1898年ヨーロッパ留学、留学中1900年助教授に任ぜられ、1901年帰国してただちに東京帝大教授。帝大社会学講座の初代担当教授として長く建部時代を築いた。1922年退官。1913年日本社会学院(学会)を創設、主宰した。オーギュスト・コントに依拠した総合的社会学を講じた。対露強硬論を唱えた。その後、衆議院議員をへて1938年貴族院議員。社会学はフランスのオーギュスト・コント、イギリスのハーバート・スペンサーらが19世紀前半に確立した比較的新しい学問で、日本には明治10年代、アーネスト・フェノロサや外山正一によって紹介された。建部遯吾はそれを受けて研究を進め、コントの実証主義哲学の学説に東洋哲学儒学の精神を加味して、日本における最初の社会学体系を樹立した。そして彼の社会学は、コント社会学に拠るとはいえ、単なる祖述に終ってはいなかった。彼の独自性を反映した社会学を特徴づけているのは、実践性であった。膨大な体系であってもその背後に実践的な意欲・試みが反映されていた。そのことは例えばアダム・スミスの「国富論」やカール・マルクスの「資本論」に接すれば理解されるのだという。そして見逃してはならないことは、“治国平天下”という儒学精神と“日本の国家を如何にすべきか”という理念がその体系を貫いており、しかもその体系的展開が非常に雄大な規模を誇っていて、しかも理論的であった。松本潤一郎によれば、日本の社会学の基礎を築いたばかりでなく、建部社会学は国際的にも20世紀初頭の社会学の代表的一形式であると認められ、大道安次郎によれば、本書こそは明治時代における日本社会学会にひとつのエポックをつくったといえるということである。遯吾の活躍は、大学での教育と著術だけにとどまらない。明治36年(1903年)、研究・教育の便宜を図って、大学に文科系初の社会学研究室を設置。大正2年(1913年)には、京都大学の米田庄太郎とともに全国的な学会「日本社会学院」を創設して、機関誌「日本社会学年報」を発行。遯吾は、自身とは異なる自由主義的傾向の強い米田らともよく協力し、その主張を快く受け入れて、社会学の普及、向上に貢献した。こうした遯吾の業績は広く海外にも認められ、アメリカやイタリアの社会学士院会員や大正5年(1916年)万国社会学学士院正会員に、大正12年(1923年)には同副院長に選ばれるなど、世界に通じる国際的な社会学者としての、揺ぎない地位を得るまでに至ったのである。そして日本社会学に建部時代をもたらした。遯吾は、東大で社会学を講じ学生の指導に励む一方、各種原稿の執筆にも精を出した。新潟新聞を通じて郷土の青年を鼓舞激励した『静観余録』(明治40年(1907年))、日露戦争後の軽薄な風潮を戒めた詔書にわかりやすい解説を加えた『戊辰詔書衍義』(明治41年(1908年))、教育制度調査のため再度訪れた西欧諸国の現状を記した『世界列国の大勢』(大正2年(1913年))、各国の実情を参考に日本の教育の改善点・方法を示した『教育行政研究』(大正3年(1914年))、教育・宗教等教化行政についての学説を世界に先んじて樹立しようと試みた『教政学』(大正10年(1921年))、行政の簡素化・金力政治の根絶など現在にも通じる問題を挙げて変革を迫る『政治改革』(大正10年(1921年))。「著述は学者の生命」と言い切る遯吾の著作は、このほかにも数多い。遯吾は社会学者として多くの論文・著書を残すとともに、東京大学の講壇に終始せず、時論家でもあり、政治家でもあり、また詩人でもあった。遯吾は時論家としての活躍も目覚しく、特にポーツマス条約が締結されようとした段階の明治38年(1905年)、日露戦争後の民衆は戦争の勝利に酔ってポーツマス条約に不満を表明。遯吾も同僚の博士らと「日露条約批准拒否」の意見書を明治天皇に奉呈した。事態を重く見た政府の対応として、文部大臣久保田譲、東京帝国大学総長山川健次郎の辞任、東京帝国大学教授戸水寛人の休職問題を経て、東京帝大や京都帝大のほとんどの教授・助教授陣の一括辞任にまで発展した騒動で、遯吾は筋の通った頑なな正論とも言える主張を続けた。しかし山川の意を尽くした懇請に、結局講義は続けざるを得なかった。この間の経緯を詳しくつたえているのが、松本清張作『小説東京帝国大学』である。政界を去った遯吾は、東京物理学校等で講義をし、講演や著作に忙しい以前の生活に帰っていた。『作法と人格教育』(昭和6年(1931年))、『優生学と社会生活』(昭和7年(1932年))、『教育家外山正一先生』(昭和8年(1933年))、『農邨百話』(昭和9年(1934年))、『蔵軒在稿-父の遺稿集』(昭和10年(1935年))等々、多彩な内容である。しかも、時局への関心は変わらず強く、『皇基国体と社会整理』(昭和3年(1928年))においては、共産党員が大量に検挙された三・一五事件に着目し、党の志向を厳しく責めて、検挙弾圧・思想対策のほか、社会全般の点検改善を含む徹底的阻止方策を提言している。さらに『日本帝国の国是』、『世界の動乱と帝国の地位』、『東洋の大勢と青島の運命』と変動する世界の状況を分析したり、また、柳条湖事件直後の『第二満蒙問題と東亜の将来』(昭和6年(1931年))では、軍の方針を支持し、世界平和を維持するため、「日本が満蒙の独立を積極的に援助すべきである」という見解を明示している。政党政治の欠陥を見た遯吾には、軍部の台頭が社会的面からも当然の流れと考えられていたのである。新潟県選出の衆議院議員坂口仁一郎の病死を受け、遯吾は彼の後を継いで12月の補欠選挙で新潟県第六区から立候補し、憲政会代議士として当選。昭和3年(1928年)1月まで2期4年余の議員生活を体験した。議員時代の輝かしい1ページといえば、昭和2年(1927年)パリで開かれた万国議院連合大会に日本代表として列席し、「議会政治の危機救済」に関する『議会政治改革論』や「軍備の制限」について『軍縮論』を二回にわたってフランス語で演説する。演説は、天下為に動くを観るを得たるは聊か衷心の満足とする「世界人類の良心を警覚せり」と自負するほどの出来栄えであったという。遯吾は軍部の台頭しはじめる頃、当時の貴族院議長近衛文麿に自著を贈り、聖戦完遂を熱情的に念願し、時折時局に関する進言も行った。近衛が首相に任じられた翌昭和13年(1938年)、学識ある者として貴族院議員の勅命を受けている。また、遯吾は水城と号して詩や書に多くの作品を残し、幕末の頼山陽(らいさんよう)に比べうる偉人であると評された。号は水城。なお、つぎのようなエピソードが伝えられている。伯爵松浦詮が御進講終了後、天皇から「当今国内の学者で詩を能くする者は誰か」という御下問に、松浦は「文学博士建部遯吾の如きはその一人でございましょう」と奉答したとのことである。建部家は新発田藩蒲原横越組の大庄屋を務めていた。建部家第7代当主であった建部尚行は本名は庄助、諱(いみな)は尚行、字は于伯(うはく)、横渠(おうきょ)と号し、江戸時代後期の国学者、鈴木重胤(しげたね)の門人となり国学を研究する一方、漢詩も詠んでいた。尚行は嘉永4年(1851年)年に没したが、妻である新津桂家五代成章の八女れいと尚行の子、道之助は庄屋を継がなかったため、娘婿として新発田藩大面組大庄屋諸橋家の諸橋慶三郎(建部貞夫のちの建部蔵軒)を養子に迎えた。16歳で大庄屋職を継ぎ、国典は鈴木重胤、漢籍は青木青城につき精通した。蔵軒は明治37年(1904年)69歳で没したが、彼と春茂との五男として遯吾が誕生した。また、この慶三郎の弟である諸橋安平の子供が『大漢和辞典』を著し文化勲章を受章した諸橋轍次(もろはしてつじ)である。即ち、諸橋轍次と建部遯吾は従兄弟同志の間柄である。帰国後まもなく子爵谷干城の長女・谷芳子と結婚、三人の子をもうけるも離婚。新潟に子孫を残す。その後、新潟師範学校出の同郷の女性と結婚、離婚。明治44年(1911年)に、森鴎外の弟、三木竹二の未亡人・久子と結婚したが、数か月で離婚した。昭和17年(1942年)9月29日、遯吾の子である三重子は福澤諭吉の曾孫にあたる中村仙一郎と、当時の慶応義塾長、小泉信三夫妻媒酌のもと帝国ホテルにて結婚式を挙げる。
出典:wikipedia
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