諸戸 清六(もろと せいろく 1846年 - 1906年)は、日本の実業家。伊勢国桑名郡木曾岬村(現在の三重県桑名郡木曽岬町)加路戸大新田の大庄屋・諸戸家に父・清九郎(養子)、母みかの長男として生まれた。諸戸家は長島一向一揆当時からの庄屋としてこの地に居を構えていたが、清九郎が始めた塩問屋の商売に失敗して身代を潰した事から弘化4年(1847年)桑名に移住。安政7年(1860年)に父・清九郎が、文久3年(1863年)に後見人でもあった義兄・清助が亡くなった為18歳で家督を継いだが、その時の家財はわずかな布団や衣類などと約二十石積の船一隻のみ。対して借金は千両以上あったと言う。借主に対して「無利子十カ年」での返済を頼みこんで了承を得た清六は、寝る間も惜しんで米の仲買に励み僅か3年で借金を完済。明治維新を商機として事業を拡大し、明治9年(1876年)の西南戦争における軍用御用(兵糧調達)での仕事ぶりで多くの政府要人や三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎などの信頼を得て、明治11年(1878年)には大蔵省御用の米買付方となった。明治18年(1884年)に山田家屋敷跡(現在の諸戸氏庭園)を購入。明治20年(1888年)に居を移した後は商売だけでなく水道敷設など公共の事業も行った。明治39年(1906年)死去。享年61。現在に伝わるエピソードは、時間を無駄にする事と、無駄金を使う事を極端に嫌っていた事を如実に示している。借金返済にあたって自ら定めた「心得二十カ条」ではなどと記している。また、財を為した後でも「食事時には予め2杯の飯椀を用意しておかわりの時間を省いた」「人力車に飛び乗ると同時に走り出さないと不機嫌になった」などの話や、渋沢栄一が訪問した際に渋茶一杯しか出さなかったなどと言う逸話も残されている。その一方で、治水事業の一環として荒れた山林を購入して植林を行ったり、学生への学費援助などを行った。また、水道を敷設して桑名の水事情を改善した。桑名町(当時)の水道建設計画が財政上の理由で頓挫すると、明治32年(1899年)に自家用水道を敷設して邸前の水槽に引き入れ町民に開放。更に明治37年(1904年)には町内55ヶ所に給水栓を設置、無料で開放した。全国でも7番目に建設されたこの水道施設は大正13年(1924年)に町に寄贈され、昭和4年(1929年)まで使用された。
出典:wikipedia
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