谷朗碑(こくろうひ)とは、中国の三国時代、呉で鳳凰元(272)年に建てられた地元官吏の墓碑。碑は一時谷朗を祀った廟に安置されていたが、後に移されて北にある杜甫の廟に収められているという。被葬者である谷朗は正史に記録がないが、碑文によれば字を義先(ぎせん)といい、没年から逆算すると赤烏2(239)年に桂陽郡の耒陽(現在の湖南省)に生まれた。谷氏は秦王室の先祖・非子(碑文では「扉子」)の末裔で、これを信じれば始皇帝らの遠い親戚に当たる。「谷」姓は秦の谷間に封じられたことによるという。地元の地誌『耒陽郡志』によれば既に前漢代に谷崇という武将が見え、またその他の文献にも先祖の名として漢代の南昌太守・谷昕(こくきん)、子孫の名として西晋代の谷倹という人物の名を挙げている上、子の墓碑もあったことにわざわざ触れている。また谷朗を祀る廟や墓と伝えられる地が各地にあることから、少なくとも地元ではかなりの名族であり、谷朗自身も有名な人物であったようである。朗は心が素直でまじめな人物であったという。3歳で母親を、11歳で父親を亡くす不幸に見舞われ、弟と2人で暮らすことになった。しかし温厚で思いやりのあるところは変わらず、苦難を乗り越えて弱冠20歳の時に郡に仕官、陽安長となる。やがて品行方正なところが認められて朝廷に仕えることになり、郎中・尚書令史・郡中正を命じられた。その後地方官として長沙劉陽令に移ったが、すぐに呼び戻されて中都尉・尚書郎となり、また地方に移って広州督軍校尉、また戻って五官郎中、大中正になるなど、中央と地方を行き来する時期が続いた。そんな中、交州においてある村が謀叛を起こそうとしているのを発見し、説得して未然に防ぐという功績を上げ、九真郡(現在のベトナム・ハノイ周辺)の太守となり、善政を布いた。しかし鳳凰元(272)年4月に病により死去、享年34。建碑の詳しい経緯は不明であるが、その遺体は生まれ故郷・耒陽に運ばれ、埋葬の際にこの碑が建てられることになったとみられる。これが「谷朗碑」である。碑文は楷書に酷似した書体で1行24字、全18行。碑額には本文と同じ楷書調の書体で「呉故九眞太守谷府君之碑」と記されている。碑の状態は極めてよいが、拓本を見ると摩滅した文字がある時期から復活するなど後から覆刻した形跡があり、事実清代の道光11(1831)年に県令が碑を改修したとの記録がある。このため、刻された当時の姿のままではないと考えられている。内容は被葬者・谷朗の系譜を語った後、生前の業績を記し、最後に讃をつけるという典型的な墓碑銘・墓誌銘のスタイルをとる。書風については、一見すると楷書に見えるが、現在では完全な楷書ではなく前代の隷書の影響が強くみられる書体とされ、その書体史上の解釈については諸説あって定説がない(後述)。また異体字の極めて多い碑でもある。この碑は既に北宋代から知られており、多くの拓本集に収録されていた。しかし、一般的に知られるようになったのは清代に考証学が発達し、金石学の研究が始まってからである。研究での争点は、同碑の書体に関することに集中している。この時期は隷書から楷書への移り変わりがあった時期であったが、相次ぐ戦乱のために書蹟の残存が極めて悪く、移行の経緯がほとんど不明な状態であった。このため、同時代の碑はすべて一度は「移行期を反映する碑」としての研究の洗礼を受けることになったのである。この碑もやはり隷書と楷書の中間的書体であることから、一旦は「過渡期の碑」という見方になった。その中で隷書寄りであるか楷書寄りであるかも争点となり、「漢代からそれほど遠くない時代なので隷書寄りである」「隷書にしては楷書のにおいが強いので楷書寄りである」と綱引き状態になった。後に「過渡期の碑」とする見方は同時代の楷書の書蹟が大量に発見され、この時期既に楷書が成立していたことが証明されたことから「字体こそ中間的だが過渡期を反映したものではない」という結論になった。しかしそれでも隷書寄りか楷書寄りかの問題は残されてしまい、今も決着をみていない。
出典:wikipedia
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