平 兼盛(たいら の かねもり、生年不詳 - 正暦元年12月28日(991年1月16日))は、平安時代中期の歌人・貴族。臣籍降下前は兼盛王と称す。光孝平氏、大宰大弐・平篤行の三男。官位は従五位上・駿河守。三十六歌仙の一人。文章生を経て、天慶9年(946年)従五位下に叙爵。天暦4年(950年)平朝臣姓を与えられて臣籍降下するとともに、越前権守に任ぜられる。応和元年(961年)山城介。応和3年(964年)大監物として京官に復し、康保3年(966年)従五位上に叙せられる。円融朝の天元2年(977年)駿河守に任ぜられ再び地方官に転じた。正暦元年(991年)12月28日卒去。享年は明らかでないが、父・篤行王の生没年を勘案すると80歳位まで生存したと推定される。最終官位は前駿河守従五位上。『拾遺和歌集』・『後拾遺和歌集』における代表的な歌人の一人であり、『後撰和歌集』以降の勅撰和歌集に約90首が採録。家集に『兼盛集』がある。その歌風は一首一首を深く考えてつくるというものであったが、難解になることもなく、比較的わかりやすい素直な表現の歌が多い。兼盛といえば「天徳内裏歌合」における壬生忠見との対決(この時の歌が百人一首にも取られた「しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで」である)が一番有名であるが、「天徳内裏歌合」を始めとするさまざまな歌合、歌会、屏風歌の有力歌人として知られる。生存中から様々な挿話、逸話の主人公として知られていた。兼盛が妻と離婚した際、妻は既に妊娠しており、赤染時用と再婚した後に娘を出産したため、兼盛が娘の親権を主張して裁判で争ったが認められなかったとの逸話が伝わる。なお、その娘は赤染衛門として大江匡衡に嫁ぎ、その血脈は大江広元や大江姓毛利氏にも流れている。『三十六人歌仙伝』による。
出典:wikipedia
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