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槌田誠

槌田 誠(つちだ まこと、1943年6月12日 - 1999年1月7日)は、岡山県出身の元プロ野球選手(捕手、外野手)。倉敷工業高校2年時の1961年、捕手として夏の甲子園に出場。1回戦で報徳学園と対戦、延長11回表に6点を奪いながらその裏に6点を取られて追いつかれ、12回裏にサヨナラ負けという、今も語り草の奇跡の大逆転を喫した。1年上のチームメートに外野手の鎌田豊がいる。翌1962年も夏の甲子園に連続出場、2回戦で北海高に敗退。この時の控え選手に菱川章、杉本郁久雄がいた。卒業後は立教大学に進学。同期に村上公康がおり厳しい正捕手競争が続いたが、村上は2年で中退しプロ入り。東京六大学野球リーグでは、1964年秋季リーグから2季連続して5位に低迷するなど、苦難の時代を歩む。しかし攻守の中心としてチームを立て直し、1966年春季リーグでは、同期の若月宏之(全大丸)、石川洵(鐘紡)両エースを擁し7年ぶりに優勝。自身も四番打者として戦後2人目の三冠王を獲得した。チームメートに小川亨、谷木恭平、溜池敏隆らがいた。リーグ通算50試合出場、174打数54安打、打率.310、7本塁打、34打点。ベストナイン2回。同年ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。1967年6月6日、大洋戦での初安打が代打満塁ホームランという派手なデビューを果たす。しかし森昌彦が正捕手として君臨している巨人ではなかなか出番はなく、同年は10月にわずか4試合先発マスクを被るにとどまる。以後も主に代打としての出場が中心だった。1970年外野手に転向したが、ここでも柴田勲、高田繁、末次民夫ら不動のレギュラーの壁は厚く、代打出場中心は変わらなかった。だが1972年8月17日のヤクルト戦(後楽園球場)で松岡弘投手に8回2死まで完全に抑えられていた球団創立以来初の「パーフェクト・ゲーム」の危機を阻止、逆転勝利の口火を切るヒットを放つなど土壇場に強さを発揮。1975年はシーズンわずか1安打だったが、9月18日・ヤクルト戦で放ったその1安打は球団ワースト記録の11連敗からの脱出を決める決勝タイムリーヒットだった。1977年にヤクルトスワローズへ移籍したが、あまり活躍の場はなく同年限りで引退。その後は日本ハムファイターズの二軍バッテリーコーチ補佐(1978年 - 1979年)を経て、つけ麺チェーン店のオーナーを務めた。1999年1月7日、胃癌のため死去。享年57(55歳没)

出典:wikipedia

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