兵藤 一也(ひょうどう かずや、1978年4月27日 - )は競輪選手。群馬県出身。日本競輪選手会群馬支部所属。日本競輪学校第82期卒業。師匠は父親で元競輪選手(32期)の兵藤信雄。佐野日本大学高等学校を経て日本競輪学校に第82期生として入学。同期には荒井崇博らがいる。在校成績7位で卒業すると1999年4月17日に宇都宮競輪場でデビューし同日初勝利を含む完全優勝を果たす。デビューしてから2年後の2001年8月に開催されたふるさとダービー(富山競輪場)で決勝へと駒を進める(8着)。その後、2004年の共同通信社杯競輪(3着)、翌2005年の東日本王座決定戦(3着)でも決勝に駒を進めた。同年10月、松山競輪場で開催された共同通信社杯競輪決勝では、山崎芳仁-佐藤慎太郎の福島勢の3番手につけ、直線で同大会連覇目前の佐藤をゴール前、8分の1輪差交わして優勝した。2006年以降はGIでも決勝へと進出するケースが増え、2006年は高松宮記念杯競輪(3着)、全日本選抜競輪(7着)、翌2007年は日本選手権競輪(2着)、全日本選抜競輪(4着)という実績を残しKEIRINグランプリへの出場を決定させ、同年12月27日より新たに実施されることになったS級S班18名にも選出された。上記の実績からGIタイトルを掴むところまでこぎつけていたものの、その後は実績が伸び悩んでいたが、2010年は高松宮記念杯競輪の決勝で3着に入ったことから年間獲得賞金額上位となり、S級S班の選出基準となる上位18人枠を争っていたが、選考期限にあたる競輪祭最終日の特別優秀競走で1着に入ったことにより最後の18人目として滑り込み、2011年のS級S班として返り咲いた。デビューしてから一貫して追い込みを身上としてきた選手であるが、デビューしてから4-5年目あたりまでは時折、鋭い捲りも放っていたこともあった。しかし現在は自力で競走するケースはほとんど見られず、時折見せる厳しい位置取りなど、マーク選手としての板がすっかり身についてきた。2006年の寛仁親王牌での2日目、最終コーナーで相互接触による車体故障を生じさせた後、ゴール直前で外側から内側へゆっくり蛇行した後にゴールせず落車したが、審判から敢闘義務違反と見咎められ失格となり、後の裁定で短期の斡旋停止に処せられたことがある。
出典:wikipedia
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