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レスリー・グラハム

レスリー・グラハム(Robert Leslie (Les) Graham、1911年9月14日‐1953年6月12日)は、1930年代から50年代前半に掛けて活躍したイギリス出身のオートバイレーサー。彼はロードレース世界選手権500ccクラス初代チャンピオンである。レスリーは、リヴァプール市のダートトラックレース場・スタンリースピードウェイでキャリアの口火を切った。1929年にはオスウェストリーのレースに中古の-マシンで出場し、2位となった。その後ルッジ・ウィットウォースに乗り活躍を見せた。1936年、レスリーは社製250ccOHCエンジンのオートバイを入手した。これは既に型落ちの安価品だったが、彼はこれに手を加え同年のアルスターGPに出場した。しかし、サーキットを一周したところでエンジンが焼きついてしまった。しかし挫けず、翌年には改造を施してノースウエスト200にエントリーし、最終的にはエンジンバルブのギア破損のためリタイアしたが、一時トップを快走して見せた。修理はドニントンで行われた次のレースに間に合い、レスリーは優勝を遂げた。この活躍に眼をつけたOK-Supreme創設者の息子ジョン・ハンフリーズは、レスリーをOHCエンジン製作担当兼レーサーとして採用した。程なく、レスリー・グラハム、アンディ・マッケイ、ジョン・ハンフリーズの三人はミッドランドで名を馳せたOK-JAPライダーとなった。サウスイースト・チャンピオンシップ、ギアボックスの故障で惜しくもリタイアするまで2位を疾走した1939年のマン島TTレースなどでレスリーは活躍を見せた。そんな彼に注目していたジョック・M・ウエスト(当時BMW社員)は、レスリーと1940年の契約を交わし、ベロセットのオートバイに乗る事になった(Classic MV Agusta : Library of Downloadable Files(ファイル一覧))。だが、第二次世界大戦が勃発し、この契約は実行されなかった。レスリーはイギリス空軍に召集され、166戦隊に所属するパイロットとなった。アブロ ランカスターを操縦してドイツ上空を飛行するなどの兵役に服し、1944年12月には大尉に昇進して空軍殊勲十字章を授かった。その後1946年に退役するまで、彼は輸送部隊に属した。戦争が終結すると、空軍中佐として大英帝国勲章も授与されていたJ.M.ウエストは、AMCの販売担当兼レーサーとしてレスリーを誘い、レースの世界に呼び戻した。AMC傘下のAJSレーシングチームに属し、1946年にキャドウェルパーク・サーキットで開催された戦後初のレースに出場。ノートン350ccマシンで疾走し彼は優勝した。1947年にはマン島セニアTTにAJS『Porcupine』で出場したが、結果は9位で終わった。翌年にはジュニアTTで7位に入ったが、セニアTTはリタイタで終えた。この年、アウトドモーロ・デ・リナス・モントレでレスリーはウエストやフランス人ライダーのGeorges Monneretとともに、18個の世界最高速度記録を更新した。1949年に開催された第1回ロードレース世界選手権にレスリーはAJSからエントリーした。第1戦マン島レースでは、最初のラップで後続を90秒も引き離す快調ぶりを見せつけた。しかしながら、残り数マイルという所でメカニカルトラブルが発生してしまう。だがレスリーは諦めず、マシンを押してフィニッシュラインに向かい、レースを9位で終えた。レスリーは続くブレムガルテンで開催された第2戦スイスGPでは優勝、第3戦オランダGPは2位と順調にポイントを重ねた。第4戦ベルギーこそリタイアに終わったが、第5戦アルスターで再び勝利を掴み、ファーステストラップも記録した。最終戦イタリアGPでは地元の英雄でありポイントを競うジレラのネッロ・パガーニに優勝をさらわれ勝利数で並ばれたが、総得点で2点上回り、レスリーは500ccクラス最初のチャンピオンとなった。1950年は、ジレラを駆るイタリア人ウンベルト・マセッティと、台頭著しいノートンのジェフ・デュークの後塵を拝し、500ccクラスランキング3位に終わった。この年、ダブルエントリーしていた350ccクラスでも成績は1勝・ランキング3位だった。1951年、一向に開発が進まないAJSに不満を募らせていたレスリーは、ドメニコ・アグスタ伯爵の求めに応じイタリアのMVアグスタに乗った。当時のMVアグスタ500ccは、馬力に欠き、扱いづらい操作性から「手に負えない代物」との悪評を受けていたが、開発能力の高いレスリーの手腕によって同年500ccクラス2位を得た。ただし、更に評判が悪い350ccへの搭乗は避け、同クラスにレスリーはベロセット『MkVIII KTT 350』で出場した。彼は、スイスGPを制し年間ランキング6位を得た。なお、レスリーは125ccクラスにも出場したが、こちらは8位で終わった。1952年のシーズン500ccクラスでは、レスリーは第1戦でポイント獲得に失敗。第2戦ではギアの操作ミスや馬力不足が祟り、アイルランド人のレグ・アームストロング後塵わずか33.4秒及ばなかった。ゴール時、アームストロングはドライブ・チェーンが外れるアクシデントに見舞われていたが、不幸にもレスリーは追いつけなかった。以後、第3・4戦でもノーポイント。第5戦ドイツGPではファーステストラップを記録したが4位。第6戦でもファーステストラップを刻むが、ダンロップタイヤにトラブルが生じノーポイントと苦戦が続いた。だが、第7戦のイタリアGPでは、モンツァに押しかけた熱狂的な観客の声援に支えられ、MVアグスタ初の優勝とファーステストラップ記録を同時に成し遂げた。続く第8戦も勝利し、彼はジレラのウンベルト・マセッティに次ぐ2位でシーズンを終えた。なお、250ccクラス(ベロセット)と125ccクラス(MVアグスタ)では、それぞれ3位と4位につけた。レスリーは選手権チャンピオン奪回の意欲に燃え、1953年のシーズン開幕を迎えた。シニアTTが500cc選手権第1戦を兼ねるマン島TTレースで、6月11日木曜日に開催された125ccのライトウェイトTTに出場した。彼はこれを勝利で飾り翌日の500ccレースに勢いをつけたが、これがレスリー最後の勝利となるとは誰も予想できなかった。明けて12日金曜日、ジレラのジェフ・デュークとの争いになるであろうと予想されていた500ccクラスは開幕した。高速で疾走中、突然レスリーはコントロールを失った。ブレイヒル(Bray Hill)のふもとに衝突し乗り上げた時には、レスリーは即死状態だった。カルロ・バンディローラらMVアグスタチームのメンバーは哀悼の意を示し、この年の選手権出場から撤退した(Classic MV Agusta : Library of Downloadable Files(ファイル一覧))。事故の原因については、ステアリングの破損によるもの、ジェフ・デュークから40秒遅れのピットサインに動揺したため、アールズフォークタイプのフロントサスペンションを使用したため、など諸説あるがはっきりしたことはわかっていない。現在、マン島にはグラハムの記念碑が立っている。

出典:wikipedia

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