第17代ダービー伯爵エドワード・ジョージ・ヴィリアーズ・スタンリー(、1865年4月4日 - 1948年2月4日)は、イギリスの政治家、貴族。政治家として郵政相、陸軍相を歴任。競走馬生産者、馬主としても著名である。フレデリック・アーサー・スタンリー(後の第16代ダービー伯爵)の長男として、ウェストミンスターので生まれる。で学んだ後、近衛擲弾兵連隊に中尉として入隊。1885年から1895年までの10年間兵役につき、そのうち1888年から1891年はカナダの総督となった父の副官としてカナダへ赴任した。1899年から1900年の間は第二次ボーア戦争に従軍。でランカシャー州の選挙区から当選し、庶民院議員となる。第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルやアーサー・バルフォアの下で大蔵卿委員(在職: 1895年-1900年)・(在職: 1901年-1903年)を務めた後、1903年に郵政大臣(; 郵政公社総裁)として入閣した(1905年まで)。1906年イギリス総選挙では落選するも、1908年に父親から爵位を相続、貴族院議員となる。第一次世界大戦中の挙国一致内閣では1916年に陸軍省政務次官()後空軍委員会議長()に任ぜられたが、同年ガリポリの戦いの作戦失敗等によりハーバート・ヘンリー・アスキス首相が失脚。代わって陸相のデビッド・ロイド・ジョージが首相に就任し、その穴を埋めるため委員会議長を辞任、陸相となり、混迷の度を深めていた第一次世界大戦末期のイギリス陸軍の指揮を執った。またこの時期はアイルランドで独立の気運が高まり、後のアイルランド独立戦争へと発展していった過渡期でもあり、エドワードはあらゆる事態の対応に追われ続けた。大戦終結後、陸相を辞任。在フランス大使となり戦後調整に当たった後、再び陸相に就任し2年を務め、その辞任後は政界を引退した。実子のとは共にスタンリー・ボールドウィン、ネヴィル・チェンバレン内閣等で閣僚を務めている。パブリック・スクール時代に経験したラグビーの熱心な愛好家であり、ラグビー協会の名誉理事長を務めていた。ほか、に優勝杯を寄贈しており、このカップは現在でも「ダービー卿杯()」と呼ばれている。なお父のフレデリックはアイスホッケーの愛好家で、北米のナショナル・ホッケー・リーグに優勝杯を寄贈(こちらは「スタンレー・カップ」と呼ばれている)している。また競走馬の生産者および馬主として史上に大きな事績を残しており、ハイペリオン、ファラリス、ファロス、フェアウェイ、スウィンフォード、アリシドンなど、現代のサラブレッドに多大な影響を与えた名馬を数多く送り出した。生産者および馬主としてダービーを3勝、オークスを1勝、セントレジャーを6勝、2000ギニーを2勝、1000ギニーを7勝を挙げたほか、1歳時にエヴレモン・ド・サンタラリからオグデン・ミルズと共同で購入したカンタールで凱旋門賞にも優勝した。彼の馬の購入や調教についてはジョージ・ラムトンが、初期の配合デザインにはウォルター・オルストンがかかわっており、生産に際しては「フィッツラックの18.75%理論」と呼ばれる血統論を用いたとも、占星術によったとも言われるが定かではない。1930年にはダービー伯爵として史上初めてアメリカのケンタッキーダービーを現地観戦し、『タイム』の表紙を飾った。
出典:wikipedia
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