任那日本府(みまなにほんふ)とは、『日本書紀』の雄略紀や欽明紀などに見える、古代朝鮮半島南部の伽耶の一部を含む任那にあった倭国の出先統治機関。宋書倭国伝の記述にも任那という記述が見られ、倭王済や倭王武が宋 (南朝)から任那という語を含む号を授かっている。倭(古代日本)が朝鮮半島南部に設置した統治機関として日本書紀に言及されているものである。少なくとも、下記に列挙される史実を根拠として、倭国と関連を持つ何らかの集団(倭国から派遣された官吏や軍人、大和王権に臣従した在地豪族、あるいは倭系百済官僚、等々)が一定の軍事的・経済的影響力を有していたと見られている。多分に政治的(韓国の民族主義など)な問題も含まれることから、その実態がどのようなものであったかについては学界でも決着をみていない。韓国の学界では概して倭の出先統治機関であるという見解には否定的立場であり、日本の一部左派系、在日系の学者も同様の見解である(後述参照)。高麗大学教授で日本古代史学者の金鉉球は、『日本書紀』には倭が任那日本府を設置して、朝鮮半島南部を支配しながら、百済・高句麗・新羅三国の三国文化を搬出していったことになっているのに、韓国の中学校・高校の歴史教科書では、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝播される国際関係は説明がなされず、ただ高句麗・新羅・百済の三国が日本に文化を伝えた話だけを教えており、さらに百済・高句麗・新羅三国の文化を日本に伝えたとされる話は、朝鮮最古の史書は12世紀の『三国史記』であり朝鮮の古代の史書は存在しないため、すべて『日本書紀』から引用している。しかし、日本の学者が『日本書紀』を引用して、倭が朝鮮半島南部を支配したという任那日本府説を主張すると、韓国の学界はそれは受け入れることができないと拒否するのは、明白な矛盾であり、こうしたダブルスタンダードゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見ているのではないか、と指摘している。第二次世界大戦前の日本における伽耶地方の研究においては、『日本書紀』に現れる任那日本府を倭国が朝鮮半島南部を支配するために設置した出先機関であると史書どおり解釈したものであった。その流れにおける研究は明治期の那珂通世、菅政友らをはじめとし、津田左右吉を経て戦後に末松保和『任那興亡史』において大成された。当時、一般的な認識は、任那日本府の淵源を『日本書紀』神功紀にある「官家」に求め、任那日本府は伽耶地方=任那地方を政治的軍事的に支配したとするものである。そのため三韓征伐のモデルとなった朝鮮半島への出兵を4世紀半ば(神功皇后49年(249年)を干支2巡繰り上げたものと見て369年と推定する)とし、以降、当地域は倭王の直轄地であったとした。また、任那日本府は当初は臨時の軍事基地に過ぎなかったが、やがて常設の機関となったとみられていた。その後、高句麗や新羅が百済北部を侵すようになると、百済は執事の功績を賞賛し、大和に援軍を求めた。554年、百済が新羅に敗れて聖王(聖明王)が殺され、562年には任那全土が新羅に奪われるに至り、日本府は消滅したとされる。宋書倭国伝の記述では451年、宋朝の文帝は、倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたと記述している。また、478 年、宋朝の順帝は、倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたと記述しているため、宋朝は倭が朝鮮半島南部に大きな影響力を持ち、事実上支配していると認識していたことを示しており、上記の見解と一致している。第二次世界大戦後も、1970年代までは、古代の日本が4世紀後半から朝鮮南部を支配して任那日本府を設置したという見解は日本学界の通説であった。しかし、1963年に北朝鮮の金錫亨の論文、「三韓三国の日本列島内の分国について」が日本学界に大きな衝撃を与えた。金の考えは一般に「分国論」と呼ばれ、簡潔にいえば朝鮮半島の三国が日本列島内に植民地を持っていたという説である。分国論自体は韓国優越の民族主義に根ざす荒唐無稽な説で学界では全く支持されなかったものの、当時の一般的な通説に対し一石を投じた。黒岩重吾はこの時代を「1970年代は任那という言葉を口にするのは、はばかられるような雰囲気でした」と述べている。しかし70年代以降洛東江流域の旧伽耶地域の発掘調査が飛躍的に進み、文献史料の少ない伽耶史を研究するための材料が豊富になってくるとともに、日本書紀の記述に引きずられない科学的な議論が可能になってきた。井上秀雄は、任那日本府は『日本書紀』が引用する『百済本紀』における呼称であり、『百済本紀』とは百済王朝が倭国(ヤマト王権)に迎合的に書いた史書で、従来の研究はこの史書の成立事情を考慮してこなかったと批判し、任那日本府について近代での朝鮮総督府のようなものが想定されることが多いが、実態は、半島南部の倭人の政治集団としている。三国志『魏志』韓伝に倭について記載があるが、この倭は、百済や新羅が加羅諸国を呼称していたもので、百済・新羅に国を奪われた加羅諸国の政治集団を指すとする。『百済本紀』の編者は、この加羅諸国の別名と、日本列島の倭国とを結びつけたのであり、任那日本府と大和は直接的には何の関係も持たないと主張した。請田正幸は「日本府」とは政治的な機関・機構ではなく、使者の意味であり、実体は倭王権が派遣した単なる使者であるとし、吉田晶は、倭国が国を形づくる上で海外の異民族を支配下に置く必然性がなく、国家を形づくる上で主体となる畿内勢力が朝鮮諸国の発達した文化を独り占めすることが要だったと主張、「日本府」の実態を倭王権から派遣される府卿と加羅諸国の首長(旱岐)層もしくは上級貴族から成り立ち、外交を始めとする重要な事柄を論議する会議だと主張している。1990年代になると伽耶研究の対象が従来の金官伽耶・任那加羅(いずれも金海地区)の倭との関係だけではなく、井上説を支持する田中俊明の提唱するところの大伽耶連盟の概念により、高霊地域の大伽耶を中心とする伽耶そのものの歴史研究も一部みられるようになった。また、1990年代後半からは主に考古学的側面から、卓淳(昌原)・安羅(咸安)などの諸地域の研究が推進される一方で、1983年に慶尚南道の松鶴洞一号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳であるとして紹介されて以来相次いだ朝鮮半島南西部での前方後円墳の発見や新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているヒスイ製勾玉の原産地が糸魚川周辺に比定されている事などを踏まえ、一部地域への倭人の集住を認める論考が相次いで提出された。こうした中、吉田孝は、「任那」とは、高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国と結んだ任那加羅(金官加羅)を盟主とする小国連合であり、いわゆる地名である伽耶地域とは必ずしも一致しない政治上の概念であり、任那が倭国の軍事力を勢力拡大に利用するために倭国に設置させた軍事を主とする外交機関を後世「任那日本府」と呼んだとし、百済に割譲した四県は、倭人が移住した地域であったとする。また、532年の任那加羅(金官加羅)滅亡後は安羅に軍事機関を移したが、562年の大加羅の滅亡で拠点を失ったとしている。吉田は一時期否定された4世紀の日本府について金官加羅の主導性を認めつつ倭国の軍事的外交機関とし、任那が、倭の軍事力を利用する政策の一環として当該地域に倭人(倭系豪族)が移住することになったと述べている。宮脇淳子は、「かつて朝鮮半島南部にあった『任那日本府』とはどういうものであったかというと、商業ルートの洛東江沿いに建設された都市同盟である『任那』諸国の中に、倭人の『将軍府』、つまり軍団司令部と屯田兵部落があったと考えられる。」とする。鬼頭清明は、「任那日本府」がヤマト大王家の命令に基づいて行動する倭国の支配機構という見解は既に否定されていると主張。日本書紀に、日本府が加耶諸国の安羅にあると記述されており、安羅土着豪族の倭府に存在して、加耶諸国の政治的な会議の際にはメンバーとして加わったとした。更に『日本書紀』の任那日本府関連記事編纂の思惑は「任那の調」の始まりを物語るためだが、実際に検証すると「任那日本府」は任那から調を徴集するような機関ではなく、任那を中心とする洛東江沿岸を直接支配していると判断するのは誤りと主張した。森公章の主張によると、『日本書紀』を読む限り言える点として、確実な史料は、6世紀以降にしか登場しないこと、所在地は安羅であること、正式名は在安羅諸倭臣であること、倭中央豪族、吉備臣などの倭地方豪族、伽耶系により構成され、実務は伽耶系が担っていたこと、倭本国との繋がりに乏しいこと、伽耶諸国と対等の関係にあり、協同で外交交渉を進めていること、が言えるとしている。田中俊明は、百済主導で、新羅によって滅んだ金官国の復興の話し合いを名目に、伽耶諸国の首長層を召集して、新羅ではなく百済側に付くよう説得したのが、いわゆる「任那復興会議」であり、「任那日本府」はこの会議に関連して日本書紀中に記されていると主張した。 田中は「任那日本府」の実体について、「倭からの使臣」でこのような会議に参加した、または、恒常的に開催される伽耶諸国の合議体に倭の使臣も参加していた、とする見解を否定している。田中は、大体この会議も安羅や大加耶などは消極的で、百済が懇願した結果開かれたものであり、この会議を「伽耶全体の合議体」とする解釈は大きな誤りだと主張している。会議が友好関係にある国のみの集まりという点は認めるものの、そこへの「任那日本府」( = 倭の使臣)の関与は個別的な事項に限られたとした。また「任那日本府」がこのような会議に関われたのは、安羅と倭の古くからの友好関係に立脚したもので、それ以上のものではないとした。また田中は、日本書紀の記述に基づいて、倭からの使臣は倭系安羅人に統制され、安羅の意思に沿うように会議で誘導されたとも主張している。日本の文部科学省は、2002年に新しい歴史教科書をつくる会による歴史教科書の「倭(日本)は加羅(任那)を根拠地として百済をたすけ、高句麗に対抗」との記述に検定意見をつけて「近年は任那の恒常的統治機構の存在は支持されていない」と述べている。森公章によると、現在は任那は百済や新羅のような領域全般ではなく、領域内の小国金官国を指す場合が多く、それらの複数の小国で構成される領域全般が加耶と称され、日本府は加耶に居住している倭人、特に倭と深い関係にあった小国安羅に居住している倭人の一団を指すという学説が有力視されている。2002年から2010年まで2回にわたり、第1次安倍内閣の主導による日本と韓国のそれぞれの学界の一部による「日韓歴史共同研究」がもたれた。日本側からは宋書倭国伝で、倭王武が宋朝より使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に封じられている記述が存在するのに、日本の朝鮮半島南部の征服や支配が全く無いと結論を出すのは不自然との指摘が出された。韓国側からは日本の支配があったのに否定的な意見が出された。韓国の研究者は、全般的に倭の影響力をできるだけ小さくみようとしており、金泰植弘益大学教授が、任那日本府と称されたところは安羅が倭人官僚を迎え入れた「実質的には安羅の外務官署」であり、また官僚は安羅の臣下だとして、安羅に従属していた倭人だとする。呼称についても「安羅倭臣館」とするのが適当などとする。そして、倭軍については「倭の派遣軍は貧弱で、加耶軍の意図のもと、対高句麗戦に投入された」と主張したが、濱田耕策は「(そのように)過小評価できない」との反論している。また、森公章は、「加耶諸国と共通の利害を有し、ほぼ対等な関係で彼らと接し、主に外交交渉に共同で従事した」独立した倭人が自らの意思で活動しており、さらに安羅は倭臣が自立した活動をしていた場所で、倭臣の安羅に対する隷属を否定するなど、不一致があった。しかし最終的な報告書では、大和政権の一部の勢力が朝鮮半島の地方で活動したことは認められるとしている。1983年に慶尚南道の松鶴洞1号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳であると嶺南大学の姜仁求教授が実測図を発表したが、後の調査により、松鶴洞1号墳は、築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので前方後円墳ではないとする見解を韓国の研究者が提唱したが、松鶴洞1号墳は、日本の痕跡を消すために、改竄工事を行った疑惑が持たれている。これに関して1996年撮影写真は前方後円墳であったものが、2012年撮影写真では3つになっているという指摘がある(出典先に写真あり)。これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、百済が南遷する前は伽耶の勢力圏の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。韓国の慶北大学の朴天秀教授は、韓国の前方後円墳は在地首長の墓を避けるように単発的に存在し、石室を赤く塗るものもあり、九州の古墳と共通点が多い為、被葬者は九州出身の豪族だった可能性を指摘している。また、朴は、全ての文化は韓国から日本に渡ったし、前方後円墳だってそうだ、という反応が1980年代の韓国ではあったが、それは間違いで、韓国の前方後円墳は5~6世紀に日本から韓国に渡った文化を示す例であるとし、朝鮮半島南部の倭の統治機関としての「任那日本府説」の存在を否定しつつ、一方で韓国民族主義の影響を強く受けた自国研究者の学説を厳しく批判し、この時代の朝鮮半島への倭の影響を認めている。世界各国では世界約50カ国で教科書を出版しているオックスフォード大学の出版社が制作している教科書は「5世紀の日本の勢力は朝鮮半島南部まで支配した」と記述している。また、プレンティスホール社が出版しているアメリカの教科書『世界文化』は「西暦400年ごろ、(日本は)幾つかの氏族が連合して日本の大半を統一し、朝鮮南部の地域を統治するまでに至った」と記述してあり、カナダやオーストラリアの教科書もまた、同様の記述が存在する。またコロンビア大学のオンライン百科事典や米議会図書館には、「古朝鮮は紀元前12世紀に、中国人、箕子が朝鮮半島北部に建てた国だ。その当時、朝鮮半島南部は日本の大和政権の支配下にあった」と書かれている。中華人民共和国では上海人民出版社が出版している教科書『世界史講』は「新羅は、半島南方で 早くから長期間にわたって倭人の基盤となっていた任那地区を回復した」と記述している。中華人民共和国の外務省は、同省のホームページの日本史介欄で、「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期にその勢力が朝鮮半島の南部にまで拡大した」と記述していたが、韓国政府からの抗議を受け、日本紹介欄から第二次世界大戦以前の日本歴史部分を全て削除した。
出典:wikipedia
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