アルトマルク (Altmark) は、ドイツ海軍(Kriegsmarine)のタンカーである。母港を遠く離れ、長期間に渉り通商破壊戦を遂行する艦船に公海上で敵の攻撃を警戒しつつ燃料のみならず、必要物資を供給したドイツ海軍の補給艦である。1937年から1939年に同型5隻が建造された内の1隻。同艦は1938年にハンブルクのブローム・ウント・フォス社で建造された。船名「アルトマルク」はプロイセンの揺りかごと呼ばれるアルトマルク地方 () に由来する。第二次世界大戦開戦時、アルトマルクは大西洋で通商破壊戦を準備するポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーを支援する任務に就いた。アドミラル・グラーフ・シュペーは餌食とした多くの敵商船から脱出した乗組員を救助し、これらの民間人船員の世話をアルトマルクに任せた。1939年12月、モンテビデオでアドミラル・グラーフ・シュペーが自沈した後、アルトマルクはイギリスの北を通りノルウェー沿岸に沿ってドイツに戻ろうとした。イギリス機に発見され駆逐艦コサックに追跡されたアルトマルクは、1940年2月、中立国ノルウェーの領海に逃げ込んだ。アルトマルクは救助されたイギリスの商船乗組員303名を乗せていた。2月16日、中立国の領海であるにもかかわらず駆逐艦コサックの乗員がアルトマルクに乗り込み、アルトマルク乗組員7人を殺し、捕われていた商船乗組員を奪還した。この出来事は、アルトマルク号事件と呼ばれ、英国では成り行きの予測できない不透明な戦局に光を当て大喝采を浴びた。英海軍のこの行為はノルウェー政府の中立性を疑わせるものであり、ドイツがノルウェー侵攻を決定する理由ともなった。アルトマルクは、1940年8月6日にウッカーマルク () と改名された。この船名も北ドイツの景勝の地の名前である。1942年9月9日、ウッカーマルクは日本に向けてフランスを離れた。途中、仮装巡洋艦ミヒェルへの補給を行い、インドネシアで日本向けの石油を積み込み、1942年11月24日に日本の横浜に到着した(ドイツ語リンクにはソ連の砕氷船の助けを借りて北極海を横切り太平洋に出たという記述がある)。11月30日、埠頭に停泊中のウッカーマルクは、突如大爆発を起こした。向かい側の埠頭に停泊中のドイツ海軍の仮装巡洋艦トールと拿捕船であるオーストラリアの客船ナンキン(拿捕後ロイテンと呼ばれる)及び中村汽船所有の海軍徴用船第三雲海丸が道連れとなった。爆発は、油槽タンク付近で行われていた修理で使用された道具の火花とする説や、ウッカーマルクの油槽の清掃作業中の作業員による喫煙説が有力である。この爆発でウッカーマルクの乗組員は43人が死亡した。損傷がひどかったウッカーマルクは修理不能であり、スクラップとなった。
出典:wikipedia
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