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橘俊綱

橘 俊綱(たちばな の としつな)は、平安時代中期から後期の貴族・歌人。摂政・関白・太政大臣を務めた藤原頼通の次男として生まれるが、頼通の正室・隆姫女王の嫉妬心のために、讃岐守・橘俊遠の養子とされる。『今鏡』によると、俊綱の母・祇子は俊綱を懐妊したのちに橘俊遠の妻となったが、懐妊がはっきりしない頃であったため、俊綱をそのまま俊遠の子としたともいう。実際には、以降も祇子は頼通の子を儲けていることから、隆姫への配慮のために、懐妊した祇子と俊遠を形式的に夫婦としたとも考えられる。摂関家の子弟にもかかわらず、尾張守・丹波守・播磨守・讃岐守・近江守・但馬守と地方官を歴任し、位階は正四位上にとどまった。寛治7年12月(1094年1月)に自ら造営を手がけた伏見の別邸が焼亡すると、約半年後の翌寛治8年(1094年)6月頃重病により出家し、7月14日に卒去。享年67。最終官位は正四位上修理大夫兼近江守。造園に造詣が深く、日本最古の庭園書である『作庭記』の著者の有力候補とされる。伏見の別邸は俊綱自ら造園を行い、「風流勝他、水石幽奇也」と賞賛された。『今鏡』において、弟の藤原師実が伏見の別邸を突然訪ねるも俊綱が豪奢にもてなした話や、俊綱が白河院に対して、院が造営した鳥羽殿より伏見の別邸の方が優れていると問答をしたとの話が語られている。歌人としても活躍し、特に伏見の別邸は「伏見にては、時の歌詠みども集へて、和歌の会絶ゆるよなかりけり。」(『今鏡』140段)とあり、伏見の別邸で頻繁に歌会が開催されていたことが窺われる。『後拾遺和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に13首が入集。笙・琵琶など音楽にも優れていたという。『宇治拾遺物語』には、昔尾張国の俊綱(すんごう)と言う僧侶であった時、熱田神宮の大宮司に侮辱を受けたが、のちに関白の息子として生まれ変わり尾張守となって、今度は熱田神宮の大宮司にかつての雪辱をした、との説話がある。『十訓抄』等にも俊綱に関する説話がある。

出典:wikipedia

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