盧 芳(ろ ほう、生没年不詳)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。字は君期。涼州安定郡三水県(寧夏回族自治区同心県)の人。兄は盧禽。弟は盧程。北方辺境で活動し、一時は皇帝を自称した、新末後漢初の群雄の1人である。王莽の統治期に、民衆が未だ漢代を思慕しているのを見て、盧芳は武帝の曾孫・劉文伯を自称し、後に三水県の北方民族と共に挙兵した。更始2年(24年)に更始帝(劉玄)が長安に遷都すると、盧芳は騎都尉に任命されて、安定以西の鎮撫を命じられている。更始3年(25年)に更始政権が滅亡すると、三水の豪傑たちは漢の皇族を自称していた盧芳を上将軍、西平王として擁立し、西羌、匈奴と和約を結んだ。そして匈奴単于(単于與)は配下の句林王をして、盧芳、盧禽、盧程を匈奴支配地域に招き、盧芳を漢の皇帝として擁立している。建武4年(28年)、単于(単于與)は無楼且渠王を遣わし、李興、閔堪など并州に割拠していた群雄と和親を結び、さらに盧芳を漢皇帝として内地に還したいと告げた。翌建武5年(29年)、盧芳は李興、閔堪らから迎え入れられ、九原県(五原郡)を根拠地として北方辺境に割拠し、五原、朔方、雲中、定襄、鴈門の5郡を占領した。建武6年(30年)、何らかの事情により、盧芳は腹心の五原太守李興とその兄弟を誅殺したため、同じく腹心の朔方太守田颯と雲中太守橋扈が盧芳に反して光武帝(劉秀)に降ってしまう。それでも盧芳は、後漢の大司馬呉漢や驃騎大将軍杜茂の度重なる討伐を撃退した。しかし建武12年(36年)、盧芳が雲中を攻略できなかったことが原因で、部将の隨育から光武帝に降伏するよう脅され、万事休した盧芳は軍を放棄して匈奴の支配地に逃げ込んだ。建武16年(40年)、盧芳は高柳(代郡)に入り、閔堪とその兄閔林を使者として、光武帝に降伏を申し入れた。光武帝は盧芳を代王に封じ、閔堪を代の相、閔林を代の太傅に任命し、盧芳らに匈奴との修好を担当させようとしている。そして、建武17年(41年)の入朝を求める光武帝からの詔を受けて、盧芳は洛陽へ向かおうとした。ところがその途中で、何故か光武帝は、入朝はその次の年(建武18年)に延期するよう求める詔を発する。これにより疑心を抱いた盧芳は、代に戻ってから再び反逆し、部下の閔堪や閔林と数ヶ月にわたって攻防戦を繰り広げた。間もなく匈奴の救援を受け、妻子と共に匈奴支配地域へ引き返した盧芳は、それから10年余り後に同地で病没した。
出典:wikipedia
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