欽ドン!(きんドン!)とは、1970年代にニッポン放送で放送されたラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!』、1970年代にフジテレビ系列で放送された萩本欽一司会のバラエティ番組『欽ちゃんのドンとやってみよう!』の略称および、1980年代に放送されたその続編シリーズの総称である。本項では2000年代にニッポン放送で放送されたラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!野球盤』『欽ちゃんのドンといってGO!GO!』、ニコニコ生放送で2015年に開始した『欽ちゃんのドーンとゴールド!』についても述べる。『欽ちゃんのドンといってみよう!』(きんちゃんのドンといってみよう)は、1972年10月9日から1979年4月6日までニッポン放送などで放送されたラジオ番組。コント55号での活動に限界を感じつつあった萩本が、新たな笑いの可能性を探ろうと始めたリスナー参加型のラジオ番組である。専門作家や芸人ではない一般のリスナーからテーマに沿ったコントを投稿させ、それをラジオで流してよいものを選ぶというスタイルだった。元は、この直前まで同じニッポン放送の土曜日24:00 - 25:00で、1972年4月から同年9月の6か月間放送されていた『どちら様も欽ちゃんです』の中で、聴取者の投稿からコントを募るコーナーとしてスタートし、好評だったことから単独の番組となった。スポンサーは集英社の一社提供で、萩本により番組の冒頭と終盤に「キミの心をつかむ、集英社がお送りする(した)『欽ドン』」と紹介された。放送は平日夜の帯枠で曜日ごとにテーマが決まっていた。以下は代表的なものである。毎回オープニングには「今日のキャッチフレーズ」、エンディングには「今日の一言」という教訓のパロディ(五七五のもの)が、リスナー投稿から選ばれて読まれていた。投稿作品にはその出来によって、スポンサーである集英社の雑誌名にちなんだ賞が贈られた。笑いをとったネタには上記の賞が用意されていたが、そこそこ良くできてはいるが面白くないネタや多数送られてきた同一ネタなどのハガキは、萩本が「キレイだね!」と言って「キレイ箱」なる箱に突っ込んでいた時期もあった。パーソナリティは萩本と女性のアシスタント“笑い姫”である。収録に来ていたパジャマ党のメンバーやディレクター等のニッポン放送のスタッフの声が入ることがあった。パジャマ党の存在はリスナーにも知られるようになり、投稿のネタとしても(内輪ネタ的に)使われたりした。ラジオやテレビの裏側には制作スタッフがいることを視聴者に隠さず示し、それまで邪道とされていた楽屋落ちまでも積極的に使用したことも、以後の番組制作やタレントの言動に大きな影響を与えており、画期的なことだったと評価されている。萩本が企図した「既成の作家や芸人とは違った笑いの発掘」という狙いは当たり、それをもとに萩本はこれをテレビ企画とすることを構想するに至る。テレビの『欽ちゃんのドンとやってみよう!』がヒットした後もラジオの欽ドンは続いたが、1978年12月に行われた「最高のコントに10万円を出す」という「欽ドングランプリ」の企画を花道として、1979年4月6日(欽(金)曜日)に7年間の放送を終了した。なお、これより6か月後の1979年10月からは、ナイターオフ期間限定の番組として、同じくニッポン放送で『欽ちゃんのここからトコトン』(毎週土曜日18:00 - 19:00、1979年度のみ18:30 - 19:30)がスタート、1984年3月まで5期間続けて放送されていた。その中で一度「帰ってきた欽ドン」なる企画もあった。また1987年10月からのナイターオフ期間にも、『ニュースワイド 欽ちゃんのもっぱらの評判』(毎週金曜日18:00 - 20:00、19:00 - 19:30のコーナー「ニッサン オールニッポン・シリトリグランプリ」のみ全国ネット)が放送された。時差ネット含『欽ちゃんのドンといってみよう!野球盤』(きんちゃんのドンといってみよう やきゅうばん)は、ニッポン放送で2007年10月4日から2008年3月20日まで、日本標準時毎週木曜20:30 - 20:50に放送された番組。ガリバーインターナショナルの一社提供であるため、提供クレジット上のタイトルは『ガリバープレゼンツ 欽ちゃんのドンといってみよう!野球盤』となる。萩本にとっては『ニュースワイド 欽ちゃんのもっぱらの評判』以来、19年ぶりのラジオレギュラー。タイトル通り、野球関連のネタコーナーに加え、野球選手などをゲストに招いたトーク展開。構成は鶴間政行が担当。いずれも同時ネット『欽ちゃんのドンといってGO!GO!』(きんちゃんのドンといってゴーゴー)は、2008年10月4日から2009年3月21日までニッポン放送で放送された番組。前番組「欽ちゃんのドンといってみよう!野球盤」に引き続き、ニッポン放送ナイターオフシーズンの欽ドン!シリーズとして、毎週土曜21:00-21:30(日本標準時)に放送された。『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(きんちゃんのドンとやってみよう)は、1975年4月5日から1980年3月までフジテレビ系列で放送された萩本欽一のバラエティ番組。毎週土曜19:30 - 20:54(1975年9月までは20:55まで)に放送された。1970年代中期、欽ちゃんこと萩本欽一を起用した番組で土曜夜8時枠で挑戦。もともとは上記ラジオ番組のヒットから企画を起こし、1974年9月21日の20:00 - 20:55(土曜特番第3回。後のレギュラー放送と一部が同じ)にテレビ化トライアル番組『欽ちゃんのドンと行ってみよう!ドバドバ60分!』を放送。この番組は視聴率が一桁と振るわず、惨憺たる結果を生んだが、意外にも業界内での好評を得たことによって、翌1975年の春よりレギュラー化された。当初、初期の正式タイトルは『萩本欽一ショー・欽ちゃんのドンとやってみよう!』だった。フジテレビ土曜夜8時枠は元々、1968年より坂上二郎とのコンビで主演した『コント55号の世界は笑う』が放送されていた枠である。55号としてはもちろん、同時に芸人(チーム名)を冠にした初のゴールデンタイムにおけるカラー放送のバラエティ番組で、体力の限りを尽くした縦横無尽のステージコントは55号人気の絶頂を決定付けることとなり、視聴率30%以上の高視聴率を誇った。しかし1969年にスタートした後発の『8時だョ!全員集合』の激しい追い上げによって、1970年4月に『コント55号のやるぞみてくれ!』にリニューアルするも失敗、放送期間1年11ヵ月をもって番組は終了してしまう。以後、ドリフ天下のバラエティ界のなか、同時間帯におけるレギュラー版『欽ドン!』のスタートは、萩本個人としても初の企画・主演番組であることもあり、相当の気合を込めて制作された。アシスタントとして当時新人の香坂みゆきが出演している。なお、1977年4月 - 8月と1978年4月 - 8月、1979年4月 - 8月までは、萩本の企画構想期間として同番組は一旦中断。1977年4月 - 8月は、伊東四朗らをメインキャストとした同じく常田久仁子プロデューサー・三宅恵介ディレクターの『がんばれ!ピンチヒッターショー』を、1978年4月 - 8月は『土曜グランドスペシャル(第1期)』もしくは『ニューヤンキース』を、1979年4月 - 8月は『土曜グランドスペシャル(第2期)』(厳密には枠名称は無し)をそれぞれ穴埋め番組として放送していた。これは、視聴率へのこだわりが強い萩本が、自身の冠番組をナイター中継の裏では絶対にやらないという強い意向を持っていたからである。そのため、以後の萩本のプライムタイムでの冠番組は、すべて21・22時台に放送されており、19・20時台に放送されたものはいずれもプロ野球シーズンオフのみである(1988年4月 - 6月に放送された「欽ちゃんの気楽にリン」(日本テレビ、水曜夜20時 - 20時54分を除く)。なお『土曜グランド』(第1期)では『欽ドン!』ファンのために、1978年6月17日・同年7月29日・同年8月19日3回に渡って、『欽ちゃんのドンとやってみよう!○月編』(『○』には放送月が入る)が放送されたが、『土曜グランド』でレギュラー的な存在のニューヤンキースは出演しなかった。綿密に計算されたコント中心の『全員集合』と異なり、『欽ドン!』は視聴者からのハガキ投稿を中心に、萩本が得意とするアドリブを主体にした番組構成である。NGでも面白がって放送してしまう手法は、三宅恵介ディレクターをはじめ欽ドンを担当したスタッフや作家陣が多数参加し後の土8枠を彩る『オレたちひょうきん族』への礎となり、以降同枠に続く『めちゃ×2イケてるッ!』をはじめとするフジのバラエティ番組の伝統的手法となる。番組中、市井の一般人にタイトルコールをさせたり、萩本が股旅姿で観光地などに現れ、一般人を模造刀で斬るふりをして一般人が「ウワー」などと叫んで倒れるという場面が度々登場する。この手法は後に、『ひょうきん族』の「タケちゃんマン」コーナー冒頭の、一般人が空を指さして「あっ、タケちゃんマンだ!」と叫ぶ場面に受け継がれている。第1期のオープニングはかなりの異色で、萩本では無く、外国の女性が出て来るフィルムが映し出され、「アレッ?」と視聴者が思った所で、女性が「キンド〜ン、キンド〜ン…」と呟く演出になっていた。初回の視聴率は17.1%。放送後、スタッフの電話によって初回にしてはいきなりの高視聴率の結果を知った萩本は、受話器を握り締め涙したというエピソードがある。番組で採用されたハガキには、面白かった順にバカウケ/ややウケ/ドッチラケのランク付けをされていた。なかでも「バカウケ」は当時の流行語にもなった。これは芸人の隠語を一般向けに使用したものと言われ、『欽ドン!』の代名詞「良い・普通・悪い」へとつながったと見る者もいる。本番組の放送期間中の1977年1月 - 1979年1月に同じフジテレビ系で同じ土曜日に放送されていた『ヤッターマン』に登場するコックピットメカ「ちんちろりんのドッチラケ」は、本番組に由来している。この番組で、萩本欽一は前川清とコント54号としてコンビを組んだ。それまでの前川は「お笑い」に縁がないクールな二枚目イメージで売っていたが、萩本にお笑いの才能を引き出され、大成功を収めている。また、前川がリードボーカルを務めていた内山田洋とクール・ファイブもレギュラー出演。持ち歌を歌うだけでなく、歌の前の萩本とのトークコーナーで萩本から“いじられる”ことにより、前川以外のメンバーのキャラクターも、より広く親しまれることとなった。ほか第1期継続中の1977年1月1日には、初めて放送が元日と重なった事、更に裏で『全員集合』(通常放送)が編成された関係上、当時ドリフもレギュラー出演していた正月恒例『第14回新春スターかくし芸大会』が翌々日の1月3日放送となったので、本番組の元日特別版を放送した。番組は2部構成で、19:30 - 20:54の第1部『欽ちゃんのドンとやってみよう!元日おたのしみ特集』では、萩本とレギュラーのクール・ファイブがご挨拶を行い、研ナオコ・和田アキ子・内藤やす子らとカルタ取りを行ったり、同局放送中の『相性診断!あなたと私はピッタンコ』(関西テレビ制作)を萩本らで行うなどの内容。そして21:00 - 22:48の第2部『お正月!欽ちゃんのまだまだやってみよう!』では、「おめでたコント大会」と銘打ったコント集を、西城秀樹・森昌子・石川さゆりらや、中村メイコ・神津善行夫婦と共に行った。余談だが、翌年(1978年)の元日は、前日(1977年12月31日。土曜日)に『第19回日本レコード大賞』放送のために休止になった『全員集合』の差し替え版が編成される関係上、『かくし芸』は1月2日放送となったため、フジテレビは21:00の『アッ!はぷにんぐ・ニューイヤー』を除き、18:00以降は全て通常番組が編成、そのため萩本司会の『オールスター家族対抗歌合戦』も放送されたので、萩本は2年連続して元日に持ち番組を放送できた。また、前述の『レコ大』が放送された12月31日のフジテレビでは、19:30 - 20:54に子供向け年末特別番組『'77わんぱくチビッコ大集合!』が編成されたが、この番組にも本番組から萩本と前川が出演した。『欽ドン!良い子悪い子普通の子』(きんドン よいこわるいこふつうのこ)は、1981年4月6日から1983年9月12日まで、フジテレビ系列にて毎週月曜21:00 - 21:54に放送されたバラエティ番組。よくある家庭をベースにしたセットで前番組の人気コーナーの「母ちゃんと子供の会話」と「三段落ち」を組み合わせたような内容。父親役の欽ちゃんに息子の「フツオ」「ヨシオ」「ワルオ」との会話で笑いをとった。会話は視聴者からの投稿がベース。バラエティ番組であるため地上波での再放送は行われなかったが、CSでは開局間もないフジテレビ721で一部再放送が行われていた。2015年11月12日よりファミリー劇場にて再放送が行われ、6週に渡り2回分放送される。また事前番組として、お笑い好きの喫茶店のマスターとして大谷ノブ彦(ダイノジ)、喫茶店の客として、萩本の番組を始め多くのバラエティー番組のディレクターを務めた三宅恵介、萩本の全盛期を知らない壇蜜が出演し、萩本やそれ以外の芸人、昔のバラエティー番組の事を語る「燃えよ欽ちゃん」が10分番組として6週に渡って放送される。前身となった『欽ちゃんのドンとやってみよう!』が一応の成果を収めて終了し、次の段階を伺うべく、再びラジオの世界に戻った萩本がニッポン放送で開始した『欽ちゃんのここからトコトン!』内で、再び聴取者からのハガキ投稿コーナーを開始。ある日の放送で、ラジオのスタッフにいた若手作家によって放送台本の片隅に、その週のテーマとして何気なく書かれた「良い子悪い子普通の子」という文字を見て、萩本は「コレだ!」と次への構想をひらめく。これが人気番組、最初の第一歩となった。早速企画書にまとめあげた萩本は、フジテレビ以外の各局を駆け巡った。しかし「放送枠がない」「次の改編に間に合わない」という理由で却下されてしまい、フジテレビに最後にかけあった。当時、萩本はフジで『欽ちゃんの9時テレビ』(1980年10月13日 - 1981年3月23日、月曜夜9時放送)というバラエティ番組の司会を担当していた。「どか〜ん!のど自慢」のコーナーに多少の人気が集まっていたものの、視聴率的には振るわなかったことから、番組の降板を申し出ていた。しかし、局の編成担当者は「元々、フジの月曜夜9時は、開局以来20年間不振の枠なので数字のことは気にせずに。それよりも月9枠は、向こう10年は欽ちゃんに任せたから」と、萩本にとっては何物にも変え難い信頼の言葉を得ていたこともあって、一瞬のひらめきから「スグにでも番組化できる」と自信を持った萩本と、1981年の春改編にも間に合うかというフジの具体的思惑が一致したことから、番組は開始された。この当時の萩本は、『欽ドン!』とテレビ朝日『欽ちゃんのどこまでやるの!?』、TBS『欽ちゃんの週刊欽曜日』『ぴったし カン・カン』、さらにはフジテレビ『オールスター家族対抗歌合戦』とヒット番組を抱え、その合計数字から「視聴率100%男」の異名を取る程の勢いだった。西山はすでに初代『欽ドン!』(「欽ドン劇団」)に出演していたが、長江、山口にとっては「出世作」となった。3人の息子役は一般オーディションで選出された。オーディションが終了した時点では普通の子に山口、良い子に西山が選ばれており、悪い子は該当者無しで、長江はオーディションに落選していた。悪い子の配役が決まらず困っていたスタッフが、オーディション会場に居残っている長江を見つけて配役を変えて試したところ、しっくりきたため、上記の配役に決定したというエピソードがある。フツオ、ヨシオ、ワルオの3人がイモ欽トリオを結成、『ハイスクールララバイ』(フォーライフ・レコード)でレコードデビュー、大ヒットする。当時、レコードの歌詞カードに記載されていたプロフィールで山口の生年月日が、他の2人より年上だったことから『不明』とされていた。後に萩本欽一はこの曲は「欽ドン!良い子悪い子普通の子」開始時点で既に出来上がっていたと証言している。フツオ役は、長江が翌年に大学受験を控えていたために1982年9月27日で降板。その後、2代目フツオとして後藤正に交代される。しかし、1983年1月にシングル『ティーンエイジ・イーグルス』がリリースされたのを最後に、イモ欽トリオとしての活動は自然消滅となり、後藤も1983年5月2日に降板、そのまま芸能界引退。1983年5月9日からは、一般公募により最終選考まで残った沢村雅彦、大野哲也、境田晃一の3人がそれぞれフッくん(沢村)、ツッくん(大野)、オッくん(境田)として3代目フツオを演じた。3人のフツオ役を競わせ、最終的に境田が次番組の『欽ドン!良い子悪い子普通の子おまけの子』でフツオ役を演じることになった。良い妻、悪い妻、普通の妻では「よし子」「わる子」「ふつ子」の三役を中原理恵が演じた。中原は、ニッポン放送『欽ちゃんのここからトコトン』やテレビ朝日『欽ちゃんのどこまでやるの』などにゲスト出演した際、そのトークの面白さを萩本に買われ、レギュラーに起用されることとなった。それまでお笑いとは程遠い「都会的でクールな美女」というシリアスイメージだった中原が、そのイメージを打ち破る見事なコメディエンヌぶりで三役を演じ分け、「おーみーごーとー」(よし子)などのギャグとともに人気大爆発。 歌手として1978年にデビュー、「東京ららばい」「ディスコ・レディー」などが大ヒットとなり『NHK紅白歌合戦』にも出場したが、1979年以降はヒット曲には恵まれずやや地味な存在になっていた中原が、この番組で人気が再ブレイク。以後、映画・ドラマ・バラエティ・CM等、各方面で大活躍することとなる。中原が中途降板したのは不倫騒動を起こし、萩本が激怒したためとの噂が流れたが、実際は歌手活動を続けたい中原の意志もあり、コメディエンヌとして飽きられぬよう萩本が充電の必要性を認めたためといわれる。中原降板後、コーナーが終了するまでの間、島倉千代子や森光子などの著名な歌手や女優が毎回ゲストとして登場し、良い妻、悪い妻、普通の妻を演じている。更に新キャラクターとして良いOL、悪いOL、普通のOLが登場。このOL3人組は、よせなべトリオとして1982年8月5日に「大きな恋の物語」でレコードデビューも果たし、オリコン最高位8位、売上16.8万枚を記録するヒットを飛ばす。歌番組に出演することもあったが松居抜きでの出演が多かった。これは松居はデビュー当時中学生で、18歳未満の者の21時以降の就業を禁じた、労働基準法の従来規定に抵触していたため。松居にとってはこのコーナーが「出世作」となった。番組の後半は萩本が白衣姿の博士、レギュラーメンバーが門下生に扮して、テーマ自由の「良い、悪い、普通」を発表する「萩本博士の研究レポート発表会」のコーナー、「日記」のコーナーが放送された。また、萩本と車だん吉が名作映画の一場面を再現して笑いをとるコントが、随時挿入された。番組での各コーナーで披露されるネタは一般からハガキで募集し、採用された人には番組からオリジナルトレーナーがプレゼントされた。オリジナルトレーナーは基本的に改編期ごとにデザインが変わり、また、欽ドン賞獲得者には2枚贈られるというルールの存在もあり、採用数最多の投稿者がそれらをツギハギしてクッションカバーを作ったとのエピソードが番組で紹介されたこともある。一度だけ良い子・悪い子・普通の子のコーナーで、萩本が客いじりの流れから、一般観覧者が持参したハガキをもとにコントを行った事があり、ネタ的には通常なら採用されないレベルの内容だったが、放送されたという理由から、その場で萩本がオリジナルトレーナーを手渡している。ただし、真似する観覧者が出ないよう、今回だけの特別である事を番組内で萩本が明言している。1982年10月18日、この日は19:00から「横浜大洋×中日」(横浜スタジアム)の中継が行われ、中日は勝つか引き分けでリーグ優勝、負ければ巨人がリーグ優勝という状態だったが、本番組開始の21:00になっても決着が着かなかったため、急遽本番組を生放送に切り替え、OP抜きで萩本と息子たちが登場し、萩本が息子たちに「お前たち、どうするんだ?」と問い掛けると、息子たちはそれぞれ「野球が見たいですねえ」と返事したため、映像を横浜スタジアムに変えて中継を続行し、「中日の勝利→中日優勝」のシーンが放送された。
なお、後に番組末期に放送された「欽ドン!クイズ」(「欽ドン!スペシャル」の一企画)では当時中日に在籍していた牛島和彦(放送時点ではロッテオリオンズに移籍)が出題者として登場した。『欽ドン!良い子悪い子普通の子おまけの子』(きんドン よいこわるいこふつうのこおまけのこ)は、1983年9月19日から1985年5月6日まで、フジテレビ系列にて毎週月曜21:00 - 21:54に放送された番組で、『欽ドン!良い子悪い子普通の子』のリニューアル版。『欽ドン!良い子悪い子普通の子』の放送末期に3人いたフツオは、オッくん役だった境田晃一が演じる。また、これまでのメンバーに遠藤由美子演じる『おまけの子』ゆみこが新たに加わる。『欽ドン!』シリーズで一番長い文字数のタイトルとなった。新キャラクターとして、先生3人組が登場。後に『おまけの教頭』も登場( - 1984年12月10日)。後に先生に代わり刑事となる。(1984年12月17日 - )良いお婆ちゃん 悪いお婆ちゃん 普通のお婆ちゃんでは、山口良一がお婆ちゃん三役を演じ、萩本の妻を志穂美悦子、おまけのお爺ちゃんを西山浩司が演じた。下宿人( - 1984年12月10日)娘(1984年12月17日)番組後半では部活動をモチーフにしたコントが演じられた。このコーナーには萩本は登場せず、すべて若手たちが演じていた。また、山口が花形満をもじった“花柄満”なるキャラクターに扮して、野球をモチーフにしたコントが演じられるのが定番となっていた。番組エンディングとして「翼よ!」(作詞:石原信一、作曲:あかのたちお、歌:松本新吾)をバックに、山口と西山が出演する青春ドラマ風の映像が流れていた。1985年に萩本の休養により、その年の3月25日で通常の構成の番組は打ち切られ、残りの回はコントの内容などを一部ダイジェスト用に編集した総集編で埋めた。また、萩本の休養の間の月曜夜9時枠は宇崎竜童、所ジョージ出演のバラエティ番組『夜はタマたマ男だけ!!』(1985年5月13日 - 9月23日)を埋めた。『〜おまけの子』終了から23年半後の2008年10月15日に、フジテレビ開局50周年記念DVDとして、『欽ドン!良い子悪い子普通の子』のDVD-BOXが発売された。『マイルド欽ドン!』(マイルドきんドン)は、1985年10月7日から1986年4月28日まで、フジテレビ系列にて毎週月曜21:00 - 21:54に放送された番組。前シリーズ『欽ドン!良い子悪い子普通の子おまけの子』から半年のブランクを得て、欽ドン!シリーズが再開された。基本コンセプトは同じで、旅館編(宮川大助・花子、角野卓造が出演)などが放送された。角野の他にもレギュラー出演者に黒沢年男、水野久美など俳優が名を連ねコントを繰り広げた。番組の後半は「わかんない奴」のコーナーで「○○する奴」という風に視聴者からの投稿で発表するものだった。投稿ハガキの宛名の間違いを紹介するコーナーが1回だけ紹介され、「マイルド鉄ドン!」や「マイルド鈴ドン!」など「欽」の文字の間違いがあったが、極めつけは「ソフト欽ドン!」「マイルドドンドン!」などの大掛かりな間違いのはがきも紹介された。『欽ドン!お友達テレビ』(きんドン おっともだちテレビ)は、1986年5月5日から10月27日まで、フジテレビ系列にて毎週月曜21:00 - 21:54に放送された番組。シブがき隊がレギュラーに参加。ステージ上でのコントに加え、観客を入れずに収録する形式のコント(教師編など)が加えられた。『欽ドン!ハッケヨーイ笑った!』(きんドン ハッケヨーイわらった)は、1986年11月3日から1987年2月9日まで、フジテレビ系列にて毎週月曜21:00 - 21:54に放送された番組。前半は電話による視聴者参加ネタコーナー、後半は視聴者からの投稿ハガキやゲストが紙相撲を持参し、それを元にデザインした着ぐるみを関根勤、ジミー大西、当時まだ大阪でも大ブレイクする前のダウンタウンが着て、等身大の紙相撲となって対戦する、という構成で放送された。審判部長をジミーの師匠のぼんちおさむが務めた。また、放送開始3カ月前の『第6回全国高等学校クイズ選手権』(日本テレビ)においてボケ解答を連発して、一躍有名になった相馬高校の生徒がレギュラー出演者となったが、ほとんど発言の機会はなかった。『欽ドン!』史上最も大幅なリニューアルとなったが、視聴率は不振を極め、わずか3カ月で終了した。後に島田紳助がダウンタウンに向かって「ハッケヨーイ終わった」と揶揄する発言があったほどである。この番組は、開始当初は生放送だったが、開始数週経過後から、後半の相撲コーナーのみ前週に事前収録したものを放送する部分収録スタイルへ変更した。さらに前半パートがテコ入れのために相撲コーナーに変更されると、前半部分も収録となり、最終的には一般的な事前収録番組となった。「マイルド欽ドン!」と同様、投稿ハガキの宛名の間違いを紹介するコーナーが1回だけあり、「黄ドン!ハッケヨーイ怒った」という大掛かりな宛名の間違いも紹介された。なお、エンディングでスタッフ紹介のクレジットタイトルが流れる時は、縦書きで画面下に、左から右へ流れ、スタッフの名前も本名に「 - 山」や「 - 富士」などが付け加えられるなど、四股名風のものになっている。オープニングとエンディングでのスポンサー紹介の時には、そのスポンサーの名称が入った大相撲の懸賞幕のような幕を掲げて、土俵のセットの周りを回り、テレビ画面ではそのスポンサー名のアップになる、というものになっていた。『欽ドン!スペシャル』(きんドン スペシャル)は、1987年2月16日から3月23日までの間、フジテレビ系列にて毎週月曜21:00 - 21:54に放送された番組。『欽ドン!』シリーズ最末期に放送された。
前述の「ハッケヨーイ笑った!」が早々に打ち切りとなり、この年の春の改編で連続ドラマ枠が6年半ぶりに放送再開することが決まり、その残り期間に『欽ドン!』スペシャルとして放送された。初回と第2回は「良い子悪い子普通の子」の復刻スペシャルとして長江、山口、西山、境田が当時の役柄で出演(長江と境田はこれが初対面だった)。
初回では萩本と当時のコントを再現し、第2回ではイモ欽トリオが復活して「ティアドロップ探偵団」「ハイスクールララバイ」の2曲を熱唱。当時参加していなかった境田も長江とのパート交換で初めて唄った。
なお第1回には明石家さんま(当時31歳)がゲスト出演、学生服姿で萩本とコントで初共演し、散々ダメ出しを喰らっていた。第3回と第4回は「欽ドン!クイズ」と称して過去の番組映像を題材にクイズを繰り広げた。
第5回と最終回は萩本が番組ゆかりの元出演者を訪ね歩く旅番組。境田の実家や気仙沼ちゃん一家が営む民宿を訪ねて旧交を温めるという内容で、これをもって約12年にわたって続いたTV版『欽ドン!』シリーズにピリオドが打たれた。『新春オールスター 欽ドン! 同窓会スペシャル』(しんしゅんオールスター きんドン どうそうかいスペシャル)は、1994年1月4日(火曜日)21:00 - 22:54にフジテレビ系列にて放送された特別番組。欽ドン!のテレビシリーズ放送終了から7年後の1994年1月4日、新春特番として欽ドン!のスペシャル番組を放送。ちなみにこの回は『欽ドン!』の歴史上唯一のステレオ放送を実施。萩本の進行により、当時のメンバーとゲストが過去の傑作VTRを見ながらトークを展開した。
また、メンバーではなかった小堺一機や風見しんご、萩本が司会だった『TVプレイバック』のレギュラーだった石田純一、向井亜紀も交じって出演していた。なお、ゲスト席は上段より「良い席」(貴賓用ソファー)、「普通の席」(普通の椅子)、「悪い席」(茣蓙と座布団)というように分けられていた。系列は現在の系列。放送当時フジテレビ系列局や他系列とのクロスネット局には○を付加してある。2015年に萩本がウェブ放送局「欽ちゃんネル」を立ち上げ、その第1弾として「欽ドン!」シリーズをベースにしたニコニコ生放送「欽ちゃんのドーンとゴールド!」を8月7日より毎週金曜21時より原則1時間放送する。ラジオ放送時代の1974年、番組本『欽ちゃんのドンといってみよう』(番組リスナーの希望者に全員プレゼント(送料分の切手代の同封が必要))が、非売品として発行された。(集英社発行)最初のテレビ『欽ちゃんのドンとやってみよう!』のヒットを受け、ラジオの『欽ちゃんのドンといってみよう!』のものも合わせたコント集『欽ドン! いってみようやってみよう』が、集英社から刊行され、これもベストセラーとなった。続編がNo.6まで出版された。2010年現在は絶版。1982年、エポック社からボードゲーム「欽ドン!良い子悪い子普通の子ゲーム」が発売された。プレーヤー全員が投稿者となって葉書をたくさん出し、どのくらい採用されるか、そして採用されたらどのくらいウケるのかを争っていき、最後に欽ドン賞を取った人が勝ち、というルールだった。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。