LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

吉良持広

吉良 持広(きら もちひろ、生年不明 - 天文8年10月22日(1539年12月2日))は、戦国時代の武将。東条吉良氏(後期)の第7代当主・三河東条城城主。通称は左兵衛佐(さひょうえのすけ)。吉良持清(きら もちきよ)の子、母は不詳。応仁の乱勃発に際し、祖父に当たる吉良義藤が山名宗全の西軍側についたが、もともと、紛争の絶えなかった同族の西条吉良氏は細川勝元の東軍に味方したため、東・西吉良氏は領国三河で戦を交えることになった。続く戦国時代に入っても両吉良氏対立は継続していたなか、東条吉良氏第6代・持清の子として持広は生まれた。持広の頃には東条吉良氏は駿河・遠江の戦国大名今川氏に接近して、尾張の織田氏に款みを通じた西条吉良氏に備えた。その頃、同じく織田氏と対立関係にあった三河の松平氏とも結び織田氏に対抗していた。天文4年(1535年)持広は松平宗家の継嗣松平広忠(当時、仙千代丸、仙松丸とも)が松平一族の紛争で居城の岡崎城を追放されるとこれを保護したと言われ、「三河物語」等では所領のあった伊勢国に招き入れたともいい、今川義元に松平氏救援のとりなしをしたとも伝える。また、天文5年(1536年)広忠の三河再入国には持広の家老富永忠安の同国幡豆郡室城に招き入れ、翌6年(1537年)の岡崎城復帰の実現につなげた。松平広忠の元服加冠に際しては名付け親となり、広忠の名は彼の偏諱(へんき、かたいみな)授与によるとされる。隣国尾張の織田信秀の軍事的脅威の懸念のなか天文8年(1539年)持広は死去した。死去に際して養嗣子の吉良義安が家督した。吉良義安は対立する西条吉良義堯の次男である。しかし、これには子細があるようで、後の遠江横須賀藩の祖になった西尾吉次の家伝はこれを、持広の生前に西条吉良氏の吉良義尭次男の義安を養子とし、持広の実子であった吉次(もとは義次)は幼児のため織田氏に人質として尾張へ送られそこで成長したと伝え、のちに西条吉良家を継いでいた兄の吉良義郷が戦死したため、東条吉良家を継いでいた義安が実家の西条吉良領をも兼領したとする。持広が実子(義次)がありながらも西条の義安を養子とした内容から、西条吉良家との和睦を図ったのだと説明されている。法名は華岳寺殿聖山諦公。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。