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星野仙一

星野 仙一(ほしの せんいち、1947年1月22日 - )は、日本のプロ野球選手、監督、野球解説者。岡山県倉敷市出身。選手時代のポジションは投手。2015年より株式会社楽天野球団取締役副会長。2011年から2014年まで東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務めた。には北京オリンピック野球日本代表の監督も務めた。出生前に他界した父・正田仙蔵が三菱重工業水島工場の工長であり、逝去後も母・星野敏子(両親の姓が違う点については後述)が水島工場の厚生施設「水島クラブ」の管理人の職を斡旋され、同時に仙一を含めた家族全員が水島クラブ内の一室に住まわせてもらうようになった。その関係で仙一は水島工場内のグラウンドで行われる実業団チーム・三菱重工水島野球部(現在の三菱自動車倉敷オーシャンズ)の練習をちょくちょく見物に訪れ、選手たちからも球拾いを手伝わせてもらったりキャッチボールの相手をしてもらったりして可愛がられた。そして倉敷市立水島中学校に進学すると野球部に入部し、本格的に野球を始めるようになる。高校進学に際しては当初、当時岡山東商とともに2強と呼ばれていた岡山県立倉敷工業高等学校への進学を希望していたが、当時はまだ数回しか甲子園に出場していなかった岡山県立倉敷商業高等学校の野球部部長・角田有三教諭から「君の力で、倉商を甲子園に連れていってくれ」と口説かれて進学した。そして星野が入学して以降の倉敷商はどんどんと力を付け、甲子園を目指して最後の夏に東中国大会決勝まで進んだが米子南高校に敗れ、甲子園出場は叶わなかった。県内の1学年下には後の横浜大洋ホエールズのエース・平松政次(岡山東商)がおり、高校時代にも直接対決したことがある。また、ヤクルトスワローズで活躍した松岡弘は、高校時代の1年後輩(高校卒業後三菱重工水島に入社し、星野より1年早くプロ入り)にあたる。なお星野が卒業して松岡がエースとなった翌年も夏の県大会準決勝まで進んだが平松擁する岡山東商に日没引き分け再試合で敗れ、倉敷商は甲子園出場を逃している。当時広島東洋カープのエースだった池田英俊のピッチングフォームの分解写真を見て、自分のフォームの研究、写真を通してではあるが高校時代の目標であり、恩師のような存在と記している。高校卒業後は明治大学政治経済学部経済学科に進学。大学は東京なら早稲田大学、大阪なら村山実の母校の関西大学と決めていたが、倉敷商の矢吹怗一監督から「おれの母校の明大に行け」と命じられて明治大学に進学したという。野球部では1年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学リーグで通算63試合に登板し23勝24敗、防御率1.91、199奪三振。2年生秋には対立教大学戦でノーヒットノーランを記録した。しかし、早稲田大学や田淵幸一・山本浩司(のちの山本浩二)・富田勝の「法大三羽ガラス」率いる法政大学に阻まれ、一度もリーグ優勝には届かなかった。なお、大学の一年先輩にはのちに読売ジャイアンツへ進む高田繁がいた。大学時代は監督・島岡吉郎の薫陶を受け、卒業後も「オヤジ」「明治大学野球学部島岡学科出身」と慕うなど、その後の人生に大きな影響を受けた。その反面、鉄拳制裁も辞さない島岡から殴られることがなかったという。星野曰く、「俺は要領がよかったから」とのことだが、島岡自身は「星野は殴ると理屈をこねそうだったから」と、星野を殴らなかった理由語っている。島岡からは「命懸けでいけ」、「魂を込めろ」、「誠を持て」の3つの教えを徹底的に仕込まれたという。当時の全共闘による校舎封鎖を実力で解除するために、島岡の命を受けて野球部の同輩と共にバリケードへ殴り込んだこともあるという。のプロ野球ドラフト会議で、水原茂が監督就任したばかりの中日ドラゴンズから1位指名を受け入団。自身は阪神ファンであったが阪神と明治大学の仲が悪く阪神から指名された場合社会人野球に行くこととなっていた。少年時代から阪神タイガース投手の村山実に憧れており、村山と同じ背番号11を着けたかったが空いていなかったため、代わりに数字を倍にした22を希望した。入団3年目のに中日のエースナンバーである20へ変更した後も非常に愛着のある番号だったという。1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍、現役通算で8回の二ケタ勝利(うち15勝以上4回)、2回の二ケタセーブをマークしている。には初代最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得するなど、巨人のV10を阻みチーム20年ぶり、2度目のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献。優勝を決めた試合では、胴上げ投手となった。ロッテオリオンズとの日本シリーズでは実質的に3度リリーフに失敗するなど振るわず、チームも2勝4敗で日本一を逃した。からは投手コーチ補佐を兼任。、自身2度目のリーグ優勝を機に現役引退を決意。4月3日、ナゴヤ球場にて行われた阪急ブレーブスとのオープン戦が引退試合となり、先発として登板。先頭打者の福本豊にレフト前ヒットを打たれている。現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。星野は著書の中で「プロのピッチャーとしては200勝に到達できない二流の成績で終わったが、気持ちと気迫と気合いだけは誰にもひけをとらなかった思っている」と記している。引退の際、マウンドへ花束を届けに行ったのは親友である歌手の小田和正だった。ドラフトに際しては、巨人との間に「田淵幸一を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」という約束が事前にあった。しかし、巨人は高校生投手の島野修を1位指名。それを知った星野は「ホシとシマの間違いじゃないか」と言ったという。この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のスタンスを形成させたといわれる。通算成績でも、長嶋茂雄・王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。巨人キラーとしてその名を轟かせた。対巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次、川口和久と星野のみ。その中の最高勝率は星野である。星野本人は「野球中継は当時巨人戦が多く、当時の巨人主催試合の試合開始時間が18時20分で、地元の岡山での放送は20時頃に中継が始まるので、その間に監督から投手交代を告げられないように投げていた。家族や友達に自分が投げていることを見せたかった」と語ったことがある。なお巨人が星野のドラフト1位指名を回避した理由は、星野が肩を壊しているという情報を入手したためであった(実際に肩を痛めたことがあったという)。そのことを現役引退後に川上哲治(当時の巨人監督)から告げられ、それ以降は巨人に対するわだかまりが消えたと自著に記している。巨人キラーと同時に阪神キラーでもあり、対巨人戦を上回る通算36勝を阪神から挙げている。10月20日、9年ぶりの優勝を目指す阪神に対し完投勝利を挙げた。しかし星野本人は阪神と優勝争いしていた巨人に優勝させたくないと考え、この試合では「負けてもええわ」「オレの球を打ってくれ」の気持ちで投げていた。しかし、阪神打線は凡打を重ね敗戦し、巨人はV9を達成した(星野自身も、試合途中で髙木守道に「こんなチームに勝たすことはない」とその無気力投球を咎められ、以後は気持ちを入れ替えて真剣に投げたという)。珍プレーとして有名な宇野ヘディング事件が起きた時にマウンドに立っていたのも星野だった(8月26日、対巨人戦(後楽園球場)、打者は山本功児)。宇野勝のエラーにより得点を許したため、星野はカバーに入っていたホームベース後方でグラブを叩きつけた。その当時、巨人は前年より連続試合得点記録を更新し続けており、この時星野は、後輩の小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」を賭けていたためである(捕手の中尾孝義談)。星野はテレビ番組で「監督に逆らえる選手がいないのがさびしい。選手交代された時に『大丈夫です。まだやれます』という気持ちがある選手が欲しい」と語ったことがある。逆に当時の首脳陣であった近藤貞雄や稲尾和久は自著で「打ち込まれてしまって星野自身が投手交代をベンチに要求してくるので交替させてやったら、さも交替させられたことが悔しそうにグローブを投げ捨てた」と述懐している。近藤は「プライドの高い投手だった。盛りを過ぎてからでも、自分があくまでエースのつもりだった。」と記している。1982年後半には衰えが顕著になり登録抹消こそされなかったが起用されることはなかった。からまでNHKで野球解説者、日刊スポーツ、Numberの野球評論家を務め、にはNHK総合テレビ『サンデースポーツスペシャル』の初代司会者へ就任。1986年シーズンオフ、同年途中で休養した山内一弘の後任として、中日の監督に就任。NPB史上初の戦後生まれの監督となった。球団からの監督要請を受ける時、「召集令状がきた」と感じたという。カメラマンが「笑ってください」と注文をつけると、「これから戦場へ行くのだ。笑えるか」と真剣に怒ったそうだ。総合コーチに木俣達彦、投手コーチに池田英俊、2軍監督兼寮長に岡田英津也を招聘した。就任後は谷沢健一に水面下で引退を勧告し、谷沢は引退。ロッテから落合博満を4対1のトレードで獲得するなど大胆な補強を行い、ドラフトでも1986年に近藤真一、1987年に立浪和義といった即戦力に成り得る高校3年生を他球団との競合の末1位で獲得。投手では川畑泰博、江本晃一、宮下昌己、打者では仁村徹、彦野利勝、小松崎善久、中村武志といった実績のない若手を次々と起用して成功した。山本昌をアメリカ合衆国への留学で才能を開花、先発投手郭源治をリリーフエースに、遊撃手宇野を二塁手に、捕手中尾を外野手に配置転換させるなどチームカラーを一新する。特にレギュラー捕手だった中村への叱り方は厳しいもので、試合中に星野に殴られた中村が鼻血を出してプレーしているということもあったという。山本によると第一政権で抜擢された若手で鉄拳を浴びていないのはおそらく立浪和義ぐらいではないかと記している。1987年5月2日の広島戦では広島のコーチ伊勢孝夫と共に退場処分となり、現役通して初の退場となった。1988年4月19日の阪神戦(岡山球場)で暴言で退場処分、上記2試合の監督代行は木俣。監督一年目1987年の開幕投手は杉本正を星野は起用したが、近藤貞雄はこれに対して開幕投手の指名は「今年のエースはお前だ。シーズンを通して頼りにしてるぞ」という監督の意思表示だ。とすれば、小松しかいない。それが杉本だった。杉本もいい投手だが、シーズン通して頼れる投手ではないと述べている 。杉本は2本本塁打打たれ負け投手。打線も西本聖に抑えれた。監督としてのは初勝利は巨人戦の3戦目(勝ち投手は小松)。この年は仁村徹は規定打席に達しレギュラーになった。2年連続5位のチームを2位にした。同年6月11日、熊本・藤崎台県営野球場での対巨人戦で、宮下昌己がウォーレン・クロマティの背中に死球を与え両軍入り乱れての大乱闘に発展。その際、巨人監督の王貞治に対し拳を突き出し挑発ともとれるポーズをとり、喧嘩を売ったと批判された。後年のテレビ番組内でその際のことに触れ、拳を突き出した件については「拳で殴ることはないでしょう?」という抗議の意味であったと釈明している。年は小野和幸、小松の先発2本柱、抑えの郭、米村明、山本昌、上原晃の若手投手陣に、彦野、立浪、ゲーリー・レーシッチ、落合、宇野、仁村、川又米利、中村の恐竜打線が好調で、1点差試合が34勝15敗を記録した。郭がMVP,、立浪が新人王を獲得した。西武ライオンズとの日本シリーズは1戦目、5戦目先発登板した小野、杉本、山本と先発投手が打ち込まれ、打線も4番落合、5番宇野が低迷し西武に1勝4敗で敗れた。中日生え抜きで優勝した監督は星野だけである。同年オフに巨人とのトレードで中尾孝義を放出し、西本聖を獲得した。1989年は小松、郭、立浪と怪我人が続出し、前年最多勝の小野が振るわなかったが西本が20勝あげるも3位に終わる。は新人の与田剛が抑えで活躍し新人王獲得するもチームは低迷し4位に終わり、監督生活初のBクラスに終わる。はオールスター前首位に立つも、失速し優勝した広島の3ゲーム差の2位。新人の森田幸一は抑えで活躍し球団初の2年連続で新人王輩出した。同年限りで「健康上の理由」(表向きの理由であり、実際には夫人の白血病発症が大きく関係していた)で辞任。辞任後は、に中部日本放送(CBC)の客員解説者、からに再びNHK解説者を務め、並行して1992年からまで中日スポーツ客員。また、沢村賞の選考委員を務めていた(から1995年まで)。9月20日に中日への監督復帰が発表され、同年オフに再任。直後に愛甲猛を無償トレードで獲得、更に前田幸長・村田勝喜も交換トレードで獲得。第二次政権1年目は前年の5位から2位になった。同年は巨人に目の前で優勝を決められ監督としては初の相手球団の胴上げを見ることになった。、9月20日の対巨人戦(東京ドーム)の試合終了後引き揚げてくる審判団を持ち受け、上本孝一審判員に「誰に頼まれた。公平にやれ」と暴言を吐き、もみ合いになった際に田中俊幸審判員に蹴るという暴行を働いた。翌日セ・リーグは星野に厳重戒告と制裁金100万の処分が科された。1月30日に妻と死別。春にナゴヤドームが完成。球場が広くなったことでチームの体質改善が求められたが間に合わず、星野自身も「最下位覚悟で優勝を狙う」と先行きを危ぶむ発言。予想通り開幕から低迷し、高木時代の1992年以来5年ぶりとなる最下位に転落。チーム打率リーグ最下位、チーム防御率5位と投打共に振るわなかった。同年オフ、関川浩一・久慈照嘉を交換トレードで獲得し、大豊泰昭・矢野輝弘を放出し、アロンゾ・パウエルは退団した。投手コーチの小松辰雄は退団し後任に宮田征典を招聘、二宮至が外野守備コーチ、2軍監督には仁村徹が就任。は2位と持ち直し、投手陣は整備されチーム防御率は12球団1位となった。明治大学の後輩であり、前年のパ・リーグ最多勝投手であった武田一浩をFAで獲得したは、の西鉄ライオンズ以来45年ぶりとなる開幕11連勝を飾った勢いでそのまま首位を突っ走り、自身2度目のリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初だった。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズは前評判では中日圧倒的優位だったが、1勝4敗で敗れた。5月6日、ナゴヤドームでの対横浜ベイスターズ戦で、判定への不満から球審を務めていた橘高淳に抗議、暴行を働いたとして退場処分を受けた。この件では立浪和義、大西崇之も審判員への暴行により退場処分となり、後日星野、立浪、大西に対し第三者から異例の刑事告発がなされた(起訴猶予処分)。詳しくは橘高の項を参照。出場停止5日間となり監督代行はヘッドコーチの島野育夫が務めた。同年は2位、優勝した巨人に9勝18敗と大きく負け越した。は巨人キラーとして名を馳せた川崎憲次郎を獲得して臨んだが、その川崎がオープン戦で早々離脱するなどチームは総崩れ、4年ぶりにBクラス(5位)に転落。この年、「健康上の理由」で辞任(これも表向きであり、実際には球団オーナーが大島宏彦から白井文吾に交代したことに端を発する中日球団内の権力争いの影響とチームの成績不振、さらに「続投は既定路線」と決めてかかっていたマスコミへの不信感が重なったものだった)。ナゴヤドーム最終戦で勇退セレモニーが行われた。なお、このとき星野は、同年に巨人監督を退任する長嶋茂雄から「辞めるのはまだ早いから、辞めたらだめだ!!!」と電話を受けたという。中日のオーナーを長く務めた加藤巳一郎からの全面的に信頼を受けていた。著書の中で「私が怒る時は、常に本気で怒る。叱るときは全身で叱る。自らの本心を隠したり抑えたりできないのは、私の長所であり、また、短所でもあるが、少なくともスポーツマンの世界で発揚する理想だと考えている。時には怒鳴り上げ、壁を蹴り、灰皿を投げ付けて怒る。私くらい怒っていることが周囲に丸分かりの監督もいないだろう」と記している。監督時代、第一製薬(現・第一三共)の胃腸薬・センロックのCMに出演。「いつでも夢を」の替え歌をバックにゴルフをラウンドする映像が流れた。また、監督就任前に、ハウス食品の叉焼麺・坦々麺・カレーライス(田淵幸一・山本浩二と共演。ちなみに後年、同じ面子でハウス食品のカレーライスに出演)、郵政省(当時)のかもめーる、フィリップス、ナショナル・シャーボなどのCMに登場。中日監督を退任した直後の2001年オフ、低迷が続いていた阪神タイガースの監督に就任。中日監督時代からの片腕的存在であった島野育夫を中日からヘッドコーチに迎え、チームの改革に取り組んだ。星野をオーナーの久万俊二郎に推薦したのは前任監督の野村克也だという。著書によると野村は任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り、「負け癖のある今の状態の阪神を再建できるとすれば、熱血指導型の西本幸雄さんか星野だ」と考えていた。当時の阪神はOB会が強い権力を持ち、ベンチにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったともいう。星野もオーナーに直談判し、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ」と発言した。星野は著書の中で、『野村さんは阪神での3年間、「弱者が強者に勝つ野球」というものを標榜されていたそうだが、私の場合は「弱者を強者にする野球」だ。野村さんといえばご存知ID野球。野球は考えるスポーツ、頭でやるスポーツとして捉え、指導していくスタイルの人だが、私が阪神で選んだのは端的にいうと体の野球だ。これはどちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、弱いチームの選手を鍛えて、戦っていくための順番として問題として考えてもらえればいいだろう』と記している。就任1年目のには4年連続最下位だったチームを開幕からいきなりチーム史上2度目の7連勝を記録したが、途中で失速し結果的に4位に終わる。同年オフには、広島からFA宣言した金本知憲、テキサス・レンジャーズを自由契約になった伊良部秀輝、中日を自由契約になった久慈照嘉、日本ハムから下柳剛・中村豊らをトレードで獲得するなど、投打の大型補強を行った。翌は、金本、伊良部、下柳、矢野、桧山進次郎、片岡篤史、井川慶、ジョージ・アリアス、ジェロッド・リガン、ジェフ・ウィリアムスら主力選手の活躍に加え、今岡誠、赤星憲広、藤本敦士、吉野誠ら若手が急成長し首位を独走、7月8日にはセ・リーグ史上最速となる優勝マジック49を点灯させた。結局、この年、圧倒的な強さでチーム18年ぶり、監督としては自身3度目のリーグ優勝を果たすが、ダイエーとの日本シリーズでは3勝4敗で敗れる。しかしかねてから星野には高血圧症という持病があり、2002年のペナント開幕戦の対巨人戦では試合後に体調を崩しベンチ裏で記者を待たせ横になっていたことがあったり、2003年7月27日の対中日戦では試合中に気分が悪くなり、1時間ほど指揮をヘッドコーチの島野に任せベンチ裏で横になっていたこともあった。どちらのときも平常時72から135までに安定している血圧値が165から210にまで上昇していたという。日本シリーズ前日、メディアで「星野監督、日本シリーズ終了後に勇退」と報じられ、シリーズ終了後に「健康上の理由」で退任することを正式に発表した。後任には守備走塁コーチの岡田彰布が昇格。2010年に行われた阪神ファンが選ぶ阪神名監督というアンケートで2位岡田彰布に倍以上の差をつけ1位になっている。1月1日に阪神のオーナー付シニアディレクター(SD)に就任した。また、同年5月31日には兵庫県より功労賞を受けた。SDを務める傍ら、アメリカンホームダイレクトやキリンビバレッジ、大和證券、さくら不動産などのテレビコマーシャルに出演し、タレントとしても活動。母校明治大学の評議員となった縁もあり、同大学のイメージキャラクターも務める。2004年10月からは大阪人間科学大学の客員教授にも就任している。また、特定の放送局と専属契約をしないフリーランスの野球解説者として各テレビ放送局のプロ野球中継に出演していた。7月、星野仙一を塾長とする「夢・星野スポーツ塾」がスタート(閉鎖)。10月よりスタートした、日本テレビ系列のニュース番組『NEWS ZERO』のスペシャルコメンテーターへ就任。1月25日、翌年にひかえた北京オリンピック野球日本代表の監督に就任。その翌日には「星野JAPAN」を自身の個人名義で商標登録出願した。「金メダル以外いらない」と公言して臨んだオリンピック本選では4位で、上位3チームには5戦全敗という結果に終わった。北京五輪の結果が4位に終わった事について、大会後の会見では「選手がかわいそうだった」と結果の出なかった選手達を擁護した。一方、自分の采配についての発言が、多くのマスコミやネット上から責任転嫁として批判の対象となった。北京五輪後の2008年10月15日、星野も出席した第1回WBC体制検討会議において、星野が2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督に就任することが内定した。この時点で既に鹿取義隆・武田一浩らをコーチとするところまで予定されていたが、五輪で結果を残せなかった星野の監督就任に対して各方面より難色を示す声が多く、10月22日、星野は自身のHP上で就任をしないと最終的に宣言。代表監督は巨人監督の原辰徳が引き受けることとなった。5月10日より、自ら初のラジオパーソナリティ番組『星野仙一の熱血・仙一夜』がMBSラジオにて放送される。同年10月、東北楽天ゴールデンイーグルスが次期監督として交渉すると報じられ、同19日に阪神退団を発表。その後、同27日に宮城県仙台市内で正式に楽天監督の就任会見を行った。選手・監督通じて初めてパシフィック・リーグ加盟球団に所属することとなった。背番号は中日、阪神監督時代と同じ「77」。初年度となったは3月11日に発生した東日本大震災の影響で、本拠地・クリネックススタジアム宮城(Kスタ宮城)が損壊した事もあり、公式戦開幕が2週間延期され、開幕当初は代替で阪神甲子園球場など関西地方でホーム試合を行なっていた。成績は仙台に戻ってからの5月以降に本拠地で5連敗するなど下降し、8月には7連敗で5位まで落ち込むが、同月後半には逆に7連勝するなどあって一時は3位に浮上し、オリックス、西武とのクライマックスシリーズ進出争いに加わったが、最終的には3位西武と3ゲーム差の5位に終わる。楽天の監督として日本野球機構の関係者に嘆願し、震災復興を名目としたこの年のオールスター第3戦がKスタ宮城で開催されることになった。5月11日、対オリックス7回戦(京セラドーム)において、投手出身監督、及び戦後生まれの監督としては初となる監督通算1000勝(876敗42分、2012年5月11日当時)を達成した。2004年の王貞治以来、史上12人目の記録となった。ちなみに翌12日も勝利し、自身の名「仙一」と同じ1001勝目となった際、「おーっ、2000勝まであと999勝か」とコメントして報道陣を笑わせた。岩隈久志、山崎武司の退団に加え、前半戦は田中将大、松井稼頭央、嶋基宏、ルイス・ガルシアら主力の離脱が目立ち戦力低下が不安視されていた。しかし、釜田佳直、辛島航、枡田慎太郎、銀次などの生え抜きの若手を抜擢、リリーフだった美馬学を先発に転向させるなど、徐々に頭角を現す。これらの若手選手は「星野チルドレン」とも呼ばれた。5月20日、福岡ソフトバンクホークスと入れ替わりで3位に浮上。その後も上位争いを続け、7月18日に球団創設8年目で初の前半戦を勝率5割以上、Aクラスターン入りの3位で終えた。後半戦は復帰したベテランが不調で引き分けを挟み、8連敗で5位に転落。8月中旬の西武戦では開幕戦以来となる同一カード3連敗を喫した。しかし9月に入ると勢いを取り戻し、7日からの西武戦で3連勝して4位に浮上。最終的に3位ソフトバンクと1ゲーム差の4位となった。最終戦に勝利し、勝率はちょうど5割となった。4月19日の対千葉ロッテマリーンズ戦(QVCマリンフィールド)の8回表二死一塁の場面で、アンドリュー・ジョーンズの打席、二死一塁カウント1ボール2ストライクから成瀬善久が放った外角低めいっぱいのストレートを見逃し三振と判定される。これを不服とし球審の橋本信治に暴言を吐いたとして2002年8月23日の対巨人戦以来3892日ぶり退場処分を受けた(通算6度目、楽天監督就任後初の退場処分)。前半戦は球団初の首位で終えた。9月26日の対西武戦(西武ドーム)で球団史上初のリーグ優勝を達成した。異なる3球団をリーグ優勝させた監督は三原脩、西本幸雄に続き史上3人目。2013年の巨人との日本シリーズでは4勝3敗で日本シリーズ制覇を達成し、楽天初と同時に自身初の日本一になった。66歳でのリーグ優勝と日本一は、2000年の長嶋茂雄を超えるプロ野球最年長優勝記録である。、5月26日に持病の腰痛が悪化、この日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)を休養。同戦は一軍投手コーチの佐藤義則が指揮を執った。その後の検査で難病(=特定疾患)の一種である腰椎椎間板ヘルニアと胸椎黄色靱帯骨化症と診断され、翌27日、球団は星野の同日以降の休養を発表し、佐藤義則が監督代行を務めることを発表した。その後手術を受け、無事に終了したことが6月17日球団から発表されている。6月30日にはこの年監督として指揮を執るはずであった、オールスターゲームの出場を辞退、星野は総監督に就き、佐藤がオールスターゲームの監督代行をつとめることになったが、7月2日付で楽天の監督代行に大久保博元がついたことから(佐藤は一軍投手コーチに専念)、オールスターゲームの監督はいったん白紙に戻された。NPBは星野にオールスターゲームの監督を要請し、7月3日に星野がオールスターゲームで指揮を執ることが発表したが、7月12日に球団から体調の回復が間に合わないとして、指揮を辞退することが発表された。7月24日の楽天の全体練習から監督に復帰、翌25日の対日本ハム戦(楽天Koboスタジアム宮城)から試合に復帰したが、この年はチームは低迷。9月18日に今季限りでの監督退任を発表、同日行われた記者会見で星野は退任の理由を成績不振とこの年2カ月離れていたことを挙げている。シーズン最終戦の10月7日の対オリックス戦に敗れ、最下位が確定。前年優勝チームの最下位は史上5度目で、星野は飯田徳治、別当薫、根本陸夫、近藤昭仁、野村克也に次いで史上6人目の両リーグで最下位の監督となった。2014年11月9日、楽天のシニアアドバイザー就任が発表された。2015年9月、株式会社楽天野球団取締役副会長に就任。監督としては「闘将」「燃える男」の異名を持つなど、熱血漢として知られ、時には「鉄拳制裁」と称して選手を殴るなど、指導のためには暴力を用いることも辞さなかった。例えば、独身の若手選手が少しでもミスをすると、すぐに暴力を振るうほどだったという。反面、レギュラークラスの選手で、既婚者に関しては、激高することはあっても、暴力を振るうことはなかったという。良い監督の条件を「担当記者との緊密なコミュニケーション」としており、番記者との朝食会・昼食会を頻繁に行い、コーヒーやオムライスなどを振舞いながら長時間雑談するのを常にしていた。週刊誌AERAは「マスコミを味方に付けた状況判断と手際のよさは天才的」と評し、工藤健策は「プロ野球史上最高の『名優』」と評する。一方、上記のように中日監督時代に2度、阪神監督時代に1度リーグ優勝しながら日本シリーズではいずれも敗退し、北京五輪でもメダルを逃したことで「短期決戦に弱い」との評価もされていたが、楽天監督としてリーグ優勝した2013年にはクライマックスシリーズを4勝1敗(アドバンテージ1勝を含む)で、日本シリーズを4勝3敗でそれぞれ制し、自身初の日本一となった。中日監督時代より数多くの激しい抗議をしていたが、元セ・リーグ審判員の谷博によればほとんどがファンを盛り上げるための演技で、審判に断りを入れてから開始していたという。阪神時代もグラウンド上で闘将ぶりを発揮したが、一方でマナーの向上をファンにアピール。監督として中日(4回)、阪神(1回)、楽天(1回)合わせて6度の退場処分を受けている。現役時代はなし。中日監督時代から、先述の中村武志を初めとした、高卒ルーキーの抜擢や若手の育成に定評がある。654打数134安打(.205)15本 59打点2008年に行われた北京オリンピックにおける野球競技では、監督として日本代表を指揮した。

出典:wikipedia

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